第90話 穏やかな時間②


 エルシャン・ファルシードの朝は早い。


「ん⋯⋯おはようノイル」


 まだ日の登らぬ内から自室のベッドで目を覚ました彼女は、隣で眠る等身大のノイル人形の額へと口づけた。すると、実物とは対照的過ぎる爽やかな笑顔を浮かべた人形が、ややぎこちない動きで手を伸ばし、エルシャンを抱きしめる。

 この等身大ノイル人形は関節部分まで作り込んではあるが、もちろん意思などを持っているわけではない。精霊たちが、エルシャンの要望通りに動かしているだけであった。


「ああ、ノイル。ボクも離れたくはないよ。けど、そろそろ準備を始めないと。今日はノイルに会いに行くんだから」


 エルシャンは名残惜しそうにそう言うと、一度ノイル人形を抱きしめる。そして胸に顔を擦り付け、人形から離れた。カタカタと、ノイル人形は爽やかな笑顔のまま、エルシャンへと手を伸ばしている。彼女はそんな人形の頭を慈しむように一度撫で、ベッドから出た。


 レースの付いた薄いワンピースタイプの寝衣姿のまま、部屋中に所狭しと置かれたノイル人形、その全ての額へと優しく口づけていく。

 おはようと、一つ一つに声をかけながら。

 それだけで随分な時間がかかってしまう程の数だが、これはエルシャンの日課だった。


 彼女は屋敷にいる際、毎朝ノイル人形への挨拶は絶対に欠かさない。エルシャン・ファルシードの朝が早い理由の一つである。

 全てのノイル人形へのキスを終えた彼女は、満足そうな顔で部屋に備えられている浴室へと向かった。

 軽くシャワーを浴び、歯を磨くと、浴室から出る。脱衣所では等身大ノイル人形が爽やかな笑みを浮かべてその手にタオルを持ち、待っていた。


「ありがとう、ノイル」


 ホラーでしかない光景に、しかしエルシャンは嬉しそうな笑みを浮かべタオルを受け取ると、その濡れた美しい身体を拭き始める。

 と、そんな彼女を等身大ノイル人形がぎこちない動きで後ろから抱きしめた。


「もう⋯⋯ノイル、ダメだよ。昨夜も愛し合っただろう? もちろんボクだってそうしたいけれど、今日は大事な用事があるんだ。大人しく待っていてくれ」


 エルシャンがそう言ってノイル人形の頬をあでやかに撫でると、人形は爽やかな笑顔でこくりと頷き、ぎこちない動きで脱衣所から出ていく。

 それを愛おしそうに眺め、自身の身体を拭き終えると、彼女も一糸纏わぬ姿のまま脱衣所から部屋へと戻った。

 ゆっくりと歩くエルシャンへと、ふわふわとひとりでに浮く下着や衣服が近づき、彼女はその一つ一つを身に着けていく。


 瀟洒な丸テーブル前に辿り着く頃には、エルシャンは大体の衣服を身に纏っていた。長い靴下とブーツを履き、彼女は椅子に腰を下ろす。

 すると、今度は鏡と化粧道具がふわふわと彼女の側に浮いてきて、ひとりでに動き化粧を始める。彼女の美をさらに引き立てるナチュラルメイクをゆっくりと施していく。

 一通りのメイクを終えると、その背後に爽やかな笑顔の等身大ノイル人形が現れた。

 手には櫛を持っている。


「何時もありがとうノイル」


 エルシャンは纏め上げていた髪を解き、ノイル人形がその髪を梳き始めた。

 ぎこちなさは無く、人形は気味が悪い程の繊細な手付きで彼女の髪を梳いていき、室内にも関わらず緩やかに吹く風がまだ湿った髪を乾かしていく。

 この一連の動きだけは、エルシャンが精霊に頼み込み実物の動きをしっかりと真似させたものだった。彼に髪を梳かれるミリス・アルバルマが羨ましくて仕方なかったのだ。

 精霊にしてみれば人間の動きなどいまいち理解出来ないもののはずだが、エルシャンのマナを毎朝大量にもらえるのならば、精霊も努力をする。

 もはやその動きは、明らかにオリジナルを超えていた。プロの仕事である。

 人形は爽やかな笑顔で、絹のように美しい髪を整えていく。


「ノイル、ありがとう。もう十分だよ」


 長時間、人形に髪を梳かれつつ、メイクのチェックをしていたエルシャンは、満足そうにそう言うと、自分の向かいの席を指し示した。

 ノイル(本物)と会う日のエルシャンは、身支度を整えるのにかなりの時間を費やす、それは例え未だノイルが眠っている状態であろうと変わらない。

 夜明け前に目覚めた彼女の部屋には、今はもう朝日がしっかりと差し込んでいた。


 エルシャンにそう言われた人形は、櫛をしまうとカタカタとぎこちない動きで彼女の向かいに腰を下ろす。


「こんこんこん、こんこんこん」


 そのタイミングを見計らったかのように、部屋の中に坦々とした声が届いた。


「マスター、朝食をお待ちいたしました」


「ありがとうソフィ、入ってくれ」


「失礼致します」


 エルシャンが声をかけると、木製の給仕ワゴンを押したソフィが部屋の中へと入り、入り口で深々と頭を下げた。


「おはようございます。マスター、旦那様」


「おはようソフィ」


 ソフィへとエルシャンが優しげな笑みを浮かべ、ノイル(人形)は爽やかな笑顔にぎこちない動きで片手を上げた。

 ソフィは給仕ワゴンを押して丸テーブルに近づくと、手慣れた動きで朝食を並べていく。

 スープにサラダ、オムレツにパンなど、特別なものではないが、テーブルの上は鮮やかに彩られた。


「ありがとうソフィ、さあ一緒に食べよう」


「はい、マスター」


 その声で、ソフィは嬉しそうに空いた椅子――ではなく、エルシャンの膝の上にちょこんと座った。エルシャンもそれを当然のように受け入れる。


「やはり、家族と共に食べる食事は、美味しいね」


「はい、マスター」


 朝食を食べながらエルシャンがそう言うとソフィは頷き、食べられる筈もないのに何故か目の前に朝食を並べられたノイル(人形)も、爽やかな笑顔で頷く。

 穏やかで微笑ましい毎朝の景色。


「いやそれはおかしいから」


 そこに、当然のツッコミが入れられた。

 頭がおかしくなりそうな光景に、当たり前の指摘をしたのは、いつの間にか部屋の入り口に立っていたミーナ・キャラットだ。

 彼女は頭痛でも堪えるかのように頭に手を当てていた。


「ああ、おはようミーナ」


「おはようございます。ミーナ様」


「おはよう⋯⋯じゃないわよ。何で普通に挨拶できるのよあんたたちは」


 ミーナは一度頭を振ると、つかつかと丸テーブルに歩み寄り、一度ノイル(人形)に眉を顰めると、空いている椅子に座った。

 そして疲れたように息を吐き、微笑んでいるエルシャンへと視線を向ける。


「あのね、エル。何度も言ってるけど、これはおかしいわ」


「何がだい?」


「頭よ」


「酷い事を言うね」


 二人が会話をしている内に、ソフィがエルシャンの膝からおり、ミーナの前へと朝食を並べていく。


「ありがとうソフィ」


「いえ」


 これは秘密とされていたエルシャンの部屋が明らかとなって以来、毎朝のように『精霊の風スピリットウィンド』の屋敷で繰り返されている日常だった。

 当然朝食はミーナの分も用意されている。


 エルシャンの奇行にミーナがツッコミを入れ、ソフィは何時も通り。

 何だかんだで、物言わぬノイル(人形)と三人は毎朝共に食事をしていた。

 ミーナは毎回その異常さを指摘しているが、エルシャンには彼女が何を言っているのかいまいち理解出来ない。

 何故ならば、彼女にとって家族で食事をするのは当然なのだから。

 膝の上に戻ってきたソフィの頭を撫でながら、エルシャンはノイル(爽やかな笑顔の人形)に視線を向け、くすりと笑った。


「ああノイル、口元についてるよ」


「ついてないついてない⋯⋯ついてたわ」


 人形の口に食べかすがつくわけないのだが、呆れたように視線を向けたミーナは、更に呆れたように息を吐いた。

 ノイル(人形)の口の端には確かにケチャップが付着していたからだ。

 それを、ふわふわと浮いたハンカチが拭っていく。


「もう、仕方ないな。ほら、綺麗になった」


「芸が細かいのよこいつら⋯⋯」


 精霊たちの仕事のこだわりぶりに、ミーナはもはやお手上げといった様子で、それ以上は何も指摘せず、朝食に手をつけ始める。


「今日もあいつのとこ行くわけ?」


「行ける日は何時だって行くさ。ソフィも会いたいだろう?」


「はい、ソフィも旦那様が好きですから」


「じゃあ⋯⋯私も行くしかないじゃない⋯⋯」


 微笑みを交わすエルシャンとソフィに、気乗りしないといった様子でそう呟き、ミーナはスープを口に運んだ。


「別にボクとソフィだけでも構わないよ? ミーナが付き合う必要はないだろう?」


「あんたたちだけだと、絶対に何か問題起こすでしょうが⋯⋯」


「信用してくれないのは悲しいなミーナ」


「ミーナ様が旦那様にお会いしたいだけでは?」


 ソフィの言葉に、ミーナは口に含んだスープを吹き出した。それをエルシャンは風で包み込み、周囲に飛び散らないようにしながら、彼女へと目を細める。

 ミーナは親友だ、親友だが、彼女のノイルに対する気持ちが異性としての感情であるのならば、それは許容できないことだ。

 早めに摘み取り、潰しておかなければならないだろう。当然ミーナを痛めつけたり、関係が壊れるようなことはしたくはない。

 穏便に、ノイルの事は諦めさせる。


「ミーナ、もしキミがノイルに――」


「んなわけないでしょうが!」


「ですが、以前に部屋で――」


「ああああれは違うって言ったでしょ! どうかしてただけよ!」


 ミーナは顔を赤く染め、テーブルを叩いて立ち上がった。


「でもね、ミーナ」


「な、何よ⋯⋯」


 もちろんエルシャンはミーナの事を信用している。彼女がここまで必死に否定するのならば、本当にそういった感情はないのだろう。やたら動揺している所に怪しさは感じるが。

 しかしミーナの方にその気がなくとも、だ。


「今ノイルの部屋には、畳が敷かれているんだよ。これは、どういう事かな?」


「知らないわよ⋯⋯気に入ったんでしょ⋯⋯」


 心底どうでもよさそうに、ミーナはがっくりと肩を落とした。


「キミを、かな?」


「畳をよ!」


 まあ、そうだろう。

 ノイルが浮気をするはずがないのだから。しかし、気に入らないものは気に入らないのだ。

 自分の夫が、親友とはいえ他の女の趣味に染められるのは、あまり面白くはない話だ。

 ノイルが気に入ったのならば致し方ないが、出来ればこれっきりにしてもらいたい。

 だから、心苦しいがここは親友を責めておくことにしたのだ。


「冗談だ。でもまた同じような事があれば――」


「ないから安心しなさい!」


「約束だよ?」


「ええ、誓うわ」


 額に手を当てて、疲れたようにそう言って再び腰を下ろしたミーナを見て、エルシャンは満足そうに頷いた。

 言質はとった。ミーナの性格ならば、約束を違えたりはしないはずだ。

 少し意地が悪いかもしれないが、ノイルの為ならば致し方ないことだ。


 エルシャンは周りからは誠実で清廉潔白、完璧な人間に思われているが、実際はそうではない。

 彼女も普通の人間と同じく、腹黒いところはある。別に取り繕っているわけでもないのだが、周りが持ち上げすぎているだけなのだ。

 自分の好きな人に他の女を近づけさせない為ならば、卑怯な真似をする事に躊躇いはない。

 周りが思っている程、自分は大した人間ではない。


「⋯⋯エル、あんたって⋯⋯」


「ん? 何だい?」


「実はかなり腹黒いわよね」


「⋯⋯ふふ、そうだね」


 だから、ミーナにそう言われて、エルシャンは笑った。自分の本性を知ってもなお、呆れながらも親友で居てくれる彼女に。


「はぁ⋯⋯『白の道標ホワイトロード』に行くなら、目立たないようにしましょう」


「ああ、そうだね」


 親友の提案に、エルシャンは頷く。

 王都での『精霊の風』の知名度は高い。一度や二度なら問題ないだろうが、何度も何度も『白の道標』へと出入りしていれば、余計な注目を集め、ノイルへと迷惑がかかるだろう。

 しかし、ノイルの元に行かないなどという選択肢はありえない。


「ならば一人ずつ、タイミングをずらしましょうか」


「うん、そうだねソフィ。いい考えだ」


 頭を撫でられたソフィは、嬉しそうに目を細めた。

 そうだ、準備は済ませてしまったが、ノイルからプレゼントされた服を着ていこうか。せっかくノイルが自分ともっと過ごす為に、地味で目立たない服を選んでくれたのだから。


 地味で目立たない服、というところまでは合っているが、それ以外の部分を彼女はかなり自分に都合良く解釈していた。


「⋯⋯あの服を、着る気?」


 ミーナがエルシャンの表情から察したのか、眉を顰める。それ程に、例の服はダサかった。

 冷静に見ればそのダサさなど一目でわかるが、これも恋は盲目というやつなのだろうか。


「ああ、いい考えだろう?」


 だから、エルシャンは満面の笑みを浮かべて、げんなりとした様子のミーナにそう言うのだった。

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