第32話 稽古場
多村はコートを着込んで署を後にした。夜というには早い時間だが、すっかり陽は落ちている。駅前で大学生らしき集団が道に広がって騒いでいた。これから居酒屋にでも向かうのだろう、その横を通り過ぎる。クリスマスソングが流れてくるケーキ屋の店頭では『予約受付中』の文字が躍っていた。駅の階段を下ると、騒がしさも冷たい外気も遠のいていった。
片山も言っていたように、会田の死が自殺に偽装した殺人というのは多村の推理に過ぎない。全ては状況証拠によるもので、物証と呼べるものはなかった。存在したはずの、飛び降りのシーンが書かれた台本もとっくに処分しただろう。これから証拠が見つかることは期待できない。
やはり殺人で捜査に着手することは無理なのか。多村は到着した電車に乗り込んだ。残された手があるとすれば一つ。自供させることだ。口裏合わせも十分に済んでいるだろうが、僅かなほころびを見つけるしかない。
現場に駆け付けた刑事たちを欺いた彼らだから、滝沢や国村には話を聞けたとして、巧みな演技に翻弄されてしまうだろう。それでも多村にはわずかな希望があった。
稽古場の最寄り駅を出ると、さっきよりも冷え込んでいるように感じられた。人通りも少ないせいで、どこか物悲しい気分にさせられた。稽古場へ足を向けたものの訪問が目的ではなく、ただいても立ってもいられないだけだった。
ビルの前まで来て7階を見上げたが電気は点いていなかった。今日は稽古は休みか。結成20周年記念公演『別れの哀殺』の上演が決まっているが、まだ稽古を始めていないのだろうか。
折角来たのだからすぐに帰る気にはなれず、多村は喫茶店に入った。以前小林美恵子と入った店だった。中に入ると暖房のもわっとした空気とコーヒーの匂いが混じって顔にかかった。
窓際に座ったがビルは見えず、時間を待ってもう一度様子を見に行くことにした。コーヒーを飲みながら時間をつぶす。苦みのあるここのコーヒーの味が嫌いではなかった。
多村は窓外を眺めながら、娘のことを考えていた。電話をかけそびれたままだった。正確に言えば、一度かけたがちょうど寝付いたところだった。
「クリスマスプレゼントのことでしょ」
電話に出た元妻は何がいいか、先回りしてそれとなく娘に聞いてくれていたようだったが、掛け直すと言って切った。声を聞きたかった。
思えばこうして個人的な捜査ができるのは独り身だからだ。家族がいれば休みをつぶすことはしなかった。離婚したことに感謝はしないが自由な時間が増えたのは確かだった。
ちょうど目の前を親子連れが通り過ぎた。まだ若いお母さんと幼稚園ぐらいの男の子。
窓際に座ったのは、逢友社の団員が前を通るかもしれないと淡い期待を寄せたからだが、それらしき人は通らない。
1時間ほどして店を出た。ビルまで来たが、やはり電気は消えたまま。今日は稽古がないようで諦めて帰ろうとして、ビルの中を覗いて多村は目を見開いた。
階ごとにテナント名が書かれた案内板の7階の所にあった『逢友社』の文字が消えていた。
とっさにドアを開けて中に入った。近寄ってみても、やはり7階の部分は空白だ。エレベーターに乗り、7階で降りたが掲げてあった『劇団逢友社』の表札もなくなっていた。
―移転したのだ―
多村はドアの前で呆然と立ち尽くした。
考えられることだった。考えておかなければならなかった。
事故直後に実況見分を行っているが、殺人事件としての捜査はまた別だ。逢友社が呼吸している部屋と息の途絶えた部屋では感じられるものが異なる。理屈ではないものだ。目の前の部屋には、もはや血が通っていない。
何より本郷東警察署の管轄を離れてしまえば、手が出しにくくなってしまう。
後手後手に回っていた。一人で、それも勤務外に捜査しているのだから仕方がないが、大きな痛手だった。
これも滝沢の打った手だろう。広いスペースと防音設備が必要な劇団の稽古場を見つけるのは容易なことではなく、前々から探していたに違いない。
ビルを出るとため息が白い煙となってすぐに消えた。
逢友社は劇団で、公演も控えているから、新しい所在地を隠すことはない。スマートフォンの公式サイトはまだ更新されていないが、遅かれ早かれ、何らかの形で公表するだろう。
あの稽古場は逢友社にとって縁起のいい場所ではなかった。『別れの哀殺』で人気を集めて移転したものの、その立役者である柳田優治は死に、人気は低迷。会田安宏も死んだ。新しい主宰者のもとで新生逢友社としてスタートを切る。殺害現場である事を考えても、移転は予想できたことだ。
それを見通せなかった自分が腹立たしく、情けなかった。こんなことで彼らの罪を暴けるだろうか。
まだまだ滝沢は新しい手を打つだろう。その頃には、証拠もなにもかも消え去ってしまう。早く何とかしなければならない。多村に焦燥感が生まれていた。
やがて公式サイトに「事務所移転のお知らせ」が出された。
会田の死から間がないからか、祝いめいた雰囲気はなく、事実だけが淡々と書かれている。新しい住所は都内ではあったが、予想していた通り、本郷東警察署の管轄を離れていた。
もはや殺人での捜査着手は風前の灯火だった。
そろそろ頃合いか。多村にも諦めの色が濃くなっていた。
しかしまだ一縷の望みが残されている。それをやらずに終えるわけには行かなかった。
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