清らかな心を持ち、優しい笑みを浮かべる母は天使ではなく、堕天使であると気づいたのは私が12の時。


 ひどく寒い日。

 私は父が買ってきてくれた、お気に入りの童話全集を母に読んでもらっている最中、いつの間にか眠ってしまったようで、床の上で寝返りを打ち寒さに目覚める。

 いつもなら、こんな風に寝てしまっても母か家政婦の誰かがベッドへと運んでくれるのに今日に限って私は床に寝そべったまま、誰も私を運んでくれなかったようだ。

 それが分かると私は不機嫌になり頬を膨らませ、誰も自分をかまってくれていないことに腹を立てていた。

 しかし、起き上がって暫く経ち、私は辺りの様子がいつもと違うことに気がつく。

 ぱたぱたと廊下を小走りに動き回る家政婦の気配も無く、屋敷の中は静まり返っていた。

 家政婦が怠慢で私をベッドに寝かせなかったのではなく、誰も居ないからそうしようにも出来なかったのだ。

 我が家に家政婦が居なくなるなど本当に珍しいこと。

 屋敷の敷地内には家政婦の為だけの家屋がある。

 だが、数人居る家政婦全てがこの屋敷から居なくなることは無い。なにかのときのために誰かしらが居るのが普通だった。

 一体どうしたのだろう?

 そう思いながらも、空腹と喉の渇きに耐えられずに屋敷の台所へと私は向かった。

 いつもなら。

 何時になろうとも廊下には明かりが灯り、暖かな気配が包んでくれるのに、今日は頼りない月明かりが窓から差し込んでくるだけ。

 薄暗く妙に静まり返った廊下にはなんだか恐ろしい気配だけがあった。

 12歳にしては幼い思考であった私は、前方に行けばいくほど濃くなる闇に怯える。

 まるで暗闇の魔女がひそみ手招きをしているようだと、先程まで読んでいた童話全集を思い出していた。

 私は廊下をひどくゆっくり、ひどく静かに進む。

 背筋を走った寒気が気温によるものなのか、それとも恐れによって生み出されたものなのか。

 自宅の廊下であるのだからそんな必要はないのに、私は身を小さくしながらそっと音を立てずに歩いた。

 何故そう思ったのかは分からないが、その時の私は物音を立てると居場所を気付かれてしまう、静かにしなくてはならない、そんな気がしていた。

 そうっと。

 ゆっくりと。

 物音を立てぬように注意して歩いていた私の耳に、小さなうめき声のような、けれどもどこか喜びに満ちたような声が入ってきた。

 かすかに聞こえてくる、喉奥から呼吸とともに押し出されるような小さな囁き。

 いつもなら気にならない程度の声だったが、妙に静かな屋敷の中ではそれはとても響いて聞こえてきた。

 絶え間なく聞こえてくるどこか艶っぽい囁きに自然と足は声が漏れる部屋に向いていた。

 「怖さ」よりも「興味」の方が勝ってしまったのだろうか。あるいは、誰かが居ると言う安心感を求めたのか。

 怪しげな声のする方へと静かに歩いていった。

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