9
何かが居る、頭の中でそう思っているが、瞳に映し出される映像は誰も居ない自分の部屋。その違和感に怖さと苛立ちが同居して響自身を妙に慌てさせた。
(こんなときは寝てしまうに限る)
現実逃避に近い結論を出して靴を脱ぎ布団のある場所まで歩こうとした時、足元にあった何かを蹴飛ばして、あまりの痛さにその場にうずくまった。踏んだりけったりだと苛立ちながら、自分は一体何を蹴飛ばしたのかと見てみれば、それは源蔵のところから貰ってきたハードカバーサイズであるのに妙に重量のあるあの本だった。見た目はそうでもなくとも殊更ぶ厚い辞書のように重い本、靴を履いていない足の指が当たれば相応の痛みが返ってくるのは当然。足の指を手で押さえ、前かがみになりながらも開いている手で本を拾い上げて傷など無いか確認する。
最後の記念の本。
傷めてしまっては申し訳ないし、何よりまだ一文字も読んでないのだ。
「……良かった、大丈夫みたいだ」
渋く、何年も使い込んだ革財布のようにしっとりとした栗色の本をさまざまな角度から確認し、何も無いことにほっとして脇に抱えようとした時、どこか違和感があり首を傾げ、もう一度本を視線の先に持ってきて見て見る。変わってないように見える本だったが、その左の角、爪の先ほどの大きさで薄茶色い場所があることに気付いてはっとした。
「色が、違う」
そう、確か美晴堂書店で見た時の本はどこか乾いたような芥子色の革表紙だったが今は違う。帰りの道中雨は降っていなかったし、帰ってきてからは玄関で情けなくうずくまっていたから水道を使ったわけでもない。一体どこで濡れたのだろう? と響は考え始めて直ぐに答えに行き着いた。
「僕の涙か!」
考えてみれば帰ってきて直ぐに何も考えずに鞄を放り出し、中身がその辺に散らばって、其れを気にすることなく散らばった物の頭上で滝のように水を滴らせていたのは自分自身。
蹴り飛ばすよりも悪いことを自分でしておきながら、全くそんなこと気にしてなかったことに気付いた響は慌てて洗面所に駆け込んでタオルを一枚持ち出し、しみこんでしまった自らの水分を取ろうとタオルで本を包み込んだ。
その瞬間、タオルを通してじんわりとした暖かさが手に伝わって、さらにまるで日が沈む直前の夕焼けのような明るさで本が輝いた。
唐突な出来事に驚きつつも本を放す事無くその場にしりもちをついた響の手から腕へ、本が発しているのだろう光が渡り、やがて体全体を包み込んだ。不思議な事はそれだけではなく、気味の悪さに響は本を握っている指を本から放そうとしたが光が指にまとわりついているせいなのか、脳からの命令に従うそぶりを見せる指とは対照的に本はしっかりと指にくっついている。それどころか、言葉も出ないし体も動かず、響は光の拘束になすすべなくもだえた後、力んで硬くなっていた体がゆっくりと柔らかく地面に落ちていく。瞳の光が失われ、朦朧とした状態で瞼が落ち、響の意識はずるりと体から引き剥がされ暗い内側へと落ちていった。
どちらが下でどちらが上なのか、右も左もわからず、自分の存在さえそこにあるのか確かめる術もない暗闇。しかし、自分の体の周りには得体のしれない何かがねっとりとくっついて、決して離さないように、逃さないようにしていることだけはわかった。
浮いているのか、それとも沈んでいるのか分からない状況で響は意外にも冷静にその場所に居る。恐ろしいと思ったのは光に束縛され、体の自由が利かなくなったあの瞬間だけで、今は恐怖も何も感じない。訳のわからない事態に普通の人ならば泣き叫び、いったいどうなっているのか問い続け、果てには狂ってしまったかもしれない。しかし、響は暗闇のこの静かな空間に包まれれば包まれるほど心が静かに、これが当たり前の光景の様に思え、ふぅとまるで安心したかのような息を一つ吐いた。
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