第4話『広がる暗雲』
◆ ◆ ◆
二時間目の世界史が終わり、俺はすぐさまスマホをポケットから取り出した。
うっかりいじっているところを教師に見られたら没収だ。
だが、逆に言えば見つからなければ問題ない。
『朝木さんは漫画とか読む?』
授業中に考えておいた質問を素早く打ち込み、SNSの個別チャットに送信する。
すると、三十秒も経たないうちに返信がきた。
『うーん、わたしはあんまり読まないかな。昼宮くんは漫画好きなの?』
俺は喜び勇んで、今ハマっている少年漫画について長文を書き連ねた後――冷静に読み返し、推敲してから返事をした。
こんな何気ないやり取りでさえ、俺にとっては至福のものとして感じられる。
あんなに可愛い朝木さんが、俺とラインをしてくれているのだから。
と、朝木さんが流れを断ち切ってこんなことを尋ねてきた。
『話変えちゃってごめん! やよいちゃんのことなんだけど、昨日怒ってなかった? 確か、幼馴染なんだよね?』
何だ、そんなことか。
あれは俺が煽るような真似をしたのが悪いのであって、朝木さんには関係のない話だ。
それをわざわざ気に病んでいるなんて、繊細なところがあるんだな。
『大丈夫だよ。やよいは俺に怒ってただけで、朝会って話つけたから。朝木さんには全然怒ってなかったよ』
しばらく、返信が途絶えた。
朝木さんと俺の席は、ちょうど教室の対角にある。
俺が座っているのは、教室の最後尾、それも黒板に向かって左端のベストポジション。
俺から見える朝木さんは、うつむき加減にスマホを操作している背中だけだ。
それでも、どうしてか彼女は何かに怯えているように見えた。
『ならいいんだけど』
やけにそっけない一言を受信すると同時に、チャイムが鳴った。
◆ ◆ ◆
「……なんか肩凝ったな」
一日の授業を終え、俺は大きく背伸びをした。
あれから、朝木さんとは一切メッセージのやり取りはしていない。
『ならいいんだけど』に対する上手い返事が思いつかなかったのと、やけに深刻そうな雰囲気の朝木さんに、軽い話題を振るのがためらわれたからだ。
朝木さん、もしかしてやよいを怒らせたのは自分だと勘違いしているんじゃないだろうか。
女子同士の喧嘩は長引くというし。
だったら、二人できっちり話し合って、和解の道を模索した方がいいだろう。
(さて、今日はどうしようかな)
さすがに朝木さんとまたぞろ並んで帰るわけにはいかない。
しかし、せっかく放課後になったのに、はいさよならでは味気ないものがある。
何とか朝木さんと二人きりになる方法を考えていると、
「ねえ皆! 今日図書館で一緒に勉強していかない? そろそろ中間試験あるしさ!」
よく通る声で、やよいが教室に残っているクラスメイトたちにそう提案した。
そろそろ、と言っても今は四月下旬。
五月下旬にある中間試験までは、三週間ほどある。
テスト週間に入るのは二週間前だから、少々気の早い話だ。
しかし、帰宅部のクラスメイトたちはかなり食いついてきていた。
「おい、どうする?」
「女子来るなら行こうかな」
「それな」
持ち前の性格で、早くもクラス内で一定の地位を獲得しているやよいの言葉に、女子はもとより男子も乗り気のようだ。
やよいの近くには、女子グループと一緒にいる朝木さんの姿もある。
皆してニコニコうなずきあっているのを見るに、この勉強会に参加するつもりだろう。
なら、この機を逃す手はない。
「やよい。それ、俺も行っていい?」
「え、ダメー」
「何でだよ!?」
予想外の否定に思わず突っ込むと、やよいはケラケラと愉快そうに笑った。
「嘘嘘。いいに決まってんじゃん。それじゃ、やる人は図書室集合ね! つっちー、行こ!」
「うん! やよいちゃん数学得意だよね? 分からないところあってさ――」
かくして、放課後の勉強会は幕を開けたのだった。
◆ ◆ ◆
『昼宮くん。五分くらい経ったら職員室の前まで来てくれない?』
勉強会が始まって、一時間後。
最初はガヤガヤと騒がしかった図書室も、シャーペンで記述する音だけが響くようになった。
何の気なしに懐のスマホに目をやると、朝木さんからこんなメッセージが届いていた。
俺は飛び上がりそうになりながら、
『いいけど、何で?』
教科書を読む振りをしながら、朝木さんのいる方を見やる。
中学からと思しき友達と、やよいたち高校の友達と同じ机だ。
ちょうど、やよいがつっちーに勉強を教えているタイミングだった。
『ちょっと二人で話したいことがあって』
詳細は会ってから、ということだろう。
やけに歯切れの悪い朝木さんの物言いに、俺も大体の事情を察した。
『分かった』
短くそう答えると、すぐに朝木さんが席を立った。
机に向かっている友達には『教室に忘れ物しちゃって』などと言い訳している。
職員室は、図書室横の階段を降りてすぐのところにある。
放課後でもそれなりに人通りがあるので、あまり密談には向かないと思うけど……。
まあ、だからこそ二人で話していても怪しまれにくいか。
現在の時刻は五時五分。
下校用の最終バスは、確か五時四十五分発だったはず。
それを踏まえると、話していられるのはせいぜいニ十分といったところか。
朝木さんが図書室を出た後、パタパタというスリッパの足音が遠ざかっていく。
図書室近辺には、教室も部活動をしている生徒もいないので、その音はいやによく響いた。
用件はどうあれ、やっと朝木さんと二人きりになれるのだ。
俺は一日千秋の思いで、何度も壁にかかった時計に目をやっていた。
あと三分。二分。一分三十秒。一分……。
五時四分三十秒のところで、俺は待ちきれなくなって立ち上がった。
参考書コーナーに立ち寄りつつ、さりげない足取りで図書室の外へ。
階段を下ると、職員室の前で朝木さんが待っていた。
しきりに辺りを見渡していたが、俺に気づいた途端ほっとしたように頬を緩める。
「昼宮くん! こっちこっち」
「どうしたの? 話って」
「うん。やよいちゃんのことなんだけどね……」
と、不意に職員室から教師が出てきた。
とっさに俺は身体を半回転させ、壁に貼ってある掲示物を見ている素振りをする。
俺と朝木さんが付き合っていると疑われるような要因は、少しでも取り除いておかなければ。
教師が通り過ぎていったのを確認してから、改めて朝木さんの方を向き直る。
(……ん? 誰かいる?)
一瞬だけ、今しがた降りてきた階段の踊り場――厳密には、踊り場の鏡に生徒の姿が写っていたような気がした。
スカートの裾が見えたから、女子生徒だろうか。
気になってもう一度見たが、もう誰もいなかった。
「……で、やよいがどうかした?」
「えっと……やっぱり、やよいちゃん絶対怒ってると思うんだよね。わたしが昼宮くんに告白したりしたから」
俺はつい苦笑してしまった。
予想通りとはいえ、朝木さんの心配性も相当なものだ。
「だから、大丈夫だって。第一、何であいつが朝木さんに怒るのさ。俺がやよいの彼氏だったりしたらまだ分かるけど」
「それは……何となくっていうか、うまく言えないんだけど、昨日会ったとき、ものすごく怒ってる感じがしたから」
「うーん……でも、朝木さんとも普通に話してるよね?」
「うん。それが何だかかえって怖いっていうか……」
実を言うと、それは分からないでもなかった。
やよいが本気で怒ったときは、露骨に不機嫌にはならない。
それでいて、こちらがどんなに下手に出ても、一向に許してはくれないのだ。
ただ、怒らせた張本人である俺の謝罪を受け入れていたから、今のやよいがその激おこ状態である可能性は低いはず。
「……まあ、考えすぎだと思うけど、俺の方からも言っとくよ。それでいい?」
「あ、いいの! というか、昼宮くんが言うと、むしろ逆効果かも……」
「逆効果?」
「ううん、何でもない! ごめんね、変な話しちゃって」
「いや、俺も朝木さんと喋れて楽しかったから」
この俺が、こんなに可愛い女の子と面と向かって話せる日が来るなんて。
しかも、朝木さんは俺の彼女なのだ。
俺を好きでいてくれる子がいるというだけで心が弾む。
嬉しさを前面に押し出す俺に、朝木さんはようやく笑ってくれた。
「う、うん。わたしも楽しかった。じゃ、そろそろ戻ろっか。わたしが先に帰るね」
そう言って、朝木さんは図書室とは反対の方向へ歩き出した。
図書室の最寄りの階段ではなく、西側にもう一つある別の階段から上がるつもりなのだろう。
つくづく徹底した隠蔽ぶりだ。
俺は適当に時間を潰してから、降りてきた階段を登って図書室へ向かった。
「あ、庸光。お疲れー。どこ行ってたの?」
図書室に入ろうとすると、近くにあった女子トイレから出てきたやよいと鉢合わせた。
ピンク色のハンカチで手を拭き、綺麗に畳んでからスカートのポケットに仕舞っている。
突然のことに驚き、中途半端な嘘をついた。
「え? いや……ちょっと先生のとこに質問」
「そうなんだ。真面目だねー。彼女できて、やる気出しちゃった? あの子頭いいもんねー」
「やめろって」
「照れなくてもいいじゃん。……ていうか、もっと見た目ちゃんとしとけば? いつバレても恥ずかしくないようにさ」
「……確かに」
俺は寝癖のついた頭を触った。
人目を気にすることがほとんどなかったので、いつも身だしなみは最低限のことしかしてこなかった。
しかし、これからはそうはいかない。
少なくとも、俺が彼氏だと知れ渡っても、朝木さんが馬鹿にされないようにしなければ。
すると、やよいがこんなことを言ってきた。
「今度の土曜日、私と買い物行かない? そのときいろいろアドバイスしてあげる」
「お前が? いや、でもな……」
一応彼女がいる身なのに、他の女子と遊びに行くのは不味い気がする。
いくら兄弟同然の仲であるやよいとでもだ。
渋る俺に、やよいがニヤニヤしながら耳打ちした。
「……庸光さ、女の子とどんなところにデート行けばいいか分かる? 適当に映画見てカフェで時間潰すとか、そんな雑なプランじゃ春留ちゃん呆れちゃうよ?」
「う……」
「私も勘違いされないような格好で行くからさ。庸光もラフな格好で来なよ。そうすれば、誰かに見られても言い訳できるでしょ?」
「いや、でもな……」
「なら、私の親も連れてくから。二人とも、庸光のことめっちゃ気に入ってるから、絶対来てくれるよ。これならデートに見えないでしょ?」
俺がためらう原因を、やよいは丁寧につぶしてくる。
伊達に俺の幼馴染を十五年もやっていない。
俺はこっそりと頷いた。
「じゃ、決まりね。細かいことは夜ラインするから。よろしくー」
実に愉快そうに笑いながら、やよいは足取り軽く図書室に入っていった。
(これは浮気じゃない。単なるリサーチって奴だ)
そう言い聞かせながら、心の中にじわじわと罪悪感が広がっていくのは止められなかった。
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