第106話 ニケルベンベ


 今の僕は、本気である。


 今回狙うのはアリアレイクに棲息する幻の魚――ニケルベンベだ。


 ニケルベンベはアリアレイクに確かに棲息すると言われている魚だが、これまでその魚を釣り上げた者は殆どおらず、捕獲例も少ない非常に希少な魚である。


 ニケルベンベが釣れるのは夜間のみで、アリアレイクの北側がポイントだと言われている。実際、僕も以前一度だけ北門のすぐ側でそれらしき引きを味わったことがあるが、焦りのあまりバラしてしまった。


 一生の不覚であり、今でも思い出すと自分の未熟さに悔しさで涙が溢れてくる。ニケルベンベを釣り上げたことのあるらしい師匠ですら、「奴は⋯⋯一筋縄ではいかない。釣り上げられたのは、奇跡に他ならん」と言っていたので、本当に惜しいことをしてしまったのだ。


 以来、僕は奴にリベンジを誓ったが、それは未だ果たされていない。


 上着の内ポケットに最小化したまーちゃんをしっかりしまった僕は、暗色のフード付きの外套を纏い、身体強化した上で採掘者街の暗い路地を慎重かつ素早く進んでいた。

 煌々とした灯りに照らされた、路地から窺える通りには、採掘者マイナー達が和気藹々とした様子で歩いており、夜にも関わらず人通りは多い。


 依頼や採掘跡の探索を終え、今からどこかの酒場にでも向かうのだろう。はしご酒でもしているのか、既に機嫌良さそうな赤ら顔で歩いている人たちもいる。


 採掘者は基本的にお酒が好きだ。採掘者街にも多くの酒場がある。命を懸ける事も多い職業柄だろうか、彼らは抑えきれない高揚や恐怖、疲労を酒と共に呑み干し、同時に英気を養うのだ。仕事を終えた後に飲む酒は、彼らにとって大きな癒やしとなるのだろう。


 大いに結構なことである。採掘者さんたちのおかげで僕らは豊かな暮らしを送ることができているのだ。本当にありがたい。

 彼らには仕事終わりの至福の時間を存分に楽しでもらいたいところだ。


 しかし、今の僕にとってはそんな採掘者たちで賑わう通りは少々都合が悪かった。


 採掘者となる者は、基本的に強さだけではなく品位も求められるため、見た目が厳つかったり荒々しい雰囲気を纏っていたとしても、常識は弁えている人が殆どだ。


 アリスのように才能に溢れており、種族柄多少人格に問題があっても許されている癖のある採掘者もいるが⋯⋯いや、彼女の場合は上手いこと周りを騙しているのかもしれない。


 普通は採掘者と接触することは何の問題もない。僕はあらゆる面倒ごとの芽を潰しているため普段から避けているけど、普通は問題ないのだ。

 なので、例え採掘者ではなくとも通りを堂々と歩いても構わないだろう。


 だが、僕には一つの懸念があった。


 ――言っとくけどな、てめぇは今採掘者の間じゃ割と有名人だからな――


「しまったな⋯⋯」


 いざ採掘者街を通り抜けようとした時に、僕はアリスがそう言っていた事を思い出したのだ。

 せっかくニケルベンベを狙うのだから、レット君も誘おうと思ってここまで来てしまったが、どうするか⋯⋯引き返すべきか⋯⋯。

 いや、どちらにしろ、アリアレイクの北側に出るには採掘者街を通り抜けるのが一番早い。

 

 僕は釣り用の外套のフードを深く被った。

 これは人の気配に敏感な魚にも気づかれにくいよう、非常に地味で目立たない物だ。これを纏っていれば、そうそう僕だと気づかれることはないだろう。僕の顔が割れていたとしても、覗き込まれたりしない限りは大丈夫なはずだ。

 街中なら逆に目立ってしまう格好かもしれないが、ここは採掘者街。色んな装備や服装の人がいるし、違和感はないだろう。


 《狩人》が使えれば良かったが⋯⋯まあ、僕は素の状態でも気配を殺す事には自信がある。

 バレたとしても、僕の逃げ足の速さは脱兎に一目置かれているのだ。今だって常に身体強化を怠っていない。


 見せてやるよ――僕の影の薄さを。


 僕は魔導学園で編み出した奥義〈風景同化そっとしておいてください〉を使い、路地から出るとレット君の家を目指すのだった。







 目立たないよう慎重に慎重に進み、時には水路を泳ぎ、僕はレット君の家の前に無事辿り着いた。

 彼は二階建ての漆喰壁の中々良い家に住んでおり、家のすぐ裏手には水路が流れている。暇な時は窓から釣りもできるのだ。本来王都の水路は何処でも釣りが許可されているわけではないが、レット君はちゃんと申請して許可を得ているため、問題はない。贅沢な暮らしをしていて大変羨ましいが、改めて考えてみるとこの家を借りているのはエルだった。

 僕にも一軒用意してもらえないものだろうか。もちろん家賃は格安で。


 最近シアラとテセアが加わった『白の道標ホワイトロード』は、はっきり言って明らかに部屋が足りていない。せっかく畳を敷いた僕の部屋だが、今は二人が主に使用している。僕はまーちゃんを含めた荷物を置いているだけであり、眠る時は一階の応接用のソファで寝ていた。


 フィオナもノエルも店長も――というより、皆別に相部屋でも良いと言ってくれたが、良いわけがないだろう。良いわけがないだろう。

 シアラとテセアはともかく、良いわけがないのだ。


 まあ、別に僕は寝られればそれで十分なので、ソファでも構わないのだが⋯⋯問題は男女比が明らかにおかしい事である。

 これはシアラたちが来る前からずっと思っていたことだが、僕の肩身は非常に狭い。


 しかも皆あまりにも警戒心がなく、何というか⋯⋯うん。

 まあとにかく、僕が居ることをもう少し意識して欲しい。色々と心臓に悪いから。今は部屋に閉じこもる事もできないし。


 僕は本気で一人暮らしを考え始めていた。

 レット君程の家を求めなければ、十分可能だろう。せっかくの三食寝床付きというメリットを手放す事にはなるが、僕の心の安寧のため必要な措置だ。背に腹は代えられない。

 しかし⋯⋯そういえば今日、散財したんだよなぁ⋯⋯。


 やはり、エルに頼んで格安で⋯⋯いや、やめておこう。流石に申し訳ないし、僕の本能が危険信号を発している。

 というか、ここで真っ先に誰かに頼ろうとするところが本当に救えない。僕は一体いつからこんなダメな人間になったのだろうか。最初からか。


 まあ一人暮らしのことは後で考えよう。

 僕は一つ息を吐き、腰のポーチから鍵を取り出すと、玄関の鍵を開ける。

 僕らはマブダチなので、当然合い鍵は持っている。僕らの間に垣根はなかった。


「レット君! ニケルベンベ釣りに行こうぜ!」


 そう言いながら扉を開き――


「⋯⋯⋯⋯」


 僕は静かに扉を閉めた。

 一度眉間をもみほぐし、もう一度扉を開ける。


「⋯⋯⋯⋯何やってんの?」


 そして、何故か天井から伸びたロープで身体をぐるぐるに巻かれ、宙づりになっていたレット君へと尋ねる。やはり幻ではなかったらしい。

 まさか親友の家の扉を開けた瞬間、こんな光景を目にするとは思いもしなかった。


「⋯⋯おう、ノイルん」


「うん⋯⋯」


 レット君は宙づりの状態のまま、力ない笑みを浮かべる。


「悪ぃ⋯⋯今日は無理だ」


「そう⋯⋯」


「ボスに、明日までこのまま反省してるようにって言われちまってよ⋯⋯」


「なんで?」


 とりあえず、親友が新たな趣味に目覚めたわけじゃないようで安心したが、意味がわからない。何がどうなったらそうなるの?


「わかんだろ?」


「ごめんわからない」


 レット君はふっと自虐的に微笑んでそう言うが、自宅の玄関で宙づりにされてる理由は何一つわからない。


「ノイルんより⋯⋯ケツを選んじまったからだよ⋯⋯」


「ああ⋯⋯」


 死ぬほどどうでもいい理由だった。


「そういうわけだからよ⋯⋯俺のことは気にしないで、ニケルベンベを狙いに行ってくれ」


「いや、記憶にこびりついたよ。ふとした時に思い出すよこれ。というか、下ろすの手伝うからさ⋯⋯朝になったらこっそり戻ればいいよ」


「そいつは、ダメだ」


「なんで?」


「精霊の監視がついてんだ」


「ああ⋯⋯」


「ズルして縄を解いちまったら⋯⋯その瞬間俺の釣具いのちがやられちまう」


「そう⋯⋯」


「だから⋯⋯行ってくれ、振り返らずに」


「うん⋯⋯」


「へへ⋯⋯ニケルベンベの野郎に、よろしくな」


「釣れたらね⋯⋯」


 僕は静かに扉を閉め、再び鍵をかけて合い鍵をポーチにしまい、大きく伸びをする。


「さーて⋯⋯待ってろよニケルベンベ!」


 そして、たった今起こった出来事を頭の中から綺麗さっぱり消し去り、振り返らずにその場を後にするのだった。







 僕は人通りが少なく、薄暗い路地を選び採掘者街を進んでいく。どうしても避けられない大きな通りなどは〈風景同化〉でやり過ごす。馬車などの移動手段もあるが、夜はあまり走ってはいないしお金もかかる。それに、《狩人》は使えないが、今なら身体強化だけでも街中の馬車よりは速く走ることができるので、特に利用する必要はないだろう。


 そうして、可能な限り素早く採掘者街を進み、そろそろ商業区と居住区を分ける門が近づいてきた時だった――


「はぁい! マイフレンド!」


「⋯⋯⋯⋯」


 他に人のいない暗い路地で、キラキラに輝く人に出会った。

 高い漆喰壁の建物に挟まれた、人が一人二人程度すれ違えるかどうかの路地は両手を広げたその人に塞がれる。


「人違いです」


「んノンノンノン! んノンノンノンノンノンノンノン!」


 うるさい。

 物凄くうるさい。

 誤魔化して無理やり脇を通り抜けようとしたら、両肩を掴まれ歯をキラッキラさせながら、目の前で頭を激しく左右に振ってくる。


「君は間違いなっく! んノイルだぁ!」


「あ、はい」


 僕の被っていたフードを大仰な仕草で取り払い、ばちんという音が聞こえてきそうなウィンクをされてしまえば、流石にスルーはできない。未だに片手は僕の肩を掴んでいるし。

 僕は諦めて一つ息を吐き、改めて彼と向き合った。


「何ですか? クライスさん。僕今ちょっと忙しくて。ニケルベンベが待ってるんですよ」


「ハハハ! つれないねぇ!」


「そうなんです、ニケルベンベは滅多に釣れないんですよ。だから急がないと」


「ニケルベンベが逃げーるベイベーってねぇ!」


 やかましい。


 ああ、だから嫌だったんだ。

 別にクライスさんのことは決して嫌いではないが、ひたすら無駄に時間を取られる。普段なら別に全然構わないのだが、今夜はせっかく誰にも邪魔されず釣りができる夜なんだ。

 何とかして早いとこ切り抜けないと。もういっそのこと、クライスさんも釣りに誘ってしまおうか。男なら皆釣りが好きだし。


「⋯⋯鳴ってませんよ」


 考えを巡らせていたら、クライスさんが指笛を吹いていた。しかし全く音が鳴っていないので思わず指摘してしまう。何がしたいのだろうかこの人。


「いーや! これでオッケェイ! さぁ!」


 クライスさんは相変わらず片手は僕の肩を掴んだまま、口からもう片方の手を離すと、きらっきらの笑顔で僕へとぐっと親指を立てる。

 唾液で指もきらっきらだった。


「一体何が⋯⋯」


 僕が尋ねようとした瞬間――とん、と軽やかな音が背後から聞こえた。

 何事かと首だけを振り向かせる。


「良い夜だな、ノイルん」


「し、師匠」


 そこには、片手に紙袋を持った師匠が悠然と立っていた。どうやら、上から現れたらしい。どこからか跳んできたのかはわからないが、先程の軽やかな音は師匠の着地音だったようだ。

 何故クライスさんのちっとも音が鳴っていなかった指笛で、師匠が登場したのかはわからないが、ちょうどいい。


「こんばんは師匠。今からニケルベンベを狙いに行くんですけど、一緒にどうですか?」


 一度奴を釣った経験のある師匠が共に居てくれるなら、非常に心強い。出会ってしまった時にはどうしたものかと思ってしまったが、師匠を呼んでくれたクライスさんには大感謝だ。さあ、皆で一緒に釣りに行こうじゃないか。


「ニケルベンベ⋯⋯」


「はい! ニケルベンベです!」


「ふむ⋯⋯」


 師匠は自らの指を軽くなめると、ピンと伸ばした。そのまま何かを感じ取るように少しの間瞳を閉じていた師匠は、手を下ろすとゆっくりと目を開ける。


「まだ、その時ではない」


「すげぇ⋯⋯」


 僕は思わずそう呟いてしまう。

 今の動作だけで、今夜ニケルベンベが釣れるかどうか見極めたらしい。残念ながら今夜は無理なようだが⋯⋯感動してしまった。なんて人だ。彼の領域に辿り着ける気がしない。格が違いすぎる。僕と師匠とでは、何もかもが違う。


「わかりました。じゃあ普通に夜釣りに行きましょうか」


 ニケルベンベだけが釣りの全てではない。ニケルベンベが釣れないのならば、他の魚を狙うまでだ。ニケルベンベはまたの機会にしよう。なに、ニケルベンベとは元から長期戦を覚悟している。ニケルベンベのことは今夜は一旦忘れよう。


 僕は尊敬の眼差しを師匠に向けながら、改めて提案した。


 しかし――


「いや」


「え?」


「そんなことよりもだ」


 がくんと――膝から力が抜けた。

 僕はその場にへたり込む。


 師匠が⋯⋯師匠が⋯⋯釣りをそんなことって⋯⋯。

 ショックだった。途方もなくショックだった。

 師匠は、釣りを愛していると思っていたのに⋯⋯そんなこと呼ばわりするなんて⋯⋯。


「ミーナが体調を崩している」


「⋯⋯⋯⋯え?」


 この世の全てを信じられなくなり、呆然と放心していた僕の耳に、そんな言葉が飛び込んできた。


「だから! ん俺達は君を探していたのさ!」


 クライスさんがへたり込んだ僕の肩を優しく連打する。すごい速さだ。何連打だろう。意味がわからない。割と心地よい振動だから困る。


 しかし⋯⋯ミーナが体調不良? だからエルたちと一緒に居なかったのか?


 そりゃ⋯⋯まあ⋯⋯実の娘に比べたら、釣りをそんなことと言ってしまうのもしかたないか⋯⋯。

 良かった。師匠はやっぱり師匠だ。


 ほっとして顔を上げると、師匠が紙袋を差し出してくる。


「見舞いに行ってやってくれ、ノイルん」


 そして、僕へとそう頼むのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る