第34話 お風呂の妖精


 自室で目を覚ましたミーナ・キャラットは、少々ベッドの上でぼうっとした後、まだ眠たげな欠伸をして大きく伸びをする。

 時刻はとうに正午を過ぎており、起きるには遅すぎるくらいではあるが、これが彼女の休日の過ごし方だ。


 ミーナは眠ることが好きだった。何よりも心地がいいからだ。特に予定が無い日であれば、起こされることがない限り、好きな時間まで好きなだけ睡眠を取る。そして、起きてからもごろごろだらだらと最も落ち着けるパーティハウスで気ままに過ごすのだ。ミーナにとって至福の一時である。


 もちろんいつもだらけている訳ではなく、むしろ普段の彼女は【採掘跡】に潜らない時や、依頼が無い日でも採掘者マイナーとしての訓練も欠かさず、ストイックな生活を送っている。

 ミーナが訓練すら休み完全に何もせずに過ごす、所謂休日は稀にしかないが、その日だけは彼女はとことん力を抜く。自身が決めたぐうたら日である。

 そんな日は他のパーティーメンバーもミーナに無理に干渉してこようとはしない。皆わかってくれているので、構ってほしくなったら自分から会いにいけばいいのだ。


 ミーナはもう一度欠伸をし、ベッドから這うように出るとそのまま畳へとうつ伏せに寝転がった。

 彼女の部屋は少々特殊で、勝ち気なミーナにしては随分と可愛いらしく女の子らしい家具や調度品が置かれている部屋の床には、王都では珍しい畳が敷き詰められている。

 これは畳の上で寝転がる感触が好きなミーナのこだわりであり、もちろん土足は厳禁だ。


「んん⋯⋯ぁふ⋯⋯」


 ぴんと尻尾を伸ばし、腰を突き出すようにして伸びをしたミーナは、しかしそのままへにゃリと再び寝そべる。しばらく顔も上げずにじっとうつ伏せになっていた彼女は、やがて畳の上をコロコロと転がるように、お気に入りの巨大なクッションの傍へと移動した。

 ぎゅっとクッションを抱きしめ、顔を埋める。尻尾がゆっくりと大きく揺れていた。


「うぅん⋯⋯」


 やがて、クッションに顔を埋めたまま、ミーナは葛藤するような声を上げる。

 このままもう一眠りするか、それとも起きて大浴場へと向かうか悩んでいたのだ。


 ミーナはお風呂も大好きだ。

 この屋敷の大浴場は、彼女のお気に入りの場所である。

 ぴかぴかに磨かれたなめらかで肌触りのいい石材で造られた、複数人がゆったりと手足を伸ばして浸かっても余裕がある程の広い湯船は、時を忘れるほどに心地が良い。

 一応ミーナの部屋にもお風呂は備え付けられているが、彼女が主に利用するのは大浴場だ。


 ソフィが何時でも利用できるようにしてくれているので、中途半端な時間だが、今から向かってもすぐに入ることが出来るだろう。

 屋敷の管理はほとんどソフィが好きでやっており、手伝うと逆に良い顔をされないのだ。

 よくそんな面倒なことを好き好んで出来るなぁ、とミーナは感心しつつ少し申し訳なく思うのだが、本人が満足そうにしているので、感謝はしても遠慮はしないようにしている。


「⋯⋯よし!」


 たっぷり悩んだミーナは、抗い難いクッションの誘惑を振り切り、思い切って起き上がると頬をぺちぺちと両手で叩いた。

 せっかくの休日だ。ゆっくりと誰にも邪魔されずに、お風呂に浸かるとしよう。


 ミーナは立ち上がり、着替えを準備すると自室を出て大浴場へと向かう。靴も履いていないが、どうせ今からお風呂に入るのだ構わないだろう。

 それに、ソフィの行き届いた掃除によって屋敷は清潔に保たれているし、絨毯も敷かれている。

 足裏にふかふかの感触を味わいながら、ミーナは機嫌よく歩く。


 露出の多い部屋着のままだが、ミーナの部屋周辺と、大浴場周辺は基本的には男性立ち入り禁止だ。誰かに見られる心配もない。


 別にミーナは男嫌いというわけではないが、同性ならともかく異性に必要以上に自分のテリトリーに入られることは好まない。身持ちは堅かった。その辺りはパーティメンバーも理解している。

 しかも『精霊の風スピリットウィンド』の男性メンバーは、ミーナから見たら釣りバカとただのバカしか居ないので無害だ。


 そういえば⋯⋯七年ほど前に打ちのめした男も、自分のことをじろじろと見ることはなかったな、とふと思い出す。


 半獣人ハーフであるミーナは、昔から好色な目で周りから見られる事が多かった。それで怯えるような性格ではないが、あまり気分が良いものではない。

 だからなのか、むしろ自分を見ようともせず怒らせたあの妙な男のことは、不思議と覚えている。いや、ほとんど関わることは無かったとはいえ、魔導学園で四年も共に過ごしたのだから覚えていて当然なのだが。


 しかし、改めて思い返してみると、彼には少し悪いことをしたのかもしれない。在学中は全く気にならなかったが、今思えばあの出来事以来、彼は学園では常に誰の記憶にも残らないほど隅の方に居て、たまにしか授業にも参加していなかった。

 エルシャンも気にしていたようだったし、もし自分のせいでああなってしまったのだとしたら、少なからず罪悪感を感じてしまう。


 ⋯⋯声をかけてあげれば良かったのだろうか?

 半分以上彼の自業自得なのは間違いないけど。


「ま、今さら気にしてもしょうがないか」


 まず無いだろうが、もしまたどこかで会うことがあったら、その時は少し優しくしてあげよう。

 ミーナはそう考え、一人呟いた。


「何をでしょう?」


「うひゃ!?」


 突然目の前から声を掛けられ、ミーナは飛び上がりそうになった。尻尾と耳の毛が逆立つ。

 ぼーっと考えごとをしながら歩いていたせいで、前から来ていた人物に全く気が付かなかったのだ。普段のミーナなら絶対にあり得ないほどの失態だが、オフモードの彼女は基本的に気を抜き過ぎている。


「驚かせてしまい、申し訳ございません」


「あ、ああ⋯⋯ソフィ、おはよう。気にしないで。今のはあたしのミスだわ」


 律儀に頭を下げて謝罪するソフィに、ミーナは胸を撫で下ろしながらそう言った。


「はい、おはようございます。間もなく夕刻ですが。それで、何を気にしてもしょうがないのでしょうか?」


 ソフィは挨拶を返すと、首を傾げながらミーナに尋ねる。どうやら先程の独り言を聞かれていたらしい。彼女は疑問に思ったことがあれば、何を考えているのかわからない瞳で遠慮することなく聞いてくる。助かる時もあれば、返答に困ることもある。


「何でもないわ。ただの独り言」


「そうですか。ところで、ミーナ様」


「ん? 何?」


 ミーナ様という呼び方といい、丁寧すぎる物腰といい、どれもミーナにとってはくすぐったくて仕方ないのだが、これがソフィのスタイルなのでどうしようもない。同じパーティの仲間なのだからもう少しくだけた接し方をしてほしいものだが、それを伝えた際、趣味なのでと言われて何も言えなくなってしまった。


 ソフィはある日、エルシャンがどこからか連れてきて、そのまま『精霊の風』に加わったのだが、その頃からずっと一貫してこの姿勢である。

 まあ、魔人族には変わり者が多いので気にするだけ無駄だ。

 見た目も愛らしく真面目だし、勝手に居なくなったりしてパーティに迷惑をかける釣りバカ魔人族よりは遥かにマシだ。


「もしかすると、大浴場に向かわれるのでしょうか?」


「え? うん、そうだけど⋯⋯何か問題あった?」


「いえ、問題というほどではないのですが⋯⋯貸し切りでなくても大丈夫でしょうか?」


 なんだ、そんな事か。とミーナは思った。


 別に大浴場はミーナ専用というわけではない。女性のパーティメンバーなら何時でも自由に利用していいし、稀に男性メンバーにも貸し出すこともある。


 それに、ここにソフィが居るということは、あとはエルシャンしか居ない。彼女がこんな時間に入浴しているのは珍しいが、学園時代からの親友だ。一緒にお風呂に入ったことなど何度もあるし、お互いに気を遣うような間柄ではない。

 おかしな事を気にするものだな、とミーナは少し笑ってしまった。


「大丈夫よ。そんなの気にしないわ」


「そう、なのですか?」


「うん、むしろそっちのほうが楽しいし」


 ミーナは一人でお風呂に入るのも好きだが、気のおけない相手と談笑を交わしながら入るお風呂はもっと好きだ。よく知らない相手なら拒否するが、エルシャンならば全く問題はない。


「⋯⋯そういうことでしたら、ごゆっくり」


 ソフィは少しの間小さな唇に手を当てて何事か考えていたようだが、やがて頭を下げてそう言うと、大浴場とは反対の方へ歩いていってしまう。


「変なの⋯⋯」


 その態度に多少引っ掛かりは覚えたが、ミーナは特に気にすることもなく、気を取り直してわくわくしながら大浴場へと向かった。


 木の床と壁に囲まれた広々とした脱衣所に入り、ミーナは鼻歌混じりに早速服を脱ぎ始める。

 すり硝子の扉を隔てた浴場は湯気に包まれていてよく見えないが、水音は聞こえてくる。エルシャンはまだ入浴しているのだろう。


 下着も全て脱ぎ終え、一糸纏わぬ姿となったミーナは、大きな姿見の前に立ち、自身の身体のチェックを始めた。


 艶のある黒髪に深紫の瞳。

 愛らしい顔立ちに黒い耳と尻尾。

 引き締まった無駄な肉の付いていない、白くしなやかで、それでいてしっかりと女性らしさがある美しい身体。


 しかし、そんな羨まれるようなプロポーションであるにも関わらず、ミーナは少し不満げに眉を寄せる。


「もうちょっと⋯⋯こう、何とかならないかな⋯⋯」


 自身の胸を寄せて持ち上げるようにして、彼女は小さな声でそう漏らす。

 確かに決して大きいとは言えないサイズではあるが、全く無いわけではない。ミーナの容姿からすればささやかな問題でしかないだろう。

 けれどミーナの悩みはここ数年全く成長していないその慎ましい胸部であった。


「エルだって⋯⋯もっとあるし⋯⋯」


 ミーナは胸を弄りながらそう言うが、エルシャンを比較に出すのは間違いだろう。彼女の完璧に近い容姿と比べられる方は酷だ。

 まあだからこそ、ミーナはどうしようもないと思いながらも、女性としての僅かな劣等感を覚えてしまうのだが。


「ま、まぁ⋯⋯あんまり大きいと動きにくそうだしね⋯⋯うん、そうよ」


 彼女はそう結論づけて、無理やり自分を納得させようとする。実際に動きにくいのかは知らないし、この先も一生体験することはないのかもしれないが、考えれば考えるだけ何だか悲しくなる。


「はぁ⋯⋯」


 そうしてミーナが諦めの息を吐いた時だった。


「ふんふんふふーん、まーちゃんはさいっこぅ〜」


 妙な歌を歌いながら、妙な男が浴場から脱衣所へと入ってきたのは。


「⋯⋯⋯⋯」


「まーちゃ⋯⋯ん!?」


 ミーナの思考は、完全に停止してしまっていた。胸から手を離すことも忘れ、呆然と、こちらに気づき素っ頓狂な声を上げた男と見つめあってしまう。

 お互いにその身体を遮る物は何も無く、ミーナにいたっては寄せて上げていたせいで、まるで胸を男に見せつけているかのようだった。


「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」


「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」


 たっぷりと無言で見つめ合っていた二人だが、やがて男の方がゆっくりと浴場へと戻り、静かに扉を閉めた。


「⋯⋯⋯⋯⋯⋯」


 それでもミーナは動けなかった。

 真っ白になってしまった頭は、まだ現状を理解すらしておらず、固まったまま裸で突っ立っていることしかできない。


 少しして、再び脱衣所の扉が開かれ、先程の男が現れる。

 今度は腰にしっかりとタオルを巻き、頭には何故か風呂桶を被って。

 ミーナの混乱はさらに深まる。


「ア、オサキッス」


 男は何故か明らかな裏声で、風呂桶のせいでわからないが、おそらくミーナの方を見ることなく、片手を上げてそう言った。

 ミーナの混乱は加速の一途を辿る。


「ジブン、オフロノヨウセイッス。オフロ、アタタメテオキマシタ」


「え、何⋯⋯」


「オフロノヨウセイッス」


 あまりに意味がわからなすぎて、逆に飛んでいたミーナの意識が戻ってきてしまった。

 しかし、まだ冷静な判断は出来ず、自分が今どんな姿であるかも忘れ、彼女は自分に背を向ける男に恐る恐る近づき、その肩を掴んでしまう。


「ちょ、ちょっと待ちなさいよ⋯⋯あんた一体⋯⋯」


「オフロノヨウセイッス! オフロノヨウセイッス!」


 男は慌てたような声でわけのわからないことを叫び、ミーナの手から逃れようとした。

 そうして、悲劇は起こってしまう。


「あっ」


「エ?」


 男の肩を掴んでいたミーナは手を滑らせ、バランスを大きく崩した。

 平時の彼女ならこの程度でバランスを崩すなど絶対にあり得ないが、今日はオフモードであり、心はかつて無い程に乱れまくっている。震える身体には上手く力も入っておらず、足元も覚束なかった。


 まあ、端的に言えば、転んだ。

 咄嗟に受け止めようとした男を巻き込んで。


「⋯⋯⋯⋯」


「ぁ⋯⋯」


 思わず目を閉じてしまったミーナは、軽い衝撃の後、全身に温かい熱を感じ、恐る恐る目を開け、そしてそのまま信じられない程に目を見開いた。


 お風呂の妖精はもう居なかった。

 代わりに、風呂桶とタオルが倒れた際に取れてしまった全裸の男が居た。ミーナの下に。

 ミーナは、男に覆いかぶさるように乗っていた。全裸で。


 二人の距離はゼロだった。密着していた。全身に感じる熱は男の身体から伝わるものだった。


 ミーナの顔は一瞬で真っ赤に染まり、慌てて男から離れようとする。が、腕に上手く力が入らず、少し身体を空けたところで再びミーナは男の上に倒れた。男の身体がびくっと震える。


「う、動くと⋯⋯」


「ぇ⋯⋯?」


 男はそう呻いた後、両手で顔を覆う。それと同時に、ミーナは内腿の辺りに、何か固く熱いものが当たるのを感じた。

 そして、恐る恐るソレ・・を見たミーナは――


「ひゅ⋯⋯⋯⋯」


「ごめんなさい」


 白目を剥いて気を失うのだった。 







 やばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばい。


 僕の上で気を失ってしまったミーナ・キャラットさんの顔を見ながら、僕はどうしたらいいのかパニックになっていた。

 

 何がどうなってこうなってしまったのか、僕は広々としたお風呂を堪能していただけなのに。

 何故脱衣所に裸の彼女が居るんだ。何故僕の上に乗っているんだ。何故お風呂の妖精作戦が通じなかったんだ。


 と、とりあえず彼女を退かさないと。

 既にノイルくんはノイルさんへと成長してしまっている。このままではマズい。


 そうして、僕が出来るだけキャラットさんを見ないように、彼女を僕の上から下ろそうとした時だった。


「これは⋯⋯どういう状況ですか?」


 不思議そうに首を傾げたソフィが脱衣所に現れたのは。


「ソフィは着替えをお持ちしたのですが⋯⋯もしやお邪魔でしたか?」


「邪魔じゃないです! 助けてソフィさん!」


 僕はもうそれは必死だった。

 冷静に考える余裕などなかった。


「そうですか。かしこまりました」


 ソフィは冷静にそう言って、僕の上からノイルさんを見て気絶してしまったキャラットさんを退かしてくれる。

 そして、彼女の視線は隠すものが無くなったノイルさんへと向けられ――


「なるほど、ご立派ですね」


 僕は再び両手で顔を覆うことになるのだった。 

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