はるかな過去の出来事。

 言葉と文字を持った人々が知識を求め始め、疑問から答えを見つけ出す「発見」に満たされる日々こそが喜びとなっていた時代。

 ある者は自らの周りに有る全てのものが、そこに在るとはいったい何なのか疑問を抱き。

 ある者は夜に輝く星とはいったいどのようにして成り立っているのだろうかと考究。

 人々が様々な「知」と「智」を求めている中、その男は己の住まう部屋の机に向かって書をしたためていた。白く威厳のある口髭をはやした老人は羽ペンを置いて深いため息を吐く。息が空気に溶け込んでいく中、右に首を動かして壁一面の棚の中にある無数の巻子本を眺めた。

 様々な考察、思考、発見、結果……、それらの全てが文字によって紙に表記され一本の巻物となる。積み上げられたおびただしい数の巻子本、それはその数だけの思考が此処に在ると言っているそのものであった。

 あまたの思考を見つめ、そして見つめられながら老人は口角を引き上げて嘲笑しつつ再びペンを手に続きを書き始めた。正面に設けられた小さな窓から入ってきていた太陽の光が、自分の右側から橙色に差し込んでくるようになってやっと老人は手を止める。

「やれやれ、一日というのは本当に短い」

 L字に固まりかけた腰を直立になじませるよう椅子からゆったりと離れた老人は、手に自らが先ほどまでしたためていた書とは別の一巻の巻子本を持ち、一度視線を書き掛けの机の上の書に走らせ、深く瞳を閉じてから部屋の外へと出た。

 橙色から紅色へ、色づきだした空に促され人々は己の家への帰路を急ぐ。朝の市場へ買い物に来て、そのまま立ち話や、床屋で雑談にふけった主人たちも夕刻になれば一度は自宅へと帰っていく。そうして、夕食を終わらせてから再び夜の散歩に出かけたりするのだ。そんな中、老人は自らの部屋を出てとある人物の家へと歩を進める。老人がこの刻限に外にでるのは珍しい。いつでも老人の居場所は先ほどの部屋であり、外に出るのはとてもまれなことだった。

 では何故、今日に限ってこの刻限に老人は出かけたのか。それは数日前のこと、老人は自らよりも若くありながら、弟子を幾人も抱え「師」と呼ばれる男から酒宴の招待を受けていたからだった。

 酒好きの連中が集まるこの都市で酒宴はいついかなるときも様々な場所で行われている。ただ酒を飲み、馳走を食うという宴もあれば、師と呼ばれるものを囲い、宴の初めにはそれぞれの学を披露し議論される場でもあった。

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