第91話 穏やかな時間③


「ノイルさん⋯⋯身体を拭いて貰えますか?」


「さっきも拭いたよね」


 『白の道標ホワイトロード』によく似た建物、その一室でベッドに横たわった魔法士ちゃんが切な気な表情を浮かべ、僕にそう言った。


 畳の敷かれたこの部屋は、僕の部屋と非常に酷似している。どうやら普段『六重奏セクステット』の皆が過ごしているこの空間――精神世界とでもいうのか、そこは僕のイメージが大きく影響しているらしい。

 現実の僕の部屋にはまだ畳が敷かれていなかったはずだが、僕の頭の中では既に想像できていたため、こちらの世界の僕の部屋は畳張りとなっていた。

 まあここでは魔法士ちゃんの部屋になったらしいが。


 どういう取り決めがあったのかは知らないが、基本的には魔法士ちゃんが使用している。


「でも⋯⋯また少し汗を⋯⋯」


「かいてないよね?」


 潤んだ瞳でそう訴えて来る魔法士ちゃんは、普段の厚手のローブは着用しておらず、簡素なシャツとズボンを身に着けていた。明らかに僕のもので、恐らくはこの部屋にあったのだろうと思う。

 そんな彼女に僕が何故こんな要求をされているのかだが、《六重奏》の反動で今彼女達はあまり身体を動かせないらしい。

 他の皆も、別室で寝込んでいる状態だった。


 精神世界ここと現実の時間の経過が一緒なのかはわからないが、現実の僕も《白の王ホワイトロード》の反動で未だ眠りについているのだと思う。

 皆が居るこの空間に来てから、既に数日が経過している。これ程長い間皆と過ごすのは初めてだった。


 その間僕は、感謝の気持ちを込めて動けない皆の世話を買って出たのだ。皆のためならば、何でもするつもりでいた。どんな要求にも応えてあげるつもりだった。実際、この数日の間は僕にできる事なら何でもしていた。その甲斐あって、皆も最初よりは回復している。今は身体が重い程度で、少しは動けるようにはなっていた。


「そんな⋯⋯よく見てください、ほら!」


「脱がないでね」


 魔法士ちゃんがベッドの上で毛布を捲り、シャツを捲し上げ、露わになった上半身から僕は目を逸らす。

 多少動けるようになったせいで事態は悪化していた。


「ちゃんと⋯⋯私を⋯⋯見て⋯⋯!」


「うん、わかったから。身体起こさないでね、無理しないでね」


 シャツを脱ぎ辛そうに身体を起こした魔法士ちゃんを正面から見ないように、僕は彼女の背後に回ってその肩に手を置いた。

 細く華奢な肩、滑らかな素肌の感触。


 この数日の間に何度彼女の身体を拭かされたのかわからない。何度も拭く意味があったのかもわからない。

 まあ平時ならともかく、病人の世話をする時に邪な感情を抱く者はいないだろう。

 別に彼女達は病人というわけではないが、似たような状態だ。だから僕は劣情を抱く事などなかったわけだが――


「ぁ⋯⋯ん⋯⋯」


 元気になってこられるとそういうわけにもいかなくなる。

 だから肩に触れただけで扇情的な声を出すのは止めていただきたい。

 僕は一つ息を吐き、魔法士ちゃんが脱いだシャツを再び彼女に着せる。

 普段なら抵抗されたかもしれないが、まだろくに動けない魔法士ちゃんは、大人しくシャツに袖を通してくれた。

 その際に少し乱れたストロベリーブロンドの髪を手櫛で梳かしながら、僕は彼女に声をかけた。


「それじゃ、僕は皆の様子を見に行くから。ちゃんと寝ててね」


「行かないで⋯⋯ください⋯⋯」


「いや⋯⋯魔法士ちゃんだけに付きっきりってわけにはいかないから」


「あんな人たち⋯⋯どうでもいいじゃないですか⋯⋯!」


「大切な仲間だよね?」


 何てこと言うのこの子は。

 お母さんそんな子に育てた覚えはないわよ。


 まあ、本気で言っているわけじゃない。

 六重奏の絆の深さを、僕は良く知っているから。

 僕は苦笑して、そっと魔法士ちゃんの身体をベッドに寝かせて毛布をかけた。

 潤んだ瞳がこちらをじっと見つめている。


「ノイルさん、好きです」


「うん、僕もだよ」


 突然そう言われ、思わず僕も反射的にそう言ってしまった。


「え?」


「ん?」


 魔法士ちゃんがぽかんと口を開ける。

 僕は自分が何を言ったのか、魔法士ちゃんがどういう意味で言ったのか冷静に考えてみて、しどろもどろになった。


「⋯⋯あ、いや今のは⋯⋯」


 仲間として、人としてという意味であってその、ね?

 違うんだよ、勘違いしないでよね。とか言ったら最低だろうか。最低だね、うん。

 でも、ちゃんと訂正はしておくべきだ。


 大丈夫、僕は元々クズだから。

 大丈夫、数発殴られる覚悟はある。

 大丈夫、後で僕も自分を殴るから。

 だから勘違いしないでよね。


「⋯⋯魔法士ちゃん?」


 そう思い、覚悟を決めて改めて魔法士ちゃんを見た僕は、その顔の前で手を振った。

 彼女はぽかんと口を開けたまま、微動だにしなくなっていた。


「⋯⋯⋯⋯すいません、本当」


 呼吸を確認し、僕は魔法士ちゃんに謝罪すると、汚属性らしくこそこそと逃げるように部屋を後にするのだった。







「お前⋯⋯やらかしたな」


「あ、はい」


 馬車さんにそう言われて、僕は力なく頷くしかなかった。

 場所は『白の道標』――に、良く似た建物の一室だ。とはいってもここは誰の部屋でもなく、ベッドと机、収納などがある特徴のない部屋だった。畳の部屋以外はごく普通の部屋となっているからだ。まあ、僕は現実の皆の部屋とか良く知らないしね。店長の部屋にキモい絵が大量に貼ってあったのは知ってるけど。


 『白の道標』は本来六部屋もないわけだが、ここは畳の部屋を含めてしっかり人数分の部屋があった。その一室一室を『六重奏』の皆はそれぞれ使用している。


 ベッドの上で身を起こした彼は、普段頭に巻いているバンダナを外しており、燃えるような赤毛の髪も下ろしている。整ったその顔にははっきりと呆れの色が浮かんでおり、アメジストの瞳は床に姿勢を正して座った僕を哀れむように見ていた。


「まあ⋯⋯あいつもお前がそういう意味で言ったんじゃねぇってのは、すぐ理解すると思うけどよ⋯⋯ちょっと軽率すぎやしねぇか? マジで責任取るしかなくなるぞ。そうなったら俺ら兄弟になんだぞおい」


「兄弟になるのは別にいいけど⋯⋯」


「兄貴って呼んでくれ」


「ぐぅぅぅぅ何かむず痒い⋯⋯!」


「ぐぉぉぉぉ俺もだ⋯⋯!」


 二人して身悶える。

 違和感が物凄かった。


「はぁ⋯⋯はぁ⋯⋯とにかく、もちっと発言には気をつけろ。取り返しがつかなくなる前に。特にお前は⋯⋯」


「はぁ⋯⋯え、何?」


 何かを言いかけて、馬車さんはふと考え込むように僕の顔をじっと見た。一つ息を吐き、ゆっくりと頭を振る。


「⋯⋯⋯⋯いや、大変だよなお前⋯⋯」


「え?」


「まあ⋯⋯何かあったら相談しろよ」


「あ、はい」


 そして、馬車さんはそう言うと、再び哀れむような瞳を僕に向けるのだった。







 次に僕が向かったのは、癒し手さんの部屋だった。

 しかし部屋に入った瞬間僕は、勢い良く退出して扉を閉める事となった。


「あら? どうしたのノイルちゃん?」


 何故ならば、癒し手さんは全裸だったからだ。

 ちゃんとノックをして、返事を貰ってから部屋に入ったのに、ベッドの上で身を起こしていた彼女は何故か全裸だった。そんな全裸の癒し手さんは、全裸を見られたにも関わらず、それを意にも介さぬように部屋の中から僕へと声をかけてくる。

 一方の僕は、動揺しながら煩く鳴る心臓を必死に鎮めていた。


「ふ、服を着てください」


「どうして?」


 どうして? 

 どうしてどうしてって聞かれるの?

 おかしくない?


「見慣れているでしょう?」


 いや見慣れているけど。

 確かに、癒し手さんとはまだ幼い頃からの付き合いだ。それこそ僕がまだ性など意識せず、鼻水垂らしてた頃からの付き合いだ。

 思い返してみれば、その頃から何故か癒し手さんは度々服を脱いだり、僕を服の中に入れたりしていたが、良く考えてみればおかしい。

 良く考えなくてもおかしい。


 鼻水垂らしてた当時の僕は特に何も思わなかったが、もう僕は鼻水を垂らしていないのだ。

 しかも、癒し手さんは当時から全く見た目が変わっていない。

 その色々とボリュームがあり、はっきり言ってセクシー過ぎる身体は、少々今の僕には刺激が強過ぎる。僕はもう、大人なのだ。ノイルくんではなく、ノイルさんなのだ。


「あの、僕ももう、一応大人なので」


「知ってるわ。色々立派になったわよね」


 色々?

 色々って何?

 ねえどこまで見てるの?


「本当に、大きくなったわぁ」


 何でいやらしい意味に聞こえるんだろう。

 この世は不思議である。


「でもね、私にとっては、可愛いノイルちゃんなのは変わらないのよ。あなたがどれだけ大きく、立派になってもね」


 慈しむような、母性を感じさせるような声で、癒し手さんはそう言った。

 その優しい響きに、じんわりと胸が温かくなる。

 僕は母親というものを知らないが、もしかしたら、僕が彼女に抱いているこの気持ちは、子が母に向けるそれと似ているのかもしれない。


 何だか、癒し手さんをいやらしいと思っていたのが、途端に申し訳なく、そして馬鹿らしくなってきた。

 もし、彼女が僕を我が子のように可愛がってくれていたのなら、そんな事を思うのは失礼だ。

 多少言動がおかしな所はあるが、その優しさで、幼い頃から今までずっと僕を見守っていてくれたのだから。

 僕は母の居ない寂しさなど感じたことはなかったが、それは癒し手さんが居てくれたのも、大きかったのかもしれない


 まあでも――


「服は着てください」


「⋯⋯仕方ないわね」


 例え母親のような存在であっても、服は着ていて欲しい。

 だって実際の母親でも全裸だったら嫌だと思うから。


 扉越しに衣ずれの音が聞こえる。

 そもそも何故全裸だったのか知らないが、ちゃんと服を着てくれているらしい。


「いいわよ、ノイルちゃん」


 しばらく待っていると、中からそう声をかけられ、僕はほっと息を吐いた。

 そして改めて扉を開け――


「全裸じゃん!」


「一度は着たのよ?」


 再び勢い良く閉めるのだった。







「あはは、それは大変だったね」


「笑い事じゃないって⋯⋯」


 僕は変革者へとスープを飲ませながら、深い溜め息を吐いた。

 因みにこのスープだが、僕が作ったものだ。どうやらこの空間では、僕がイメージすれば食材なども準備できるらしい。

 皆に食事が必要なのかはわからないが、少しでも栄養となってくれたらいいと思う。


「ん⋯⋯」


 僕が差し出したスプーンを、変革者は艶やかに、それでいて可愛らしく咥える。

 何だろう、何かイケない事をしている気分になってくる。スープを飲ませているだけなのに、背徳感を感じてしまう。

 スプーンから口を離した変革者は、赤い舌で唇をちろりと舐めた。

 何だ、この抱きしめたくなる衝動は。

 もうどっちでもいいかなって気分になってくる。


「美味しいね。ん? どうしたのかな?」


 自分の中の衝動と必死に葛藤を繰り広げていた僕の顔を、変革者が下から上目遣いで覗き込んでくる。

 止めてくれ、それ以上はいけない。狙っているのだろうか。いや、多分これは素だ。だからこれ程愛らしいのだ。

 小動物的な可愛さというか⋯⋯僕はもしかしたら疲れているのかもしれない。


 一度目を瞑って頭を振り、僕は変革者に向き直った。


「ん?」


 彼? 彼女? は、こてんと小首を傾げ、そんな僕を見てくる。

 僕は自分の頬を両手で打った。

 小気味のいい音が鳴り響き、変革者が目を丸くする。


「どうしたんだいいきなり? 大丈夫かな?」


「ちょっと⋯⋯煩悩を、ね」


「本当に大丈夫かい? 自分に何かできる事はあるかな?」


 頬を腫らしてクールな笑みを浮かべる僕に、変革者はなおも癒やされるような言葉をかけてくる。

 これではっきりと女性だとわかっていれば、僕はもうダメだったかもしれない。

 そんな事を考えている時点で、僕はもうダメかもしれない。


「⋯⋯食器を、片付けてくるよ」


「ああ、うん。ありがとうノイル。とっても美味しかったよ」


 屈託のない笑みを向けられ、僕は堪えきれずに立ち上がった。

 一瞬、性別など何の意味があるのだろうかと思ってしまった。僕はもうダメだ。


 自分を保つ為に無理やりクールな笑みを浮かべ、僕は変革者の部屋から退散するのだった。







 心が不安定になった時、僕が頼りにするのはそう、守護者さんだ。

 ベッドの上で身を起こした彼の肩を揉みながら、僕はその逞しい身体が心に落ち着きを与えてくれるのを感じていた。

 気持ちの悪い事を言っている気がするが、本当に安心するのだから仕方ない。


 普段身に纏っている鎧を脱いだ守護者さんは、穏やかな表情で僕のマッサージを受けていた。


「すまんな、ノイル」


「いえ、これくらい」


 任せてくださいよ。

 あなたは僕の精神安定剤なんです。

 いつだって頼りにしている相手のためならば、これくらいはお安いご用だ。

 それにしても――


「すごい筋肉ですね」


「む? そうか?」


 腕なんか僕の倍以上あるよこれ。

 何て頼り甲斐のある身体なんだ。

 ガルフさんもすごい筋肉だったが、守護者さんはそれ以上に見える。

 これが真の男というやつだろう。僕もこうなりたいものだ。無理だろうけど。


「はい、憧れます」


「ふふ、いざという時は皆を守らねばならんからな。それなりに、鍛えてはいるつもりだ」


 やだ、かっこいい。

 僕が女の子だったら惚れている。

 そのいぶし銀な笑みに、心を奪われていた事だろう。

 守護者さんって顔も格好良いしね。


「ノイルもどうだ?」


「あ、止めときます」


 僕は無理です。

 筋トレとか、面倒です。


「そうか⋯⋯」


「あ、でもちょっとだけならいいかな!」


 寂しげに俯いてしまった守護者さんに、僕は慌ててそう言うのだった。







「ノイルぅ⋯⋯ぎゅっとしてぇ」


「はいはい」


 風邪や体調が悪い時は心まで弱るというが、それが顕著に現れているのは、狩人ちゃんだった。

 僕へと両腕を弱々しく伸ばし、普段は隠しているはずの素で――いや、もはや幼児退行したかのような態度で僕へとおねだりしてくる。

 幼児に対して何か思うような事はないので、僕は躊躇わずに彼女を抱き締めた。


「あたまなでなでぇ」


「はいはいなでなで」


 そして、言われるがままに頭を撫でる。

 すると狩人ちゃんは僕の胸へと嬉しそうに顔を擦り付けてきた。


「えへへぇすきぃ」


「はいはい」


 意外な一面――というわけでもなく、別に今の狩人ちゃんに対して驚きはない。何故なら普段彼女は強がってクール振っているが、素はかなり子供っぽい事を僕は知っている。というか皆知っている。弱った時にこうなってしまうのは、普通に納得だった。


「ノイルはぁ?」


「うん?」


「わたしのことすきぃ?」


「うん、す⋯⋯」


 そこで僕は答えに詰まった。

 先程の魔法士ちゃんとの一件があったからだ。

 馬車さんにも言われたし、安易な発言は控えたほうがいいのかもしれない。


「ノイルぅ⋯⋯」


「好き好き大好きぃ!」


 しかし、途端に今にも大泣きしそうになった狩人ちゃんを見て、僕は慌てて笑顔でそう言った。

 まあ、幼児に好きと言ったところで何も問題はないだろう。

 それより幼児が泣き出す方がまずい。


「えへへぇ、えへへぇ、ノイルはわたしがだーいすきー」


 何だその歌。


「お?」


 頭を揺らしながらにこにこと歌う狩人ちゃんを眺めていたら、一瞬景色が揺らいだ。


「ノイルぅ?」


「ごめん、そろそろ戻る時間みたいだ」


「えぇぇぇぇやだぁぁぁぁぁぁやだぁぁぁぁぁぁ!!」


「うわっ!」


 僕がそう言うと、狩人ちゃんが驚く程に大泣きし始め、思わず耳を塞いだ。


「ま、また来るから」


「いやだぁぁぁぁぁやぁぁぁぁだぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 まさに幼児そのものの泣き方で、狩人ちゃんは縋り付いてくる。

 先程、即席奥義〈好き好き大好きぃ!ヤケクソ〉をやっていて良かったと思いながら、僕の意識は現実へと戻っていくのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る