一章
第1話 退職
僕はつくづく、自分はダメな人間だと思っている。
「んー……」
釣り竿を上げ、何も付いていない針を眺めながらぼんやりとそんなことを考える。
針を手元に寄せ、餌をつけ直し、再び池へと仕掛けを投げ込んだ。
水面をぷかぷかと揺蕩うウキをじっと見つめる。
今日、僕は仕事を辞めてきた。
元々それほど乗り気ではない仕事だったし、いつも辞めよう辞めようとは考えていたのだ。というより、元より仕事などしたくないのが本音だ。
だから勤め先に、『釣りに行ってきます。あと、辞めます。今までお世話になりました』という書き置きを残し、必要最低限の荷物を持って、住居兼職場からここまで逃げてきた。我ながら酷いと思う。
店長には多少悪いことをしたと思っているが、別に僕がいなくとも問題はないだろう。
元々店長一人でやっていたお店だし、あの人なら大丈夫。むしろ、何故あの超人が僕を雇ったのかがわからないくらいだ。
新しく入った優秀な後輩もいるし、彼女はやる気のない僕よりもずっと役に立つだろう。
それに、迷惑をかけるお詫びとして、今の僕が持っていた殆どのお金を置いてきた。
多くはないが、少なくもないはずだ……多分。
いや、この釣り竿を買うのに貯めてきたお金は使ってしまったし、リールを買うのにさらに大金を払ったので、大した額ではないかもしれないが……少なかったかな? 少なくないよね?
うん、まあ大丈夫大丈夫誠意は伝わるはずだ。
あまり深く考えないように、現在僕の唯一の宝物である釣り竿を撫でる。うっとりとしてしまうほどの質感に、自然と頬が緩んだ。
一本でほぼ全ての釣りをできるのが、この竿の素晴らしいところだ。
何せこの釣り竿、何を隠そう魔導具である。
長さもしなりも限界はあるが自由自在、普段はポケットに入るほど縮めることができ、持ち運びにも便利。針や糸、疑似餌すらも魔力により作り出すので、面倒な準備は必要なく、これ一本あればどこでも釣りができる。
もちろんこれに取り付けるリールも魔導具だ。別売りにするのって卑怯だよね。
まあ僕は様々な釣具を用意するのも嫌いではないし、面倒とは言ったが準備するのもまた釣りの醍醐味ではあると思っているので、釣り人は皆これを使えば良いとは思わない。
実際僕も釣具はいろいろと持っているが、今回とても全ては持ち出せず、断腸の思いでこの魔導具以外は置いてくるしかなかった。
仕事を辞めたのは計画的なことではなく、なんとなく、目当ての魔導具も買えたしずっと辞めたかったし、もう辞めるかという軽い気持ちだったのだ。
この計画性の無さと責任感のなさも、僕が僕自身をダメな人間だと思う要因の一つである。
まあ、これ以外はまた集めればいいさ。
「今日も綺麗だね……」
ニヤニヤとしながら呟く僕は、傍から見れば気持ちの悪い変人かもしれない。
しかし別に何と思われようが構わない、僕にとってはこの釣り竿は何よりも価値のある物なのだ。それに、釣りをこよなく愛する人なら理解してくれる。
王都の魔導具店でこの魔導具、『魔釣り竿』を見つけた時は運命を感じた。こいつは僕の為に生まれてきたのだと。
できることなら、働くことなく生きていきたい。
こんな舐めた考えの僕が、三年もの間働き続けることができたのも、こいつのおかげである。
暇さえあれば魔導具店へと通い、店の隅に忘れ去られたように置いてあったこいつを眺める日々は、僕にとって至福の時間だった。
店主はそんな僕を見て若干引いていた気もするが、そんなことは関係ない。
人生を共にする相手を見つけたのだ。
いよいよ購入し、この手に抱いた時の感動は忘れられない。
震え、嗚咽をもらし、釣具を抱きしめる僕を見て、店主はドン引きしていたが。
因みにそんな店主に聞いた話では、こんな魔導具に大金を払う酔狂な人間は居ないと思っていたらしい。
頬を引きつらせながら教えてくれた。
魔釣り竿という安直な名前からもなんとなく分かるが、この魔導具はふざけて作られた物であるらしい。
確かに、釣りをするだけなら普通の釣具を準備すればいいだけであり、わざわざ魔導具を使う必要はないだろう。
便利だが、便利なだけで所詮は釣りの道具でしかないということだ。
だが、しかし! それでもいいじゃないか!
この世にこれ程素晴らしい物はないと、僕は思う。
安直な道具名? それがどうした。
釣り以外役に立たない? それがいいんじゃないか!
いつかこの魔導具の製作者に出逢えたら、僕はこの感謝の気持ちを全力で伝えたい。
「ふふふ……まーちゃん、君は最高だよ」
僕は親愛を込めて、この魔釣り竿――まーちゃんに話しかける。
数日前、まーちゃんを手に入れた日に感極まって僕はまーちゃんとお話していた。
すると、いつの間にか部屋に居た店長にドン引きされたので自重していたが、ここには僕たちの邪魔をする者はいなかった。
こうしてまーちゃんと二人、趣味の釣りに勤しみながら、世間のしがらみに捕らわれることなく、のんびりと過ごせたらどれほどいいだろうか。
――それも悪くないかもしれないな。
それはまさに、天啓だと思えた。
ゆっくりと辺りを見回す。
ここは、王都からそれなりに離れたとある森の中だ。鬱蒼と茂った木々の中を進むと、程よい広さの池が広がる。
僕は今、その美しい池のほとりで手頃な岩を椅子代わりに、仕事からの解放感と釣りを楽しんでいた。
最近見つけたこの場所は、僕の秘密の釣り場だ。
他の釣り人が訪れることはなく、魚はスレていない。水は澄んでおり、手付かずのままの自然は僕を歓迎してくれているように思える。
ここに、このまま住めばいいのではないか?
どうせ次の仕事は決まっていないし、決まる気もしない、何よりも働きたくない。
加えて、釣り以外は特にやりたいこともない上にお金もないのだ。でも働きたくはない。
王都は行こうと思えば行ける距離にあるし、最低限必要なものは、王都にでも調達に行けばいいだろう。
王都は広い、店長にも簡単には見つからないはずだ。
それに近くに村などがあれば、この森で採れた物と物々交換してくれるように交渉してみるのも手だ。
基本的にはこの森で自給自足の生活を送り、どうしても入り用の物があれば、気ままに出掛ければいい。釣り場を求めて遠征するのもいいだろう。
魔物の心配はあるが、よほど強力な魔物が現れない限りは大丈夫なはずだ。
スローライフ。そう、スローライフだ。
世俗から離れ、釣りをしながらのんびりと、贅沢ではないが何にも縛られない暮らし。
僕はここで、第二の人生を送るんだ。
どうしよう、考えれば考えるほど名案に思えてきた。
そうだ、流石にすぐには無理だが、いつか僕が勝手に辞めて逃げたことが笑い話になるくらい時が経ったら、ここに店長を呼ぶのもいいかもしれない。素朴ながら立派な家を建て、歓待するのだ。
きっと店長は僕の素晴らしい暮らしぶりに驚くだろう、そして自然の恵みでもてなせばすぐに喜んでくれるはず。
その時にちゃんと謝罪すれば、笑って許してくれるはずだ。
完璧だ、天才か。
「ふう、やれやれ」
額に手を当て、ゆっくりと頭を振る。
自分の発想が素晴らしすぎて、無駄にクールな振る舞いになってしまう。
自分はダメな人間だとばかり思っていたが、なんだ、やればできるじゃないか。才能ってやつはどこに眠っているかわからないね。
これはまーちゃんに惚れ直されてしまうかもしれない。
愛情を込めて撫でてやると、まーちゃんはどこか照れたようだった。
可愛い奴め。
「そうだな……」
ついでに以前諦めた、店長に釣りを教えるという難題に、もう一度挑戦するのもいいかもしれない。店長は釣りというものをどうやら理解出来ないらしいから。
いや、やり方などはもちろん理解できるのだが、何が面白いのかがわからないようだ。
実に可哀想な話である。
以前釣りに誘ったときは、釣りを始める前までは上機嫌だったのだが、いざ釣りを始めるとすぐに飽きた。五分とかからなかったと思う。
突然釣り竿を置いたと思った次の瞬間には、魔力の塊を湖へと投げ込んだ。
呆然とする僕の隣で、店長は魚が捕れたと満面の笑みだった。
店長はじっとしていることができない人なのだ。
しかし、これは僕にも非があったと思っている。
釣り未経験者に、ただ当たりが来るのをじっと待つだけのやり方を勧めたのが間違いだったのだ。
僕は反省し、ならばと今度は能動的な、疑似餌を使った釣りを教えた。
店長は三分後には湖へと飛び込んでいた。
僕は店長を二度と釣りに誘わないと決めた。
一応釣りというものは、魚が捕れればいいというものではないと説明し、懇切丁寧に、情熱を込めて釣りの魅力を話したのだが、店長はそんな僕にただ一言、「キモイ」と言った。
何が悪かったのか、僕はその晩、一人で静かに枕を濡らした。
そうして諦めたのだ、釣りはその魅力がわかる人だけがわかればいいと。
ほろ苦くも懐かしい思い出だ。
あれから僕も成長した、ここに住み、しばらく過ごせば、さらに成長できるかもしれない。
思えば、あの時は押し付けがましかったかもしれないな。
ああいった人に釣りの魅力を伝えるにはそう、穏やかな心が必要だったのだ。
何をしても我慢強く、釣りに誘い続けたら、もしかしたら今頃は店長と釣り仲間だったもしれない。
そうしたら、僕は仕事をまだ続けていたかもしれないのだ。
「この水面のように、落ち着いた水の心がね……」
穏やかに微笑みながらウキを見つめていると、突然、ウキが吸い込まれるように水中へと消える。
「ッ!?」
前兆のない大きな当たりに、一瞬焦りそうになったが、すぐに落ち着いて立ち上がり、合わせる。
水の心が役に立った。
激しくしなるまーちゃん、まるで待ちわびていた獲物に歓喜の声を上げているようだ。
僕の手にも激しい抵抗と、魚の重みが伝わる。
今まで味わったことのないような感触。
「こいつは……大物だぜ……!」
相手もなかなかのお手前のようだが、僕と、そしてまーちゃんの敵ではない。
いくら相手が暴れようと、いくら大物であろうと、まーちゃんは折れない、切れない、曲がらない。
相棒である僕も、伊達に釣りが好きなわけではない。
激しい抵抗を見せる獲物に合わせ、まーちゃんを操り、確実に追い詰めていく。
なるほど、こいつは確かに猛者だ。
もしかすると、この池の主かもしれない。
だがしかし――――
「相手が悪かったな」
クールな決め台詞、そして大きく息を吸う。
まーちゃんと僕が一つとなる。
次の瞬間、鋭い呼吸と共にまーちゃんを振り上げた。
激しい音を立て、水飛沫を上げながら池の主が姿を表す。
僕とまーちゃんの完全勝利だ。
しかし――――
僕は池の主を前に、絶句してしまった。
「…………」
店長が、釣れていた。
真顔になる僕を、まーちゃんから伸びた糸を片手で握ったままぷらぷら揺れている店長がじっと見ている。
「フッ…………」
僕はクールに笑い、岩に腰掛けると、ゆっくりそっと店長を池の中に戻す。
糸を握った手の親指を立てながら、水中へと店長は沈んでいった。
静まり返った森の中に、小鳥の囀りが響き渡る。頬を撫ぜる緩やかな風が心地良い。
手で日陰を作りながら空を見上げた。
「太陽が眩しいぜ」
僕が呟いた瞬間、激しい水音と共に水飛沫が上がる。
僕はそれをじっと見ていた、ただ見ていた。
水飛沫を被りびしょ濡れになろうとも、ただ見ていた、それしかできなかった。
池から勢い良く飛び出した主が、僕の目の前に着地する。僕は見ていた。
濡れた髪を振り、軽く水を飛ばすと、その魚は、同じ様にずぶ濡れの僕を見て、にっこりと笑みを浮かべる。
透き通るような肩の辺りまで伸びた純白の髪。
少し釣り上がった大きな目には、輝く紅玉の瞳。
整った鼻と、形の良い唇。
身長はそれほど高くはなく、むしろ低いほうだろう。
髪と同様の白を基調とした動きやすそうな衣服の上から長いコートを羽織っている。
少女のようで大人のよう、儚く消えてしまいそうで、決して折れることのない芯の強さ。
そんな矛盾した美しさを持った女性だ。
溌剌とした笑みも、どこか色気を感じさせるのは濡れた髪のせいだろうか、身体に張り付いた衣服のせいだろうか。
池の主が良く通る声で告げる。
「ノイル・アーレンス! 仕事じゃ!」
見た目に似つかわしくない言葉遣い。予想もつかない奇天烈な行動。
こんな人物は一人しか知らない。
僕の元雇い主であり、まさに今日辞めてきた『
『ミリス・アルバルマ』その人だった。
「…………」
とりあえず、僕はこの人に言わなければならないことがある、どうしても言わなければならないことだ、これを伝えなければ僕は僕を許せない。
紅玉の瞳を見つめ返し、口を開く。
「店長、今日僕、休みなんですけど」
そもそも僕は今、休暇中だった。
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