11:34




 一般社員居住エリアの調査が終わったのは一一三四。後半は意識してペースを上げたので、当初予定より二十分程度の遅れで済んでいる。

 カノエは集合住宅の戸口に腰掛けると、背負っていた荷物を一旦下ろす。アドバンスドの身体特性にスキンスーツのケア効果が重なり、汗はほとんど掻いていない。わずかに蒸れている程度だ。

 できれば速やかに次のエリアへ移りたいところだが、カノエと違ってレイモンドには身体的なサポートがない。何しろこの二時間半の移動距離が八・七九キロにも達している。これは、大型犬の散歩を遥かに上回るハードさだ。実際彼は香箱座りのまま眠り込み、お皿に水を注ぎ入れる音にも反応を見せない。

 どうしたものかとしばらく思案するカノエだったが、並んで昼寝を決め込もうにも眠気はまったく感じない。むしろその逆だ。二十三センチの女やハチワレの正体を、できるだけ早くに突き止めたい。突き止めて不安を払拭したい。

 カノエは彼を起こさないよう静かに傍を離れ、フライビッツを警戒モードに。レイモンドを取り囲むように配置すると、〈右目〉を油断なく周囲に走らせる。

 カノエたちの現在地はA01棟の南端。つまり、横二十棟×縦十棟と並んだ集合住宅の最も南西の角だ。

 すぐ目の前には一般社員居住エリアを取り囲む外周通りがあり、道幅二十メートルのその向こうが大規模商業エリア――大きなショッピングモールが建っている。〈右目〉のマップによれば大規模商業エリア唯一の建物で、高さは七メートル、幅は百二十メートル。二十メートルごとに分割線が走り、空輸用のフックもそれに沿う形で生えている。客はこの社宅群の住人に限られているので、外観は白い防汚塗装そのままだ。

 右手に目を動かすと丁字路があり、ショッピングモールの裏側にも道路が通っているのが見える。道路の向こう側には緑地帯が設けられ、その背後にフェンス。さらにその後ろにこの社宅群の外壁が連なっている。どれも人の手が加わった形跡は見つからず、すっかり荒れ放題だ。

 視線を反対側に、左手へ向けると、南北の大通りと交わった交差点が百五十メートル先にあり、その奥――大規模商業エリアの向かい側に行政サービスエリアがある。

 今いる場所からはショッピングモールに遮られて部分的にしか見えないが、行政サービスエリアの建物は複数の箱の連なりだ。高さは十五メートルから四十メートル。幅や奥行きは三十メートルから八十メートル。一階部分の仕様や窓の配置などからおおよその見当はつくが、どの建物に何が入っているのかは〈右目〉でもわからない。もう少し近づけば、案内の看板なりサインなりが見えるかもしれないが。

 背後を振り返ると、レイモンドの頭は真っ直ぐ伸びた両腕の間に落ち込んでいて、眠りはかなり深そうだ。

「…………」

 しばらく思案したが、カノエはひとりで偵察を続けることにした。レイモンドの姿を何度も何度も振り返り見ながら、交差点まで歩いて行く。ショッピングモールを回り込むように近づくと次第に視界が開け、〈右目〉に入る情報量が格段に増えた。

 最寄りの建物のエントランスに掲げられたサインによると、行政サービスエリアを構成している部署は全部で六つ。北側――カノエに近い側から順に、公衆衛生局、社内交通局、警務保安局、行政総務局、総合医療局。最も南にあるのは、体育館を併設した義務教育局だ。

 視線を南へ向けると、三百メートル先で生け垣が立ちはだかり、南北方向の大通りが行き止まりに――丁字路になっている。手入れがされていないので生け垣の高さは一定しないが、最も低い部分で三メートルほど。マップ上の余白からの推測だが、あの向こうが上級社員居住エリアのはずだ。

 交差点の中央に立って全方位をぐるりと見渡したところで、カノエはそそくさと踵を返した。ひと目見た限りではハチワレの足跡は見当たらないが、〈右目〉の取り込んだ視覚情報を〈首輪〉が分析し始め、レイモンドの元にへ帰り着いたときには逃走ルートが判明していた。一般社員居住エリアの南東部から行政サービスエリアへ向かい、公衆衛生局や社内交通局の付近を徘徊した後に対岸のショッピングモールへ。足跡に戸惑いがないところを見ると、定番の経路なのかもしれない。

 三分も離れていなかったので、レイモンドはもちろん眠り続けている。隣に腰を下ろしても耳がぴくりとも動かない。この様子だと、目を覚ますまでに少し時間が掛かりそうだ。

 幸いにも、時間にはゆとりがある。帰りの電車の時刻から逆算すると、タイムリミットは十八時の少し手前ごろ。まだ六時間以上もある。この二時間半で社宅群の四割ほどを調べたので、面積ベースで考えても四時間あれば間に合う計算だ。

 カノエはレイモンドに倣って寝そべり、両目を閉じる。疲れてはいないし眠くもないが、目まぐるしく移り変わる〈右目〉内の情報は時としてひどく鬱陶しい。やはり、視覚にも休息が必要だ。

 そんなカノエの意を汲んだのか〈首輪〉も余計な口出しを控えているが、それでもつい考えてしまうのはこれからの行動についてだ。

 まずは企業資産査察員として、不法居住者の有無を確かめなければならない。地方政府に提出する資料は住宅のみと決められているので、休憩が終わり次第すぐに上級社員居住エリアへ向かう。というのも、住宅以外の建物にはみだりに立ち入らないよう勧告されているのだ。理由は言わずもがな。企業側からの要請だ。

 だが、カノエとしては特に問題はない。何しろ上級社員の社宅こそが――そこに備わっている総合情報端末こそが、今回の旅の本命だからだ。

 企業によって統制レベルに差はあるが、一般社員と上級社員とでは外部との接続権限に大きな違いが存在する。大抵の場合、一般社員は企業ネットワークの中から出ることを許されず、その一方で上級社員に制限は課せられない。公私を問わず社外との通信や連絡は自由に行なうことができ、カノエが求めているのはそのログだ。やり取りの内容が丸ごと残っていればベストだが、通信先だけでも何とかなる。手当たり次第に集めてビッグデータ化して様々な角度から分析すれば、旧ハスミ生化学が本当は何を研究していたのかつまびらかになる。

 もちろん、どんなに小さな要素エレメントでもヒラサワ計画そのものについて得られればベストだ。インプラントを構成している素材の一種類だけでも判明すれば、不可能とされてきた複製化も夢ではなくなる。九つの魂ナイン・ライブスという制約から、彼は解き放たれる。

 しかし、三巨頭――〈連合ユニオン〉、〈共同アルテリ〉、〈財団ファンド〉――による企業の寡占化が進む中、彼らに飲み込まれたモノは徹底的に解体され、再編され、巨大なひとつと化した。成果物や研究データは共有され、統合され、劇的な相乗効果をもたらした。それらが何度も何度も繰り返された今、かつてを正確に知ることは困難を極める。例えるならそれは、そのヒトの見た目から幼児期に食べた離乳食の種類を当てるようなもの。

 だからこうして、現場を地道に探るしかないのだ。

 あらゆる情報を〈首輪〉に取り込み、少しでもヒラサワ計画との関連性が疑われればリストアップし、地方政府と調整を図った上で企業廃墟に足を運ぶ。この旧ハスミ生化学に狙いを定めたのも、以前訪れた旧インテルシオン・アクシズの別荘地がきっかけだ。その前は旧ノウジマ機工、さらにその前は旧イパー・エイティ・ワン、旧シュポンガー、旧アマヅチ=ニヤド、旧VVCオスタンキ――

 そのようなことを、もう四十三回も繰り返している。

 けれども未だに、ヒラサワ計画についてはほとんど明らかになっていない。判明しているのは計画の概要と、計画が生み出した成果品――レイモンドと彼の装備品と〈右目〉のみ。スミス博士の出自はおろか、ヒラサワが人名なのか社名なのかもわかっていないのだ。

 そのような現状なのだから、他の場所を調べてもあまり意味はない。企業にとって重要な情報は移設なり抹消なりされているのが当たり前で、何の処置もなく捨て置かれたサーバー類に残っているのは取るに足らない瑣末事ばかりだ。購買情報や医療履歴、下水処理量、各種交通機関の移動ログに、特殊焼却炉の運転時間など。もちろん、これらの中にも役立つものはある。カロリーの平均摂取量や特定の症状の有病率などから、労働環境を推測できたりするのだ。

 だが、そうやって導き出された実像は圧倒的大多数を占める一般社員のものだ。計画を生み出した半世紀以上前の研究室へ至るにはいささか遠すぎる。そもそも一般社員の動向をどれだけ洗ってみたところで、彼らは所詮『労働力を兼ね備えた資産』に過ぎないのだ。

 揺り籠から墓場までを一営利企業が担うようになり、全人格労働を超えた全人生労働が実現した今、何の後ろ盾もない社員とその家族は文字通りの社畜と成り果ててしまった。その単語が俗語スラングとして用いられた時代とは違い、ひとたび企業のくびきに繋がれればもはや逃れる術はない。その有り様は、まるで――

 カノエは急に息苦しさを覚え、自分の喉元に手を掛ける。

 ――〈首輪〉

 自分とレイモンドとを繋げているもの。翻訳機。交流機。IDを偽装し、あらゆる場所へ現れるための隠形機シャドウメイカー牢獄ベンサレムと外界との間を橋渡すもの。

 けれどもそれは、現実の一側面に過ぎない。

 企業に養われている彼らは、自分と同じだ。所属が違うというだけ。自分を含む〈妹たちレッサー・シスターズ〉の生殺与奪は、すべて〈大姉グレート・シスター〉のもの。自分が役立たずになれば――〈大姉〉さえその気になれば一人残らず処分される。一度も目を開けることのなかった百四十三人のように。

 カノエは〈首輪〉に触れたまま身じろぎを止めていたが、やがて目を開け、人目を憚るかのようにそっと視線を動かす。

 時刻を確かめた。まだ余裕はある。

 レイモンドを見た。まだ眠っている。

 フライビッツに反応はない。探知範囲を一時的に拡大するが、半径五十メートル内に敵対可能性を有する動体は確認できない。

「……キャストオフ」

 そう囁いてから〈首輪〉の両側を上下から挟むと、赤で強調された通知ノーティスが視界の右半分を埋め尽くす。

 ――!警告!調査行動中の着脱非推奨

 ――バッテリー充足率:77%

 ――皮膚接地面モニター結果:良好

 ――本体定期ケア推奨時期まで459日

 所定の手順でシャットダウンさせないと破損の恐れが出るので、脱着に関しては〈首輪〉の思考支援能力が及ばないようになっている。なので、カノエの気は翻らない。

 今はとにかく、この軛から脱したかった。ほんの数分でいい。戒めを逃れ、思い出したかった。自分が描いたという〈似顔絵〉のことを。そして、感じ取りたかった。〈似顔絵〉がプライベートボックスへ置き去りにされていた理由を。あんな紙一枚、隙間に入れて運べないはずがないのに。なぜ、二度とは戻れないこの街に残したのだろう。本当は、何を残したかったのだろう。

 カノエがなおも〈首輪〉を掴み続けること十秒。

 強制イジェクトが働いて全体が緩み、後ろ側に現れた継ぎ目からするりと〈首輪〉が抜け落ちる。機能を停止したスキンスーツが素肌から離れて膨らみ、スリープモードに入った〈右目〉がひとりでに閉じた。

 半分になった視界の中、カノエは握り締めた〈首輪〉をまじまじと見つめる。

「……えーっと」

 見た目は合成皮革製の黒いチョーカー。外周部を等間隔に並んだ四角い金属片が飾り立てていて、その間がゴムのように伸びている。ナノマシンマテリアルが開発される以前の、確か――何とかいう特殊素材だ。

「あれ……?」

 カノエは――わたしは焦った。いつもなら勝手に浮かんでくるはずの答えが、どれだけ意識を集中させても一向に出てこない。その代わりに、思考支援というものの存在を思い出した。わたしの思考力や記憶力の大部分は、借り物だということを。

「……そういえば、わたし」

 掴んだ砂が指の隙間からこぼれ落ちるように、考える力がどんどん失われていく。わたしはどうして首輪を外したのか。今まで何をしていたのか。そもそもここはどこなのか。頭の中がどんどんぼやけていく。

 そのうち、手の中にあるのが何なのかもわからなくなって、怖くなったわたしはぎこちなく起き上がった。

 どうやらここは廃墟らしい。太陽が照りつけてくる南側は大きく開けていて、平べったい建物といくつもの箱が組み合わさった建物が見える。壁は薄灰色にくすんでいて、屋根には何本ものフックが生えていて。ひび割れた路面からは背の高い雑草が束になって生えて、そよ風にゆらゆらとなびいている。

 左目だけで見る景色はとても平板に見えて、なんだか現実味が薄い。でもこれは、夢じゃない。シャツの下でぶかぶかになっている全身スーツや、さらにその下でにじみ出ている汗がべたべたして気持ち悪い。

 けれど、この空気感は嫌いじゃない。とても寂しい場所のはずなのに、何もわからないのは怖いはずなのに、心細さよりも安らぎのほうが大きい。できることならずっと、ここでぼんやりして過ごしたい。

 もう一度寝転がろうとしたわたしは、そのとき初めて隣に誰かいることに気づいた。

 ネコがいる。陽だまりの中、毛足の長いサバトラ模様のネコがコンクリートの上で昼寝をしている。首輪と一体化したベスト状のハーネスを着けていて、毛を巻き込んでいるせいもあってとても窮屈そうだ。

「……そんな格好で、苦しくない?」

 そのサバトラは、両手を前に伸ばした腹ばいの姿勢で寝ている。何かに似ていると思った途端、スフィンクスという単語がわたしの頭に浮かび上がった。あれは確か――そう、ベンサレムだ。

 ベンサレムには世界中の建築物や遺跡が再現されているエリアがあって、その中にギザのスフィンクスがあった。スフィンクスの前で同じ格好で寝転んだ彼を、何とかして記録に残そうとした覚えがある。

「……彼?」

 違う。目の前にいるサバトラは、違う。だって彼は黒ネコだった。スミス博士から暗黒物質ダークマター呼ばわりされるぐらいの、漆黒の毛色の持ち主だった。

 だとしたらこのサバトラは、何と呼べばいいのだろう。レオ、コテツ、タイガー、ハリー、マックス――頭の中で次々と思い浮かぶのに、どれもしっくりこない。

「あなた、おなまえは?」

 声を掛けると、サバトラの耳がぴくりと動いた。でも、一度だけだった。両腕の間に顔を突っ伏したまま、サバトラは全然起き上がる気配を見せない。昼寝がよほど気持ちいいみたいだ。

 そんな寝姿を見ているうち、わたしもだんだん眠くなってきた。我慢できなくなって大あくびをして、サバトラの隣にごろりと寝転がる。

「せっかくだから、一緒にお昼寝しよっか」

 雲は少しあるけれど、空はよく晴れている。絶好の昼寝日和だ。

 両腕をうんと伸ばしながらあくびをしたわたしは、ずっと握りしめていたものに気づいた。

「これは……」

 黒いベルト状の――何かだ。金属片でごつごつした面と肌触りのいい面があって、長さは首に巻くとちょうどよさそうな感じ。もしかしてわたしのものかもしれないけど、今は着けたくない。

 わたしはそれを手放した代わりに、自分の首をさすってみた。思っていたよりもすべすべしていて、何だか気持ちいい。

「あ、あー」

 意味もなく声を出して喉を震わせると、不思議と嬉しくなってしまう。

「ああ、うん」

 喋るのがとても楽だ。それが嬉しい。今までずっと息苦しかったという、そんな記憶がある。

 だとしたらわたしは、声を出す苦しさから逃れたくてこれを外したのかもしれない。

「ねぇ、あなたは苦しくないの?」

 けれど、隣で眠っている彼は穏やかな寝息を返すだけ。すうすうぷうぷうと繰り返される音に耳を傾けていると眠気はさらに増して、ひとたび左目を閉じると開けられなくなってしまう。

「…………」

 彼の名を呼んだはずなのに、唇が動かない。だらんと投げ出した足も、首をさすったままの手も、二度と動かせる気がしない。

 だけど、これでいい。

 ここがどこなのか。わたしは何をしていたのか。そんなことは、もうどうでもいい。

 ここはベンサレムじゃない。わたしは彼と一緒にいたい。それさえわかっていれば、もう十分だから。

 わたしはそのために、ずっと頑張ってきたのだから。あとはどうなったって、いい。

 そうしてわたしの意識は、どんどん落ちていく。

 落ちていく。

 落ちていく。

 落ちていくのに、一向に底へたどり着かない。ずっと落ち続けている。

 もうこれでいいと見限ったばかりだけど、これからわたしはどうなってしまうのだろう。手も足も、もう動かせない。

「それはただの思い込みだよ。きみの手足はちゃんと機能している」

 どこからか男の子の声がする。聞き覚えのある声だ。

「さすがにそのあたりはちゃんと覚えてるみたいだね。ひとまず安心だ」

 おまけに馴れ馴れしい。でも、安心できる声だ。

「それは何より。警戒心を抱かれてしまっては、この先の話ができないからね」

 声の主はそう言うけど、わたしにどんな用があるのだろう。

「一時的な忘失だと思うけれど、念のために名乗っておくよ。ぼくはレイモンド、の模倣者コピーキャット。正確にはさらにそのコピーだ」

 レイモンドという名前なら、確かに聞き覚えがある。そのあとに続くコピーキャット云々はちょっとわからない。

「うん、今はその程度の認識で構わないよ。右目の内部領域だけでメンテナンスするのは非効率的だから首輪のストレージ内に本体を移していて、今こうして話しているぼくはアバター程度の存在だ」

 あばたのレイモンドは、わたしの知っているレイモンドと少し違うらしい。難しい話ばかりしてくる。

「それは、首輪が外れているからだよ。今こうして話しているぼくはきみの曖昧さの中にいる存在で、再び首輪に繋がれればきみの記憶も自動的に補正される」

 それで、わたしはどうすればいいの?

「とても簡単だ。もう一度首輪を着ける」

 それだけ?

「うん、それだけだ」

 ほかに方法は?

「残念ながら、そのひとつだけなんだ。きみが、この停滞から抜け出す手段はね」

 それならわたしは、このままでも構わない。

「けれど、やがては現実に立ち返る瞬間がやって来るよ。きみは今、引き伸ばされた時間の中にいるだけだから」

 どうしても、戻らないとダメ?

「そういうことになるね。このまま暗闇の中を安穏とたゆたうのか、まばゆくも厳しい光の下へ戻るのか。もしも後者なら『首輪を着ける』と念じ続ければいい」

 首輪を着ける。

「そう、その調子だ。繰り返すうち、きみの身体は動くようになる」

 首輪を着ける。首輪を着ける。

「本音を言うとね、きみにはずっとこのままでいてもらいたいんだ。だってあれは、きみたちにとっては呪いも同然だ。敢えて苦難の道を行かずとも、きみの願いは叶えられる。無理をして、旅を続ける必要もないのに」

 首輪を着ける。首輪を着ける。首輪を着ける。

「だけど今は、そんなことを言ってる場合じゃない。首輪を着けなければきみは生き延びられないし、きみの命を守ることがぼくを含めたレイモンド一同の願いだ。だってきみは、この暗闇の中からぼくたちを連れ出してくれたのだから」

 首輪を着ける。首輪を着ける。首輪を着ける。首輪を着ける――

「……を……る」

 首輪を着ける。寝そべっている。右目が開かない。首輪を着ける。首輪を着ける。首輪はどこに。

「……わを……ける」

 首輪を着ける。首輪を探す。身体を起こす。まだ目が開かない。首輪を着ける。這いつくばる。腕を伸ばす。

「く、びわを……つけ、る」

 首輪を着ける。何かに触れる。たぐり寄せる。首輪を着ける。首輪を着ける。左目が開く。首輪が手にある。首に充てがう。〈首輪〉と繋がる。

 その瞬間、わたしの――カノエの〈右目〉が覚めた。〈首輪〉とスキンスーツが自動的に装着され、突如として意識させられる息苦しさに苦悶の声が漏れる。

「んっ……く」

 開けていく視界にシンクロして意識も明瞭になり、洪水のように押し寄せる情報で〈右目〉の中が埋め尽くされる。

 現在時刻:一二〇八。疲労を原因とする短期レム睡眠により生じた意識の途絶、および覚醒の途上。各種バイタル値:ほぼ正常の範囲内。体内水分量低下傾向につき経口補給推奨。二十分程度の横臥による軽度の血行障害発生、スキンスーツ:微弱パルス処置動作中。フライビッツの観測結果:敵対性移動物体は確認できず――

 それらの中で、最もカノエの気を惹いたのは現在時刻だ。なんと三十分近くも経っている。自分の記憶では、横になってほんの少し目を閉じただけなのに。

「わたしは、何を……?」

 眉を顰めて訝しむカノエだが、先ほどとは打って変わって〈首輪〉からリアクションは薄い。客観的なデータとして、スキンスーツやフライビッツの動作ログを表示させる程度だ。

 だが、どうにも釈然としない。〈首輪〉の思考支援能力をもってすれば、記憶の部分的なマスキングぐらい簡単にできてしまう。それに、本当にただ居眠りしていただけならこれは――少しだけ削れてざらつく爪先は、一体何なのだろう。〈右目〉曰く、硬い物体との摩擦で生じたものらしいが。

〈右目〉が自動保存している視界を呼び出そうとしたが、レイモンドがおもむろに起き上がって伸びを始めたので、カノエは急いで鎮痛タブを口に含んだ。

《急いで調査を再開しよう、カノエ。寄り道はせずに、上級社員居住エリアへ直行するんだ》

《どういうこと》

《社宅群の使用期限切れは今日だ。建物によって多少のバラつきはあると思うけれど、残り時間は五時間三十九分しかない》

《そんな》

《身体が寝ている間、行政サービスエリアへ思い切り手を伸ばしてみたんだ。だから間違いはない。理由も原因も色々と推測できるけれど、現時点で確定しているのは、地方政府の把握している情報に誤りがあったということだ》

〈会話〉が途切れた途端、頭痛に加えて激しい嘔吐感に襲われた。思わずうずくまるカノエの身体を、スキンスーツの緩和マッサージが包み込む。

 だが、彼の話が本当なら休んでいる暇はない。

「た、確かめないと……」

 カノエはよろめきながら立ち上がり、集合住宅の外壁に取り付けられた定礎板に向かう。従来の建築物においては竣工当時の品を納めるタイムカプセルの保管方法でしかなかったが、ナノマシンマテリアルで成形される今では、建物の状態を示すステータスパネルとして機能している。

 楷書体で『定礎』と書かれたプレートに手を掛け、思い切り手前に引っ張る。管理者以外アクセスできないようにロックされているが、三秒ほど経ったところでスキンスーツが大きく脈打ち、瞬間増強された腕力で強引にプレートを外した。

 パネルの表面は剥離した建材で白く曇っていたが、指先で拭き取ると中から五桁の数字が現れる。

「……五時間三十八分二十一秒」

 にわかには信じられなかった。急いで隣の棟も調べるが、そこもほぼ同じだった。それでも納得できなくてさらに三棟調べたが、十数秒の誤差しかなかった。

 地方政府から得ていた情報では、この社宅群の使用期限切れまで一週間あるはずだった。それだけの期間があれば、旧ハスミ生化学の後継の後継の後継を飲み込んだ〈連合ユニオン〉に対して不法居住者分の税金をかろうじて請求できる。

 だが、あと五時間半でこの社宅群が消滅するとなれば、そもそもの前提条件から覆ることになる。

 彼の言う通り、原因は色々と考えられる。ナノマシンの劣化による増減、何者かが行った記録の改竄、当時の担当者のサボタージュ、何度か繰り返された改暦紛争の影響――

 しかし今は、立ち止まっている場合ではない。原因はともあれ、この場所は今日のうちになくなってしまうのだ。

 急いで元いた場所に駆け戻り、下ろしていた荷物を再び背負う。その間レイモンドは、なぁなぁと鳴きながら何度もカノエを見上げ、足元をうろついていた。

《悪いけれど、ぼくはショッピングモールの前でリリースして欲しい。身体のほうがヤツを追いたくて仕方ないんだ》

《わかった》

《せっかくだから、手当たり次第にネズミを獲ってくるよ。上級社員の社宅はきみに押し付けることになるけれど》

 そういうことなら話は早い。準備を終えたカノエはレイモンドを小脇に抱え、猛然と走り出した。

 まずは目の前の通りを東へ。交差点に差し掛かったところで右に曲がり、ショッピングモールの外周に沿う形で南へ向かう。

 ハチワレが姿を消したのは、南北の大通りに面して設けられたメインエントランス付近だ。走りながら〈右目〉を向けると、エントランスの脇にある換気口カバーが外れているのが見えた。換気口は地上から二メートルの高さにあり、直径十五センチの円形。壁面には凹凸があるので、蹴り登る分にはそう難しくないだろう。

 試しにレイモンドを下ろすとまっしぐらに換気口へ駆け寄るが、一メートルほど出前で急停止して座り込んだ。

「レイ?」

 思わず声を掛けると、「見ていて」と言いたげに一声鳴いてから後ずさりし始めるレイモンド。四歩下がったところで猛然と駆け出し、壁を蹴ることなく換気口に直接収まった。特につっかえることもなくそのまま中へ潜り込むと、フライビッツたちがその後を追って行く。それから数秒もしないうちに〈右目〉のマップが更新され始める。

 カノエはひとまず安心し、移動を再開した。南北の大通りに戻り、南下を続ける。

 しばらく進むと生け垣に突き当たり、車道は左に――東側へ直角に折れ曲がっている。一方の右側は車両の入れない遊歩道となっていて、ショッピングモールが敷地のギリギリまで迫っている。生け垣の向こうは上級社員居住エリア。それを越すようにしてペデストリアンデッキが懸かり、買い物には便利な立地だ。彼の調べによれば、ショッピングモールの南側には高価格帯の店舗が集中している。恐らくは上級社員専用のエリアも設けられていたのだろう。

 一方、左へ折れ曲がった大通りはそのまま東へ続き、その突き当たりには外へ通じるゲートが見える。規模や位置などから推測するに、この社宅群のメインゲートと見てよさそうだ。警備装置の厳重さは〈右目〉で拡大するまでもない。

 それから視線を手前に戻していくと、百メートルほど先に南へ向かう丁字路がある。右手にある生け垣――上級社員居住エリアはそこで途切れていて、丁字路の向こう側に緑地が見える。

 カノエは改めて周囲を見渡すと、その丁字路に向かって大通りを進む。上級社員の社宅はもちろん重要だが、社宅群の全体像を把握しておくことも同じぐらいに重要だ。これまでに得た視覚情報から〈右目〉内のマップが作成されているが、まったく情報のない空白地が残り十七パーセント。その大半が、丁字路を右折した先――この社宅群の南東部分だ。不足している要素から逆算すると、職場への移動手段が存在しているはずだ。

 丁字路に着くと、果たして〈首輪〉の予想通りだった。南へ続く大通りの突き当たりには、モノレールのものらしき高架施設が見える。今いる丁字路からは五百メートルほど先だ。

 大通りは一直線に続き、右手――西側には上級社員居住エリアを取り囲む生け垣が続き、反対側に広がっているのは大規模な公園とグラウンド。〈右目〉の計測では東西方向に百五十メートル、南北方向には四百五十メートルほどあり、一般社員用の集合住宅なら百棟は収まる広さだ。道路と生け垣を跨ぐ形で歩道橋が三本架かり、ここでも上級社員への便宜が図られている。

 そんな上級社員居住エリアへのメインゲートは、ちょうど中間に当たる二百五十メートル地点に設けられていた。

 社宅群が既にゲーテッドコミュニティを形成しているせいか、入口は比較的シンプルな見た目だ。生け垣が五メートルに渡って途切れ、その谷間の上にアーチが架かっている。出入りを妨げるような装置や設備は特になく、アーチの内側にセンサー類や聖女の雷光レーザーガンが備わっている程度だ。警備員の代わりなのか、非武装の二足歩行型ガードロイドが両側に一体ずつ、錆びついたまま立ち尽くしている。

 機械の眼差しを意識しながら中に入ると、まず目についたのは整然とした町割りだ。敷地は五十メートル四方に区切られ、五戸が横に繋がった平屋建てのタウンハウス――要するに長屋だ――が二棟建てられている。つまり、一区画当たり十戸の住宅だ。カノエはひとまず真っ直ぐに進み、左右に視線を走らせて大雑把に区画をスキャンしていく。

 見渡す限りに全く同じサイズの区画と家々が続く、コピー・アンド・ペーストの街並み。平屋建ての家と、ほぼ同じ高さで周囲を取り囲む生け垣。

 一般社員たちが住まうあの場所とは打って変わり、頭上を遮るものは何もない。山の稜線を切り拓いただけあって、見えるのは本当に空だけだ。上を仰ぎ見ながらぐるりと見渡すと、自分がどこにいるのかを一瞬見失ってしまう。

 ここに住み暮らしていたエリートたちは、この広すぎる空をどう感じていたのだろう。そんなことを、ふと考えてしまう。遮るもののない自由な空が広がっているのに、飛び立つことは決してできない。自分と家族のすべてを企業に管理された、まるでブロイラーのような境遇を、不条理を、彼らはどう受け入れていたのだろうか。

 しかしカノエには、そもそも答えの出しようがなかった。自分のほうも〈大姉〉に生殺与奪の権利を握られているのだ。世界中どこへ逃げても、あの人の手からは決して逃れられない――

 休まず〈右目〉を走らせた結果、十数秒で上級社員居住エリアの概要がほぼ明らかになった。

 東西方向に二百六十メートル、南北方向には五百メートル。十三万平方メートルの敷地の中に、住宅はわずか三百二十戸だ。一方の一般社員居住エリアは十五万平方メートルの中に七千八百四十戸が詰め込まれ、一戸当たりの面積を単純に割り出すと、その差は二十倍以上だ。

 カノエはショッピングモール寄りの北側に向かうと、さらに西へと移動して角の住戸を目指す。これからやろうとしているのは、各住戸に備わっている総合情報端末のハッキングだ。

 具体的には、セキュリティが解かれて無人の廃墟となっている庭付き3LDKに押し入り、リビングの壁に埋め込まれた操作パネルの隙間にガム状のハッキングペーストを貼り付ける。その繰り返しだ。

 ペーストを構成しているナノマシンマテリアルが浸透し、内部構造を完璧に写し取るまで平均で三分五十秒。なので、設置するだけしておいて、回収は後でまとめて行う。十戸程度ならそう大した作業ではないが、今回は三百二十戸もある。とにかく、手際よく進めなければ。

 カノエは一軒一軒を、黙々と地道に訪ね歩く。

 玄関の扉を開け放ち、最適化された足取りでリビングに押し入り、ハッキングペーストを貼り付けて踵を返し、すぐに隣の住戸へ。

 一戸あたりの所要時間は二十四秒で、社宅となっているタウンハウスは五戸で一棟。つまりはちょうど二分掛かるので、十戸ワンセットで動けばいい。

 十戸目に設置するとすかさず一戸目に戻り、剥がしたペーストを専用のキャニスターに詰めてデータの回収と再利用処理を行う。

 なお、フライビッツは一応動作させている。現況はどうあれ、請け負ってしまった業務だ。途中で投げ出すより、最後までやり遂げておいたほうが地方政府からの覚えもいいだろう。それにどのみち、カノエ本人の負担はごくわずかなのだ。

 休みなく動き続けること一時間あまり。四分の一に当たる八十戸が終わり、カノエは久しぶりに足を止めた。近くの住宅の壁に寄り掛かり、立ったまま休憩を取る。

 時刻は一三二一。このままのペースで行くと、完了予定まであと三時間。社宅群の使用期限切れには間に合うが、油断は禁物だ。

 スキンスーツのアシストもあり、肉体的な疲労はほとんど感じられない。三時間程度なら、休まず動くこともできるだろう。

 問題はむしろ、間違い探しのようにこちらを翻弄してくる屋内の光景だ。

 間取りも仕様もすべて同じ。けれども生活の痕跡はひとつとして同じではなく、ショッピングモールで売っている同じデザインのテーブルやソファーやチェストなどが、少しずつ配置を変えたり変えなかったりして繰り返し何度も何度も現れ出てくるのだ。その都度ごとに〈右目〉が告げ、足をぶつけずに済む代わりにひどく鬱陶しい。

 そう、いくら上級社員といえども、財産の私有については一般社員と同様。プライベートボックスの数が三つに増えただけだ。それに入り切らないものは、こうして置き去りにしなければならない。

 休憩を二分で切り上げ、カノエは調査を再開する。疲労がないので足取りは変わらないはずだが、心なしか重く感じる。やはり、代わり映えしない光景に辟易としているせいだろうか。

 他方のレイモンドはといえば、未だショッピングモールの中を徘徊している。二階も含めた総面積は六万平方メートル――約一・三TDUトウキョウドーム単位で、センサーの探査範囲に基づいた踏破率は四十七パーセント。ネコには十分過ぎる広さだ。

 彼の動きを見る限りハチワレもまだ中に留まっているらしく、当面は彼の好きにさせておけばいいだろう。

 レイモンドを少し羨ましく思いながら、カノエは変化に乏しい街を駆け回る。

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