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「すっかり日も暮れたな。お前さんの服も、もう乾いているだろうよ」
響は「あぁ、そうだな」と小さく呟き、手に持っていた本を元あった場所に戻す。
「面白かったか?」
感想を聞いてくる源蔵の方へ視線を向ける事無くダンボールの壁の裏側へと入った。湿った自分の濡れた服を干していたせいか、奥座敷ははじめ着替えるために入った時よりも何だか少し湿っぽく感じた。
鴨居にかけていた自分の洋服を取ってみれば、風通しが悪いせいだろうか、長い時間干していたのに完全に乾いては居らず、ほんの僅かにひんやりとしていた。生乾きの状態ではあるが、着るのに問題はないだろうと着替え、着ていた作務衣は綺麗にたたんで部屋の隅に置いた。
奥座敷と店舗の境目にあるダンボールの壁の前に立ち、一度軽く深呼吸をした響は再び体をこするようにして細い通路を抜ける。ちらりと自分のほうに視線を走らせた源蔵と、ほんの僅か視線を絡めただけで言葉を交わすことなく店の入口へ歩いていった。
源蔵の問いかけにもろくな返事をせず、また着替えた後もあまり良い態度を見せない響。しかし、源蔵はそれを咎めることもせず黙ってじっと見送った。あと数歩で店のガラス戸にたどり着くところで、くるりと響がこちらを向いて深く頭を下げたのを見た源蔵は口の端を引き上げ微笑んだ。
「また寄りたくなったら寄ればいい。この本屋はわしが居る限りここにあって、どこにも行かんからな」
響は頭を上げながらガラス戸の方へ向き直り、源蔵を視界に映すことなくガラスの引き戸を開けた。おそらくそれ程でもないだろうが、少々湿った服を着ているせいで外気がひやりと響の体を冷やす。足元から上がってくる自然な震えに身を下から上に少し身震いさせて、背中に感じる源蔵の視線から少しでも早く逃れようと、足早にその場を後にした。
路地角を二回曲がったあたりでようやくゆっくりと歩き出す。いつもなら、バスに乗り自宅の近くまでやってくるのだが響はバス停を通り過ぎて一人、一歩一歩足音を大きく立てながら歩いて帰る。下を向いていた顔を空に向ければ、いくつか残った雲が月光に照らされその輪郭を浮き彫りにし、涼しい空気と雨後の空には星が瞬いている。ふぅっと空に向かって息を吐いた響は久しぶりに思い出した「僕」ではない「私」の過去のことを考えていた。
人の脳は強烈な心的外傷を受けた際、自己防衛としてその事実を消し去ろうとする。
しかし、響の「私」は違った。堕天使と獣の間に生き、二匹が煤となっていくその様を見ていたにも関わらず、私の記憶は鮮明。そして、忘れようとも思わない。響の「僕」はそんな私をじっと冷ややかな瞳で見つめている。だが、今ここに居るのは響の中に居るはずの「僕」。一体何がきっかけなのか、「私」はあれ以来表に出てくることは無くなってしまった。
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