08:55


 大通りは社宅群の標準仕様に従い、歩道が大きく取られている。車道が六メートルに対し、歩道は左右に七メートルずつ。この手の狭い都市空間に自家用車という概念はなく、道路を走るのは通勤用のコミュニティバスや末端物流を担う小型車両ぐらいなものだ。

 しかしこの街には、他の社宅群に見られないものがある。地上から六・五メートルの高さで大通りを横切っている空中配管だ。両岸の集合住宅同士をパイプラインで結んでいて、大通りの最奥まで延々と続く様子はガーデンアーチのよう。さもなければ、屋根の抜けたアーケード街だ。

 格子状のフレームでひとまとめにされたパイプラインは電力線や上下水道が通っていて、それでカノエはおおよその経緯を理解した。本来はどれも地中に埋め込む設備なのだが、工期を短縮するために地上配管としたのだ。

 通りに面している集合住宅は、一階が店舗仕様になっている。前面は極小のセル・スフィアを混入させた発電クリアガラス張り。表面は薄汚れているものの発電能力はまだ生きているらしく、店舗上部の行灯パネルが微かに燐光を放ち続けている。

『ナノ風邪に対応~サンダーグラフ治療院~』、『ブラックヒルズクッキー』、『リアル珈琲の上志多』、『アル・ターイル・ランチボクス』――南へ向かう道すがら店内を覗き見るが、どこも内装や備品が放置されたまま。降り積もった埃さえ取り除けば、すぐにでも営業が再開できそうだ。

 もしかすると、どこかにあるはずの職場でバイオハザードが起き、その余波を被ったのだろうか。

 今のところ、その可能性は否定できない。二十年近い時間が経っているので、さしもの〈首輪〉と〈右目〉も生物兵器の痕跡までは見つけられない。それでも、カノエの疑問に危機感を抱いたのか、〈首輪〉は普段より熱を発しながら視覚情報の分析に当たり続ける。いつもであれば無視する要素も拾い上げるので、〈右目〉の中が少し鬱陶しい。

 約二百五十メートルを早足で南下すると、東西の通りとクロスする交差点へ。

 商店街は南北通りにしかないので、東西方向の通りはひどく素っ気ない。目につくのは屋根付きの停留所と、その前で放置されている八輪式の大型コミュニティバスだ。

 カノエは向かって左手――北東部を本格的に調べるべく、最寄りのK06棟の側面を回り込もうとする。大通りを南下したことで、道路に面していたK10棟からK06棟の片面は調べられた。なので今度は、K棟の列とその東隣のとL棟の列の間を北上していく。以降はその繰り返しだ。集合住宅の合間をジグザグに縫って歩く。

 だが、いざその現場に立ってみたカノエは、ひどく困惑させられた。

 集合住宅同士の間隔は五メートル。その細い通りを南から見ている――太陽が背中側にあるのに、なぜか正面からも日光が照り付けてきている。

 生身の左目が反射的に閉じる一方、遮光機能を働かせた〈右目〉が謎の逆光の正体を即座に突き止めた。集合住宅の上部に取り付けられた可変式偏光プレートのせいだ。標準仕様にはないオプション工事なので、日当たりの悪さについて住人から相当な突き上げがあったのだろう。

 そして今、その恩恵を受けているのは雑草たちだ。

 突然変異体なのか〈首輪〉でも詳細はわからないが、恐らくはイネ科の多年草で、高さは一・五メートル超。照り続けた日光で防植能力が劣化したのか、集合住宅の狭間いっぱいに生い茂って足の踏み場もない。マチェットで刈り進むどころか、専用の草刈りドローンが必要だ。

 だが、進めないわけではない。この手の集合住宅は外廊下タイプで、外の様子を確かめながら歩くことができるからだ。

 カノエは集合住宅の側面に戻り、扉も何もない入口からK06棟の中に入る。

 入ってすぐは階段室だ。エレベーターはない。階段の先には廊下が真っ直ぐに伸び、左側には等間隔で八つ並んだ玄関ドア。右側は高さ一メートルの立ち上がり壁で区切られ、壁から上は空いている。吹きさらし状態だ。

 遠くに目を向けると、最北端のK10棟まで延々と続く廊下が見える。雑草の繁茂もここには及んでおらず、行く手を遮るものはない。立ち上がり壁の隅に泥が堆積し、わずかに草が生えている程度。

 カノエはやや早足の時速六キロメートルのペースで、まずは一直線にマップを埋めていく。フライビッツは垂直方向にも展開しているので、一階を歩くだけで残る四階分も同時に調査できる。

 K06棟からK10棟までの二百二十メートルを百三十五秒で通過し、隣のL10棟へ。廊下を南下してK06棟にたどり着くと、隣のM06棟から再び北へ――

 調査は順調かつ単調に進んだ。

 大通りの一本裏手、L棟が飲み屋街となっている以外、作りはどこも同じ。玄関ドアは軒並み閉まっていて、よそ見の必要もない。変わったことといえば、L09棟で見たイタチ属のものらしき白骨死体と、M07棟に転がっていた黒焦げの清掃ドローンぐらい。脅威度が一定レベル以上の障害物――クモの巣や害虫は〈右目〉が逐一マーキングしてくれるので、不安となる要素は皆無だ。

 一方のレイモンドも北西部の踏破率が十九パーセントに達していて、かなり快調のようだ。

 そんなカノエの足が止まったのは、N08棟に踏み込んだ直後だった。何かを捉えた〈右目〉が、不意に通知ノーティスを出したのだ。

「靴の、跡……?」

 幸いにも〈首輪〉のデータベース内に一致するものがあった。

 スラゼンガー社のハイテクスニーカー、グルーヴィー77。サイズは二十三センチ――恐らくは成人女性だ。土を主成分とする足跡が、階段を登って行ったまま降りて来ていない。

 これは、どういうことなのだろう。どう解釈すべきなのだろうか。

 カノエの疑問を解消すべく〈首輪〉がフライビッツに指示を送り、全階に渡って先行してスキャンする。

 結果はすぐに出た。足跡は寄り道をせずに三階の三〇四号室へ出入りし、帰りは反対側の階段を使っている。〈首輪〉が彼の集めた情報の中からN08棟に関するものを抽出するが、電気や上下水道の使用履歴に変化はない。つまり、定住はしていないということだ。

「…………」

 移動は一方通行で非定住者。恐らくは廃墟荒らしスカベンジャーだろう。だが、それにしては一軒だけ狙い撃ちにする理由がわからない。そもそもこの手の廃社宅は無施錠で退去するのが決まりだ。念のために最寄りの玄関ドアを試すが、セキュリティも何も求められずにすんなりと開く。

 この状況を、どう判断すればいいのだろう。無視して先に進むか。念のために調査しておくか。

 カノエはしばらく考え込むが、出た結論は『無視』だった。定住の可能性が皆無であることは画像からも明白で、地方政府への言い訳も立つ。

 やや後ろめたい気持ちを感じながら移動を再開するカノエだったが、悩ましいことに、足跡は行く先で続々と見つかった。O06棟、O07棟、P08棟、P07棟、Q06棟、Q08棟、R09棟、R07棟、S06棟、S07棟、S08棟、T10棟、T09棟、T07棟、そして北東部の最後となったT06棟。

 靴底のパターンは四種類。どれも二十三センチで、歩き癖の現れ方から見ても同一人物と判断できる。

 見つかった足跡は必ず住戸に出入りしているが、立ち寄る軒数や階はまちまちだ。時期については、さすがの〈首輪〉も答えを曖昧にしている。場所によって靴跡の風化速度が違うのだ。最古と思われる足跡が三年から五年以上前で、最新のものは一ヶ月から三ヶ月前と、かなりバラつきが出ている。

 マップには足跡を発見した場所や時期などが重ねられていき、カノエはそこに、ある傾向を見出した。足跡は、通りに面している集合住宅に偏在している。それも、今いる北東部の南側や東側だ。北側や中央を南北に貫く大通りにはほとんど見られない。

 ――足跡の主は、不定期に社宅群を訪れている可能性が極めて高い。

 ――足跡の偏りから察するに、社宅群の南東部分を来訪の起点としている可能性がある。

 ――現時点において、この社宅群に不法定住者が存在している可能性は低い。

〈首輪〉の思考支援を受けて急速に考えがまとまっていくが、同時に不安も募る。

 ひとりで調べに行っても、大丈夫なのだろうか。

 今のところ、危険性はかなり低い。階段を上がった先には誰も姿も確認できず、住戸の中もきっとそうだろう。今ここで後顧の憂いを断てば、廃墟の踏破に専念できる。

「…………」

 空気組成に変化なし。脅威度一パーセント以下。〈首輪〉がポジティブな情報を列挙してカノエの背中を押す。

 しかし、カノエの足は動かない。一般社員向けエリアの北東部、南東端のT06棟に留まり続けたまま。

 カノエが今、切実に求めているのは彼の意見だ。

 なぜなら彼は、いつでも正しいからだ。多少の遠回りをしてでも常に最善の手を導き出し、誤った判断はしない。今まで無事に生き延びてこられたのは彼のおかげで、そんな彼を無駄に死なせてしまったのは自分の勝手な判断のせいなのだ。

 正しいから、彼にはずっとそばにいて欲しい。

 正しいから、彼に従わなければならない。

〈右目〉のマップによると、レイモンドの現在地はE08棟。直線距離にして二百六十メートル先。北西部の踏破率は四二・六パーセントで、未だ順調を保っている。

 助けてと呼べば、彼は何を差し置いてもレイモンドをこちらに向かわせるだろう。自分の声は〈首輪〉を介して〈胴輪〉に伝えられ、フライビッツを操って間接的にレイモンドを動かして。

 カノエは躊躇いがちに鎮痛タブを含み、完全に溶けてなくなるまで待った。

「……助けて、レイ」

 そうつぶやくと、レイモンドを示す光点がぴたりと静止した。それから数秒ほど周囲をうろついていたが、やがて一目散に南へ。東西通りに向かって走り出す。

 カノエもT06棟を出て、レイモンドの姿が見えるのを待った。

《こう言ってはなんだけど、それこそきみの仕事じゃないかな。ぼくの手はドアを開けるようにできていないし、視力だってそんなによくはないからね》

《でも》

《是非とも調べるべきだよ、カノエ。足跡の主が今どこにいるのかはわからないけれど、何を目的としているのかは知っておく必要がある。どんな物証も見逃さないきみの右目なら、必ず突き止められるはずだ》

《だといいけど》

《きみが不安に思う気持ちはぼくも理解しているつもりだよ。でも、だからこそ情報を得ておかないとね。相手の正体に目星をつけておくことは、不安を払拭する上でも重要な要素だ。ぼくたちのような探索者か、はたまたただの廃品回収者か、そのどちらでもないか。候補を絞っておけば、緊急時の応対も自ずと決まるというものさ》

 彼との〈会話〉は二百四十メートルという距離を隔てて成立し、カノエはがっくりと膝をついてうなだれる。頭が割れそうなこの痛みには、彼からぶつけられた正論のダメージも含まれているに違いない。

「やっぱり、やらなきゃいけないよね……」

 彼からもたらされた最新の情報によると、北西部にも同様の靴跡があったという。であれば、詳しく調べないわけにはいかない。

 苦痛に喘ぎながら顔を上げると、既にレイモンドの姿はなかった。この先、自力でどうにかするしかないようだ。

 今いるこの棟は無視して、今度足跡に遭遇したら――未だ踏ん切りのつかないカノエはなおも引き伸ばしを図るが、東西通りを横切って南下した先のT05棟でいきなり足跡を見つけてしまった。

 先行してフライビッツを飛ばすと、足跡は四階の四〇五号室に出入りしている。〈首輪〉の診断は『危険性:皆無』。

「はぁ……」

 こうなっては覚悟を決めるしかなかった。まさか、玄関ドアの開閉までネコの手を借りるわけにはいかない。

 カノエは慎重な足取りで階段を登っていく。床面には天井や壁から剥離したナノ建材が薄く積もり、自分の足跡も残ってしまう。何者かが潜んでいた場合を考えるとあまりおもしろくない状況だ。容易に尾行されてしまう。

 念のため、各階ごとにフライビッツを一機ずつ残して四〇五号室の前へ。まずは玄関ドアを試す。ドアは引き戸でロックは掛かっていない。何事もなく静かに開いた。

 五センチ開いたところで三機のフライビッツを中に突入させ、残り二機は自分の近くに待機。周囲の警戒に当たらせる。

 突入から七秒で、中の様子が明らかになった。

 間取りは2LDKの標準仕様。家具や調度品の類は何もかもが置き去りにされ、平らな場所には白い灰のようなナノ建材が積もっている。生命反応はもちろん、動体反応もない。まったくの無人だ。

 安全を確かめたカノエはフライビッツを戻らせ、さらにドアを開いて中に入ろうとする。その間、フライビッツは外の警戒だ。

 半分ほどドアが開いたところで外気が入り込み、巻き上がったナノ建材で周囲が真っ白に煙った。カノエは怯まず中に踏み込み、急いで後ろ手でドアを閉める。

 室内の空気が落ち着くまでの間を利用して視線を巡らせるが、住戸内部の劣化は相当に激しいようだ。使用期限切れが間近に迫っているといっても、軽く触れるだけで壁の表層部が砂のように崩れ落ちるというのは今まで見たことがない。小さすぎて〈右目〉では捉えられないが、剥離したナノマシンの濃度はかなり高いはずだ。普通の人間ならば、急性症状が出てもおかしくない。

 比重が軽いせいかナノ建材の煙はなかなか晴れようとせず、カノエは〈右目〉の画像補正能力を上げてゆっくり慎重に歩き始める。視界の右半分はクリアだが、生身の左半分は瞼から分泌された防護涙液のおかげで少し歪んでいる。足元が少しおぼつかない。油断すると、何もない場所でも躓いてしまいそうだ。

 それでなくても床の上には、靴が埋まりそうなほどに分厚い層ができている。画像補正がなければカビの胞子――さもなくば『死の灰』という見た目だ。身じろぎするたび綿埃のようにふわりと舞い上がり、重さや抵抗はほとんど感じない。

 玄関を入ってすぐ、シューズボックスの傍らには幅と奥行が五十五センチのアルコーブが設けられ、高気密仕様の白いコンテナが放置されている。外観はレイモンドを運んできたコンテナに似ているが、その用途はまるで違う。これは、社宅で暮らす住人にそれぞれ支給されるプライベートボックスだ。

 プライベートボックスの外観は一辺が五十センチの立方体。板厚は二センチ均一なので容積は四十六センチの三乗となり、九万七千三百三十六立方センチメートル。つまり、約九十七リットルだ。

 金属質のその表面には横方向の擦り傷が何層にも重なっている。同じ場所に集中しているのは、搬送用ドローンのアームの位置のせいだ。傷を解析した〈首輪〉によると、この箱は今まで三度の転勤に付き合ってきたらしい。

 にも関わらず取り残された理由は、上面の片隅にある小さな焦げ跡で明らかだ。そこは、所有者情報が記載されている場所。穿孔破壊と電磁焼却を施されては、彼の能力をもってしても読み込むのは困難だ。

 カノエはしばらくそれを見つめていたが、抗いがたい気持ちを感じてボックスの上端を軽く押した。

 意外にも、ボックスは簡単に開いた。空気が抜ける音をさせながらゆっくりと、ナノ建材の煙をもうもうと立ち込めさせながら。まるで玉手箱のようだとカノエは思い、聞き馴染みのない単語にふと首を傾げた。

 今、脳裏に浮かぶ知識がどちらのものなのか。シームレスに〈首輪〉の支援を受けているので、この手の違和感はそう珍しくない。

 浦島太郎の物語がぼんやりと頭をよぎる中、次第に霧が晴れて箱の中身が露わになる。

「…………」

 それは一枚の紙だった。

 白い地色の上に水性の合成無機顔料が十四色、乱雑な線で無秩序な図形を描いている。

 紙の大きさは二百七十一ミリ×三百八十三ミリ――八つ切と呼ばれているサイズで、テクスチャーからは画用紙と推測できる。セルロース純度はあまり高くなく、安価な普及版のようだ。その証拠に全体は湿気で波打っていて、左右の端が内側にカールしている。そして、四隅に一箇所ずつ穿たれているのは一ミリの針穴。こんな無意味な落書きが、どこかに貼り出されていたのだろうか。

「……ん」

 カノエは自分の思考に再び違和感を覚え、小さく鼻を鳴らす。

 ――落書き。

 そう、これはただの落書きだ。歪な楕円形や台形、放射状に伸びた波線などが散りばめられた、何の意味もない図形もどきの集合体だ。この落書きの作者が何らかの意図をもって描いたのだろうとは推測できるが、近現代美術における抽象絵画の定義からは逸脱している。少なくとも〈首輪〉はそう判定している。故にこれは、絵画作品ではないただの落書きである、と。

 しかしその一方で、どうにも解せない点がある。

 転勤や転属の際、次の任地へ移送されるのはプライベートボックスとその中身だけ。省力化の観点から、それ以外は全て置き去りにしなくてはならない。

 これが本当に意味のない落書きとするならば、なぜ故人のプライベートボックスに取り残されているのだろうか。なぜ家族のプライベートボックスで運び出さなかったのだろうか。薄い紙の一枚ぐらい簡単に入ったはず。それをこうして置き去りにするには、必ず理由があるはずだ。

 カノエはおもむろに立ち上がり、ナノ建材が降り積もって白くなりゆく画用紙をそのままに、玄関の先へと進む。この落書きが本当にただの『落書き』なのか、疑問がいつになく頭の中を渦巻いている。

 ベッドルーム、バスルーム、ダイニングキッチン。

 家具、衣類、日用雑貨。

 備品、貸与品、社給品。

 仕様通りのどこにでもある社宅の暮らしが、数センチもの白い塵に隈なく覆われている。生活の痕跡が丸ごと残され、時の歩みが止まってしまったかのよう。

 だが、どれだけ〈右目〉を走らせてみても、カノエの疑問を解く手掛かりは見当たらない。私物と思われる品が皆無なのだ。後で〈首輪〉に分析させるために片っ端から情報を得ようにも、厚いナノ建材の層が邪魔をしてとにかく捗らない。歩くだけで地吹雪のように舞い上がり、息を吹き掛ければ簡単に飛び散る反面、滞空時間が長いと来ている。〈右目〉の補正で視界こそクリアだが、これだけ大量に漂っているとなるとさすがに少し息苦しい。

 結局、カノエがこの四〇五号室で得られたのは、奇妙なわだかまりだけだった。

 二十三センチの靴の女は何をしに入ったのか。取り残された落書きは何だったのか。この両者に何か関連はあるのか。

 なおも答えを導き出そうと熱を発し始める〈首輪〉を手で制し、カノエは外に出た。彼のほうは順調に調査が進んでいて、ペースを早めないとこちらが受け持つ南西部も勝手に始めてしまいそうだ。

 速歩きから駆け足に切り替えて急ぐカノエだったが、どういうわけか、あの落書きが脳裏に焼き付いて離れなかった。

 廃墟に取り残されたプライベートボックス。墓穴のような箱の中にたった一枚、あの紙だけが入っていた。あの光景に意味を見出すとするならば、遺品、形見、副葬品。冥銭を模したという可能性も考えられなくはない。

 しかし、それ以上にカノエを捉えていたのは、他でもない自分自身の心境だった。

 ――自分はなぜ、あんな些細な事柄が気掛かりなのだろう。

 ――あの落書きに、意味を見出そうとしているのはなぜだろう。

 渦巻く疑問とは無関係に、カノエの足は休まず動き続ける。

 一定速度で埋まっていくマップ。日陰で湿っぽい外廊下と、枯草と青臭さが混ざった屋外の繰り返し。〈右目〉も勝手に表示レベルを下げ、その気遣いが余計にカノエの思考を内向きにさせている。

 ――もしかして、昔に何かあったのかも。

 まだ、ベンサレムにいた頃。〈首輪〉が体験していない過去の出来事。

 大勢の自分たちの中から、自分だけが目覚めさせられてからのこと。

 フェイズ3からフェイズ6までの、四人の〈妹たちレッサー・シスターズ〉と過ごした月日のこと。

 生身の右目を〈大姉グレート・シスター〉に差し出した代わりに機械の〈右目〉と〈首輪〉を与えられた、それ以前のこと。

 けれども今は仕事中だ。〈首輪〉は外せない。外したところで昔を思い出せる保証はないが、〈首輪〉の影響力は絶大だ。生粋の箱入り娘だった自分が外の世界で生きて行けるのも、思考支援能力を持つ〈首輪〉のおかげなのだから。

 その時突然、〈右目〉が通知ノーティスを出した。集合住宅から出ようとしていたカノエは慌てて中に戻り、戸口付近で身を潜める。

 通知の内容は『移動音探知』。カノエはポケットからペン型のマルチツールを取り出し、投影式のミラーを外へ向ける。〈右目〉ほど強力ではないが〈首輪〉にも様々なセンサーが備わっている。しかし、決め手はやはり視覚情報だ。

 ざっ、ざざざっ、ざわっ。

 カノエの現在位置はQ03棟の南端。西側にあるP列との間の草むらが、不規則な緩急で揺れている。

 動きは風と連動していない。人影の類も見えない。となれば、草むらの中を移動している何かだ。フライビッツを飛ばしても姿を捉えるのは難しいだろう。

 さすがの〈首輪〉も生き物が草むらを掻き分けて動く音までは収蔵していない。だが、音の大きさや特性などからある程度は絞り込んでくれた。

 予想される正体は、それなりに尻尾の長い四足歩行の小動物。すぐに思いつくのはレイモンドだが、彼の現在位置はちゃんとモニターできている。北西部の最も西側、A列の07棟。直線距離にして三百四十メートルも離れている。

 ざざっ、ざざざざざっ。

 音が直線的に近づいてくる。推定距離九メートル。〈首輪〉が敵対性生物の可能性を告げ、カノエはホルスターに片手を伸ばす。南北方向が偏光プレートのおかげで草むらに覆われている一方、日当たりの悪い東西方向は舗装路面のままだ。当然、草むらもそこで途切れている。その距離、およそ七メートル。

 ざざざっ、ざざっ。

 さらに一メートル近く接近。姿が見えるまであと一メートル。探査ログでは約二十メートル手前から一直線に向かって来ている。

 カノエはマルチツールをポケットに戻し、返す手でハンドガンを引き抜く。次に動いたらこちらから――

 ざざざっ。

 カノエは身体を外へ出しながらハンドガンを突き出し、銃口を真っ直ぐ前へ。〈首輪〉がスキンスーツをアシストし、照準の先にぴたりと〈それ〉を捉える。

 しかし次の瞬間、カノエは狼狽うろたえた。きらきらと輝く金色の瞳が、自分を見つめ返していたからだ。

「……えっ?」

 カノエが驚いている間に〈それ〉は身を翻し、一目散に逃げていく。〈右目〉が草むらの揺れから逃走ルートをマークするが、カノエの頭にはまるで入ってこない。

「……今のって」

 疑問に応えてプレイバック用のウインドウが立ち上がり、目視確認した三秒前からスロー再生される。

 戸口の外へ踏み出した右足。ハンドガンを構えた両腕が跳ね上がりながらその後を追い、最後に頭が出る。忙しく流れていく視界の中、ハンドガンの照準と視界の中心とが最短距離で合わさり、密集して生えている雑草の根本に〈それ〉が――ハチワレ模様のネコがいた。

 瞳は金色で、目ヤニは付いていない。合成皮革製の赤い首輪を着け、逆三角の頭の形はまだ年若いことを示している。外見から推測される年齢は一歳二ヶ月。恐らくはオスだ。

 そのハチワレが目を真ん丸にして見つめ返していたのは一・六秒ほどだった。急いで踵を返して草むらの中に逃げ込み、わずか〇・九秒で姿を消している。

「飼いネコ、だよね……」

 カノエは動揺を抑えきれず、呻くようにつぶやいた。

 現在この街のセキュリティは正しく機能していないので出入りは自由だが、あのハチワレが独りでやって来て棲み着いたという可能性は考えにくい。イエネコの生態にそぐわないからだ。周辺に人家の類は存在せず、狩りをして自力で暮らそうにも、エサとなるような生き物がほとんど見当たらない。塀の外も、中もだ。

 となれば、誰かが連れて来たと考えるのが自然だろう。イエネコの外見をした何か――〈再起動〉以前に存在したという、絶対菜食主義ヴィーガニズムに基づくコンパニオンアニマル改良計画の末裔、という可能性もあるが。

 どちらにせよ、この廃社宅群に何者かが出入りしていると見て間違いなさそうだ。

 カノエがハンドガンを戻したのを合図に、〈右目〉の探査レベルがじわりと上昇する。従来までの調査項目に加え、ハチワレの痕跡を追う必要が出てきたのだ。地面に付いた足跡、草むらを掻き分けて作られた獣道、マーキングの痕跡――同時に、バックグラウンドではログの精査も行われていて、一段と熱を増した〈首輪〉が容赦なくカノエを苛む。

「気をつけて、レイ。あなた以外のネコが、この廃墟にいるみたい」

〈首輪〉を通じて彼に伝えてから調査を再開するカノエだったが、一棟と進まないうちに足を止めて鎮痛タブを口に含んだ。レイモンドを示す光点がまっしぐらにこちらへ近づいているのだ。

 光点はほぼ最短ルートを辿っているが、東西の大通りを越えて南側に入ったところで急に動きが止まったり、寄り道を試みたりと動きが少し怪しくなる。恐らく、ハチワレの痕跡がそこかしこにあったのだろう。

 彼は総移動距離三百八十メートルを三十五秒で駆け抜け、カノエの胸元へ飛び込んでくる。

《あのハチワレの存在に今まで気づかなかったというのは、ヤツの正体を探る上で重要なヒントだね。ぼくの受け持った北西部には生活の痕跡が一切見当たらなかったし、きみの調べた北東部も同じだ。その一方で、今ほど通り掛かった南西部やこの南東部にはヤツのものらしき痕跡がいくつも見られる。それはつまり、この社宅群にヒトが存在するならば南側に拠点を設けているということだ》

《そうおもう》

《二十三センチの足跡も似たような傾向を示しているけど、不法居住者やハチワレの飼い主と同一であると決まったわけじゃない。判断材料が揃うまでは、それぞれは別個の存在と考えておくべきだ》

《わかった》

《とはいえ、ヤツはただのイエネコだからそこは安心していいよ。残っていたマーキングの臭いからもそれは明らかだし、フライビッツの羽音はネコにとって耳障りだ。ヤツがきみに向かって一直線に近づいてきたのは、若さゆえの好奇心の仕業かもしれないね》

《そうなの》

《まだ若いという点を差し引いても、日頃からかなり甘やかされていると見て間違いない。いかにもそういう顔をしているし、危険に対する備えがまるでなっていないじゃないか。相手がきみだったからいいようなものの、より攻撃性の高い殺戮機械系だったらヤツは死んでいたよ》

 カノエは彼を抱き止めたまま、後ろに数歩よろめいて尻餅をついた。フィードバック痛もそうだが、どちらかといえば飛び込んできた勢いのせいだ。

「わざわざ来てくれてありがとう。でも、まだ途中だよ」

 ごほうびにチューブ入りウェットフードキティクラックを与えて仕事に戻そうとするが、どれだけフライビッツに急き立てられてもレイモンドはカノエの周囲を離れようとしない。尻尾を山なりに曲げ、ハチワレが姿を消したあたりで張り込んでいる。

「……あのハチワレの子、気に食わないの?」

 声を掛けても、尻尾の先をちょろっと動かすばかりでこちらを振り向いてくれない。仕方なく抱き上げると全身をくねらせて抗い、一瞬だけ顔が上を向いた。

《これはぼくの考えでもあるけれど、この先、一般社員居住エリアの調査はお互いに目の届く範囲で続けよう。効率は下がるけれど、何かあるごとに合流するよりもずっと安全で安心だ》

《ありがとう》

《それに、ヤツを追跡する形で積極的にプレッシャーを与えれば、あの甘ったれはきっと飼い主の元へ逃げ帰るだろうからね。何者なのかわかってしまえば、ぼくたちが取れるアクションにも幅が出る。つまりはこれがベストな選択だよ、カノエ》

 あのハチワレをただ追い回したいだけかもしれないが、カノエにとっては渡りに船だ。彼が傍にいてくれれば、何も怖くない。

「じゃあ、行くよ」

 カノエが集合住宅内の廊下を歩き出すと、レイモンドはレイモンドなりのペースでハチワレの痕跡を辿り始める。確信的な足取りで草むらの中を一気に進み、ある地点でぴたりと立ち止まり、周囲の様子を慎重に伺い、再び直線的に。基本はその繰り返しだが、最短距離で迫っているわけではない。東西方向の移動を軸に、南へと少しずつ追い込む動きだ。

 一方のカノエは〈右目〉の指示に従い、それまで通りの一筆書きを進める。

 現在時刻は〇九四九。調査開始から小一時間が経っているが、当初の予定より二十三パーセントも進捗が遅れている。一般社員居住エリア全体の進行率は四割強というところ。レイモンドと彼のフライビッツは追跡に掛かりきりなので、カノエが足で挽回するしかない。

 とはいうものの、彼が警戒を担ってくれるおかげで気持ちとしてはかなり楽だ。速歩きから小走りにペースを上げると、気分はさらに高揚していく。ウォーキング・ハイからジョギング・ハイへ。集合住宅から集合住宅へ。バックパックの揺れる音と呼吸音とが規則正しく混ざる。

 そんな単調な繰り返しの中に突然現れるのは、レイモンドが草むらを揺らす音。それと、最南端の01棟から見える隣接エリア――行政サービスエリアと大規模商業エリアだ。

 一般社員居住エリアを南北に貫く大通りは一直線に南へ続き、その東側が行政サービスエリア、西側が大規模商業エリアとなっている。屋根にフックの付いた無機質な箱が建っているのはどちらも同じだが、前者は複数の箱の集合体で、後者は平べったい一つの箱だ。

 ――きっと標準仕様だろうけど、あの中には何があるのだろう。

 身体はスキンスーツが勝手に動かしてくれるので、つい余計なことを考えてしまう。

 ――そういえば、あのときもそうだった気がする。

 ずっとではないけれど、それなりに昔のこと。ベンサレムの表側にある街を、彼と一緒に歩き回ったこと。

 自走能力は持たされた建物たちは一日の終わりと共に移動し、一日たりとも同じ街並みにはならなかった。毎日歩いても退屈しなかった代わりに、建物たちの中には入れなかった。要はただのハリボテだったからだ。

 偽物、見掛け倒し、イミテーション。

 それでもカノエにとっては、あれこそが本物の街だった。そのはずだった。ベンサレムの中で、生涯を終えるはずだった――彼と出会う前までは。

 差し出した右目の対価として〈右目〉を得た。でも、これだけでは彼と話ができない。だから〈首輪〉も与えられた。

 ピリオドがひとつ上のフェイズ6は、左腕と心臓と鼻を差し出して三つの願い事を叶えた。生きている中で最も年上のフェイズ3は全身の八割が人工臓器に置き換わり、その代わりに十四もの願いを聞き届けられた。

大姉グレート・シスター〉の交換レートは、一対一と決まっている。

 ならば自分の願いは、本当にひとつだけだったのだろうか。

 あの人に取り上げられたのは、本当に右目だけだったのだろか。

〈首輪〉を付ける以前の出来事はうまく思い出せない。思い出せるのは〈首輪〉に蓄えられた知識と記録ばかり――

《話は急に変わるけど、あれは似顔絵だね》

《えっ》

《きみがT05棟の四〇五号室で見掛けた落書きのことだよ。精度は低いけれど、あの絵は成人男性の顔を模して描かれたものだと思う。社宅に残されていたという状況から見て、恐らくは子供が父親を描いたんじゃないかな》

《どうして》

《抹消処理されたプライベートボックスが社員のものか、あるいはその家族のものか。それがわからないことには描かれた経緯や背景について言えることはない。でも、あれが似顔絵だということに関しては断言できるよ》

《ほんとうなの》

《だってぼくには、きみに描いてもらった記憶がある。一番最初のぼくだったときの話だから、きみが覚えていなくても仕方ない……と、ちょっと待って。ぼくが話そうとしていたのはそういうことじゃなかった》

 唐突に始まった〈会話〉は、唐突に切れた。廊下の先、四十メートル向こうにレイモンドの姿がある。恐らく、偶発的に目が合ってしまったのだろう。

 その次の瞬間、横合いから殴られたような激痛に襲われ、走っていた最中のカノエは足をもつれさせる。

「んぐぅっ!」

 即座にスキンスーツのアシストが入り、転倒だけは避けられた。だが、鎮痛タブの効果はとっくに切れていたので、フィードバック痛はまったく緩和できない。カノエは大きくよろめいて壁に身体を預けると、そのままずるずると崩れ落ちた。

「く、うぅぅぅ……っ」

 痛みは脈打ちながら頭蓋を締め上げてきて、指先はおろか全身が震え始める。ポケットに指を突っ込んで鎮痛タブの詰まったディスペンサーを取り出すが、たったそれだけのことに十秒も掛かってしまった。口へ含むまでさらに七秒。鎮痛効果が表れるまで十六秒。

 その間、カノエは目を閉じたままでいた。本当に頭痛がひどいときは、光さえもが棘となって意識に突き刺さってしまう。

〈右目〉も表示をオフにした暗闇の中で、ひたひたと近づく足音と気配をカノエは感じた。直後に通知ノーティスが浮かび上がるが、その前から正体はわかっていた。レイモンドだ。倒れた物音に気がついて、戻ってきたのだろう。

「なぁーん、あん、うあーん」

 鳴きながら駆け寄ってきた彼は、カノエが差し出した腕に身体を擦りつけながら胸の上までよじ登ってきた。そしてそれだけでは飽き足らず、カノエの顎の下にぐりぐりと頭を突っ込んでくる。

「……うん、わかった。大丈夫だって」

 そっぽを向いたままなだめるが、一度目を合わせてあげないとレイモンドの気は収まらなさそうだ。カノエは深呼吸してからレイモンドの顔に目を落とす。

《さっきはどうやら、きみの思考に引っ張られすぎたみたいだ。ぼくたちの会話の性質上、ある程度は仕方のないことだけれど》

《うん》 

《そういうわけで、本題はここからだ。例の四〇五号室のログをぼくなりに探ってみたけど、精査をしてみても何も発見できなかった。あれだけ大量にナノ建材が積もっていると、ネコの視点でも難しいね》

《そう》

《それでふと思ったのだけれど、きみが言うところの二十三センチの女は、重建系の関係者かもしれない》

《どういうこと》

《きみも知っているように、このエフライムシリーズの集合住宅はオールナノ建材の最初期モデルだ。当時の最新技術が惜しみなく使われている一方、経年変化については未知の領域だ。設計上では使用期限まで維持されるといっても、住宅としてどのように劣化していくのか誰も知らないと来ている》

《ついせきちょうさ》

《この仮説が正解ならば、室内を荒らしていないことへの説明になる。それと、不定期かつ継続的に訪れている理由もね》

《でも》

《わかっているよ、カノエ。このプロファイリングだと、ヤツの存在がうまく説明できないんだ。まったく無関係かもしれないし、ぼくみたいに改造されているコンパニオンアニマルかもしれない。今のところ、後者の可能性は低いけれどね》

 視線が外れて〈会話〉が終わると、気が済んだらしいレイモンドはカノエの首周りをぐるりと一周してから立ち去って行く。こちらを一顧だにすることもなく、すたすたと足早に。

 苦笑を浮かべてその後ろ姿を見送るカノエだが、すぐ真顔に戻って彼との〈会話〉を反芻する。

 足跡の主は重建設系企業の現地調査員という可能性。経年劣化の進む集合住宅。長期に渡る追跡調査。ハチワレとの関係性は不明――

「…………」

 しかし、カノエの意識を捉えて離さないのはもうひとつ前の〈会話〉だった。

「……似顔絵、って?」

 疑問に応えるように、〈右目〉の隅に例の落書きが表示される。

 楕円形に塗られたベージュ。引っ掻くように描かれた黒い線。うねうねと波打つ灰色。言われてみると、ヒトの顔に見えないこともない。

 だが彼は、自分にこう言った。きみに描いてもらった記憶がある、と。一番最初のぼくだったときの話だから、きみが覚えていなくても仕方ない、とも。

「わたしが、そんなことを……」

 起動している間、〈首輪〉はすべてを記録し続ける。〈右目〉で捉えたものから、自分では意識できないバイタルデータまで。求めに応じて、いつでも呼び出すことができる。

 ちょうど一年前に見ていた光景。この一ヶ月における総移動距離。昨日一日のまばたきの回数。どんなに些細なことでも。

 しかし〈それ〉は、一向に呼び出せない。地下水が滲み出るようにじわじわともたらされるはずの記憶が、どれだけ掘り進んでも何も得られないのだ。自分が描いたという似顔絵はおろか、一番最初のレイモンドの顔も。覚えていなくてはいけないはずなのに。

 ひとしきり頭痛が治まり、立ち上がって調査を再開するカノエだったが、その足取りは打って変わって重かった。

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