なんでも屋の店員ですが、正直もう辞めたいです

高葉

0 プロローグ


 一人の青年が、地に倒れていた。


 辺りには無惨に倒壊した建造物の瓦礫が残滓のように散らばるばかりで、半ば更地と化しているが、周囲一帯に広がるその破壊の規模からは雄大たる建物が屹立していた事が窺える。

 しかし、今はもはやその名残りをほんの微かに残すだけとなっていた。


 土砂降りの雨が、その地の栄光も幸福な記憶も――彼の命さえも押し流すかのように容赦なく降りしきる。


 辛うじて開く片目で、光のない瞳で、曇天の暗い空を眺め、青年はぼんやりと思った。


 結局⋯⋯何もできなかったな⋯⋯。


 今まさに消えんとする己の命の灯火を感じながら、しかし彼にはもうどうする事も叶わなかった。


 瓦礫に押し潰された青年に両腕はなく、片目も抉れ、凄惨な傷によりその面貌すらも定かではない。それどころか、彼の半身は千切れ分かたれ彼方へと転がっていた。

 とうに身体の感覚など失っていたというのに、それでも全身から血が流れ落ち、雨粒と混じり消えていく毎に、魂が冷え切っていくように感じる。


 本当に、ダメな奴だ⋯⋯。


 青年は血に塗れ肉が露出し、表情すらも判然としない顔で薄い笑みを浮かべた。


 でもまあ⋯⋯給金分は働けたかな。


 最期まで役立たずな自身への諦観はあるが、逃れられぬ死への恐怖はない。

 希望は残す事ができた。

 この先を見届ける事も、力になる事も、傍に居る事ももはや叶わないが、最悪の事態だけは避けられた。後は、信じるだけだ。


 まったく⋯⋯こんな事になるなら⋯⋯やっぱり早いとこ⋯⋯辞めとくべきだった。


 そう思いながらも、自身の満ち足りていた人生を振り返り、青年は笑みを浮かべ永遠の眠りにつこうとする。


 しかし、その瞬間空から青年の元へと何かが舞い降り、彼は殆ど見えていない目を閉じるのを中断した。


 禍々しく流動する、黒紫の靄を纏った人間の如き二足二腕の異形。

 それは視線を動かす事すらままならず、空を見上げる事しかできない瀕死の青年の元へとゆっくりと歩み寄る。


 ⋯⋯初めて見た、そんな顔。


 自身を見下ろすように視界に入ったそれを見て、青年は三度みたび裂けた口端を吊り上げる。


 それは、涙を流していた。


 臓腑を握り潰すかの如き殺気を全身から迸らせ、しかし唯一美しく輝く宝石を思わせる紅い双眸から、滔々と涙を溢れさせている。

 大粒の雨が打ち付ける中でも、はっきりと見て取れる程に。


 その姿を見て、青年は思い直した。


 僕はもう終わりだ。

 けどもしも⋯⋯もしもこれ以上苦しめるのなら、その時は――死にすら抗ってやる。


 命がなくなろうが、この世界から消えてなくなろうが、絶対に諦めてはやらない。

 未練がましく、みっともなく、どんな手を使ってでも、何もできなくとも、足掻き続けてやろう。


 それは、自身をどうしようもないダメな人間だと評する青年の、死の淵に瀕した無力な男の、大それた揺らぐことのない決意。


 愛する存在の、その人生が報われる事を青年は願う。

 心の底、魂の――深奥から。

 

 だが次の瞬間、その決意を嘲笑うかのように、無慈悲に彼の頭部を――黒紫の影が踏み潰した。

 ぐしゃり、と雨音を遮る程の湿った破裂音が響き、青年の生涯は何ら救いのない最期を迎える。


「⋯⋯⋯⋯すまぬ」


 惨憺たる肉塊と化した彼へと、絞り出すように黒紫の影は涙を流しながらそう呟く。

 ごく微かなその声は、激しく打ち付ける雨音に呑まれ、誰にも届く事はなく――青年の命と共に無情にも消えていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る