08:28
上半身が前にのめる感覚がし、カノエは我に返った。
改めて周囲を見渡すと、等間隔で並び立つ高い鉄杭が樹木の合間合間に見え隠れしている。もちろん
「レイ」
呼び掛けると、レッグシールドのポケットからぬるりと地面に降り立ち、大きく伸びをしてみせる。それでもまだ眠いのか長々とあくびをすると、カノエの視線が気になったのか肩越しに振り返った。
《さっそく手を伸ばしてネズミを獲ったけれど、これはごく普通のツェペシュだ。例によってスタンドアローンだから、関連会社のIDなら問題なく抜けられると思うよ》
《わかった》
《一応、ぼくが捕った獲物には目を通しておいて欲しい。特に代わり映えはしないけれどね》
〈会話〉が終わった途端、激しい頭痛を伴いながら〈右目〉内の情報量が急増する。木々の裏側に隠れている
いわゆるイエネコがヒトの築き上げた障壁を容易く乗り越え、隙間があれば嬉々として潜り込むように、彼が展開する
彼の捕らえたネズミの中にはツェペシュのパッシブセンサーの感知範囲が含まれていて、レイモンドを拾い上げたカノエはギリギリまで電動四輪を近づけていく。ややきつめのカーブを抜けると急に見通しがよくなり、ツェペシュの向こう側が見えるようになった。
この場所における官民の区別は、倒木の有無に現れている。こちら側には数十本と多く存在している一方、向こう側には片手で数えるほどしか見当たらない。つまり、少し前までは何らかのメンテナンス機構が働いていたということだ。実際、ツェペシュのログにはそれらしき物体を感知した形跡がある。
およそ三十メートル前まで近づいたところで
「だ、大丈夫。大丈夫、だから……」
カノエの脳裏をよぎったのは、三代目のレイモンドの死に様だ。IDを偽ったカノエが通り抜けられた一方、定義付けが曖昧だった故にレイモンドは官民境界杭の攻撃対象となった。
胸元に抱えている彼がこちらをじっと見上げているのがわかる。カノエはその頭を撫でる傍ら鎮痛タブを口に含み、彼の顔を両手で包み込んでから視線を落とす。
《少なくともきみは安全かつ確実に通り抜けられるだろうし、荷物扱いのぼくがどうなるのかはきみに付属する属性次第だね。不安を感じる必要はないよ》
《でも》
《今回は関連企業の中に土木施工会社があるから、コンパニオンアニマルと正しく解釈されるはずだ。彼らがかつて、改造したネズミを使役していたのはきみも知っているよね。それでも不安なら、ぼくをトランクの中に入れてしまえばいい》
時間の流れが戻るのに同調して、〈首輪〉が急激に熱を上げていく。平熱だった体温がたちまちのうちに三十七度を超え、思わず閉じた瞼の裏側に幾筋もの赤い雷光が走る。
「く……んうぅ……っ!」
架空のIDを創り出す
本来これは、カノエがベンサレムの外を歩くために生み出された窮余の一策だったが、おかげで複数のIDを同時に存在させられるようになった。各種セキュリティが投げつけるスキャン波をあらかじめ把握しておくことで、任意のIDだけを返すことができる――つまり、彼の存在ありきのシステムだ。もしも彼の身に何か起これば、あらゆる監視装置をくぐり抜けて秘密裏に動かなくてはいけなくなる。
ちなみにカタログ上は
「ごめんね、レイ。熱かったでしょ?」
謝るが、レイモンドは特に気にした素振りも見せない。大きなあくびをしてカノエの腕に自らの前足を重ねる。
「……じゃあ、行こっか」
カノエはレイモンドを抱えたまま、
なぜならこの旅は、
そう、〈妹たち〉に未来は与えられていない。許されているのは、限りある
でも、大丈夫。きっと大丈夫。失敗したのはあのとき一回きり。彼はとても賢くて、だから間違わない。間違えたのは自分のせい。彼はなんにも、悪くない――
果たして、ツェペシュは目覚めなかった。
一人の少女と一匹のネコを下請け業者と見做し、まどろみの中へ戻っていった。
前輪が久しぶりに舗装面を捉え、スパイクが引っ込む。視界から電磁波が消え、入れ替わりでバイタルサインにイエローが点る。脈拍数と血圧が異常に高い。
串刺し公に疑念を抱かせないよう
「ふぅ……」
カノエはどっと息を吐き出し、レイモンドをレッグシールドのポケットに戻す。序盤の山場は抜けた。先ほどまでとは違って路面がちゃんと露出しているので、あとはこのまま道なりに進むだけだ。
道路は山の起伏に沿って続き、緩急さまざまなカーブが連続している。
七回曲がったところで見えたのは、小屋ほどの大きさをした銀色のハスの花――クル・イャン・ビン社の多脚ドローン用八連型メンテナンスドッグだ。〈右目〉によると、冷却ファン用のスリット入り外装パネルがごく微細な振動を放っていて、まだ稼働状態にあるらしい。となれば、清掃用の多脚ドローンも何機か生き残っているのだろう。
その証拠が、道路の外側に広がっている渓谷だ。少し身を乗り出して崖下を覗き込むと、手当たり次第に投棄された枯葉や倒木や仲間の残骸などが広く堆積している。元々あったであろう川はすっかり埋め立てられ、しかし、水は変わりなく流れ込んでくるので表面はぐずぐずだ。倒木の中には比較的劣化の少ない――二、三年前程度のものもある。
なおも観察を続けていると、〈右目〉があるものを捉えた。渓谷の奥に位置する山並みに、木の生えていない一帯があるのだ。
カノエの不審を読み取ったのか自動で倍率が上がり、それですぐに詳細が判明した。山林が山頂部の方向から吹き飛ばされた、その余波だ。生い茂った下草の中に、その場で朽ちた倒木と樹齢二十年から二十五年ぐらいの若木が不規則に点在している。
間違いない。目指す社宅群はもうすぐだ。
山並みの中腹を縫うように走っていた道路は、一・四キロメートル進んだところでつづら折りへと変わった。きっちり百五十メートルごとに折り返すヘアピンカーブを七回曲がり、駐在地からの高度が五百メートルを超えたところで、道路は尾根を伝うようになる。
この辺まで来ると周囲に立木の姿はない。道路の外側を覆っているのは、刈り取られたまま放置された枯れ草だ。劣化具合を見るに、手が入ってから一年ぐらい経っているだろうか。
急勾配を伴った一際大きなカーブを曲がり終えると、それは唐突に視界へ飛び込んできた。
遠目にはまるで巨大なヒートシンクのような、五階建て集合住宅の連なり。
外見の特徴から、旧ギデオン・ギアーズ社のエフライムシリーズとわかる。ジャイアントローターでの空輸に対応した初の
現在位置から集合住宅までの距離は直線で五百メートル近く。道路は稜線に沿って湾曲しているが、近づくにつれて直線化し、ネコの額ほどだった平地が急激に拡大していく。その形は、例えるならば縦切りにしたレモンのよう。地面の凹凸はまったく見られず、どこまでも平坦だ。
それも当然の話で、僻地に設けられる社宅群は大抵の場合、山並みの頂上部を真横に切り拓いて造るからだ。
社宅群の足元は高さ四メートルの塀で取り囲まれ、道路はその中心に位置する通用ゲートへ向かっている。平地の幅は五百メートルにまで広がり、塀もまた横幅いっぱいだ。左右とも、側面へ回り込む余地は見当たらない。
カノエは塀まで五十メートルの距離を保ちながら右に道を逸れ、伐採を免れたらしい落葉樹の陰に電動四輪を止める。ここから先は徒歩だ。
レイモンドを地面に下ろすと、しきりに周囲を気にしながら近くの草むらへ。トイレタイムの間に、カノエは身支度を整える。とは言っても、パッキング済みのバックパックを背負い、腰の後ろに草刈り用のマチェットを穿くだけで終わりだ。
鎮痛タブレットを口に含みながら待っていると、いくらかすっきりした顔でレイモンドが駆け戻ってくる。
《社宅群の外側を軽くなぞってみたよ。ご多分に漏れず、出入口はメインとサブの二箇所だけ。セキュリティはもちろん健在だ。セントリーポッドの移動ログを見る限りでは塀に欠落はないようだし、正々堂々と中に入るしかないね》
《わかった》
《ここから先は違うIDにしよう。いくつか候補を挙げるから、きみが発声しやすいものを選んでくれ》
じわりと襲い来る鈍痛に頭を抱えながら、カノエはその場に膝を突いた。
視界の右端には、彼の言う『候補』がリストになっている。
「……エレファ=
その中のひとつを口に出した途端、〈首輪〉の赤熱化が始まった。たちまち上昇する体温を感知し、バックパックと背中の間でスキンスーツが蠢く。
「ぐ、うぅ……ん……っ!」
ほんの一時間の間に、三度もこの苦しみを味わうなんて――四つん這いになり、その辺に生えている草を握り締めながら喘いでいると、レイモンドが身体の下にするりと入り込んできた。
《アステリオス・エンタープライゼズの施設管理部第三課副主任、エレファ=稲郷。本当はエレナのほうが響きがいいんだろうけれど、名前から逆算して求めるアルゴリズムになっていないからね。すまないけど、今回はそれで我慢して欲しい》
《うん》
《それはともかく、ぼくの身体のほうが食欲を訴えているんだ。IDの定着が終わったら、すぐに食べさせてくれないかな》
灼熱の苦しみに頭痛が重なり、カノエはもはや息も絶え絶えだった。
「はぁっ、はぁ……っ、はぁ……」
「すぐに食べさせたいからって、それは反則でしょ?」
レイモンドではなく彼に対して抗議の声を上げるが、食べごたえのあるおやつに夢中で聞く耳は持たない。
「こんな些細なことで首輪をコントロールするなんて……」
とはいえ、リモート機能のおかげで命拾いした経験はそれなりに多い。文句はそれきりにし、彼が新たに獲ってきた
〈右目〉隅のマップはアップデートされ、新たに二つの図形が表示されている。
ひとつは細長いサツマイモを縦切りにしたような形。これは、カノエたちが今いる平地の輪郭線だ。全長は二・七三キロ、幅は〇・五九キロ。ほぼ南北方向に伸びている。
もうひとつは、そのサツマイモの中にすっぽりと収まった長方形。縦方向が二キロ、横〇・五キロという大きさで、四隅が丸く処理されている。これが、社宅群を取り囲んでいる塀だ。彼が言った通り、出入口は二箇所だけ。今見えている通用ゲートと、長方形の中腹に存在するメインゲート。ここから最も遠い最南端にメンテナンスハッチがあるらしいが、どのようなものか今はまだわからない。
外側を軽くなぞってみたというレイモンドの言葉通り、判明しているのはここまでだ。
だが、現在位置からは集合住宅が整然と立ち並ぶ様が見え、目視できたものがマップ上に反映されている。
五階建ての集合住宅は四十メートル×十メートルの長方体で、高さは十七メートル。短辺側を南北方向に向けた十棟の連なりが、東側と西側の二グループ――合計二十棟が横に並び、そのまとまりが奥に向かって続いている。現在位置からは四列目までしか確認できないが、それ以上に続いているのは間違いない。
レイモンドがジャーキーを食べ終えたので抱き上げて膝に乗せ、肉球へ保護ジェルを塗り、鼻には防塵フィルターを詰める。これで準備は終わりだ。
「じゃあ、行くよ」
現在時刻は〇八四八。駐在地を出発してほぼ一時間が経っている。帰りの電車の時刻を考えると、残りは九時間というところだ。〈右目〉の隅に、一七四五を目標とするタイマーがセットされる。
「指示があるまで待機モードに入ります」
カノエが離れると
カノエはレイモンドを抱えたまま、慎重な足取りで通用ゲートに近づいていく。
ゲートは塀の中心に位置し、車両用と人間用のレーンがある。幅はそれぞれ五メートルと二メートル。車両レーンは地面から生えた侵入防止柵で塞がれているが、歩行者レーンに物理的障壁はない。
一見、簡単に入れそうだが、ゲートの上部にはユージーン&メヒティルト社の『聖女の雷光』が睨みを利かせている。
聖女の雷光は、微小な焼印から一閃両断まで自在に出力を変えられる、多目的レーザーガンのベストセラー。その威光は今も健在のようで、境界線を示すライン上には大小さまざまな動物の死骸が積み上がっている。腐乱死体から白骨までが揃い、〈右目〉の計測では三十七体。最も新しいのは、推定で四ヶ月前に死んだ野良イエネコだ。見ないようにしてきたが、どうしても目に入ってしまう。
カノエはゲートの十メートル手前で足を止め、レイモンドを改めて抱き締める。
不安だ。どうしようもなく不安だ。口から飛び出そうなほどに心臓が高鳴り、バイタルサインがイエローに差し掛かる。
ひとつ前の真っ黒なレイモンドは、まさにこの聖女の雷光に打たれて死んだ。ミスの原因は判明している。対策法も万全だ。大丈夫、もう二度とあんな過ちは起こさない。
度重なるハグに少し気を悪くしたのか、レイモンドがカノエの腕から抜け出ようと身じろぐ。
《気持ちはわかるけれど、こんなところで躊躇しなくていいよ。ここのレーザーガンは決してきみに発砲しないから》
《どうして》
《さっきより近づいたおかげで、より詳しい情報が得られた。結論から言うと、この社宅群の警備警戒システムは目が塞がれている。接近そのものは感知できるけど、何者なのか判別できなくて結果として手出しができないでいるんだ》
《ありえない》
《うん、奇妙な話だ。この死体は間違いなくレーザーガンのものなのに、今は機能不全に陥っているんだから》
《つまり》
《気をつけて、カノエ。無人のはずのこの社宅群には、セキュリティに手を加えた者が住んでいるかもしれない》
鎮痛タブのおかげで、じわじわと侵食するような鈍痛が頭蓋の中を満たしていく。カノエは痛みを逃がすように深呼吸し、視界の右半分に目を向けた。
セントリーガンの移動履歴、レーザーガンの稼働ログ、
しかし、気は抜けない。ただの不法居住者ならともかく、セキュリティに干渉できる技術を持っているとなると一筋縄ではいかないだろう。既存の設備だけにとどまらず、新たに何か仕掛けている可能性もある。
自分の顎の下にレイモンドの頭を差し込み、カノエはゆっくりと歩行者用レーンに近づいていく。足元にある死骸を見ず、前だけを向いて。
怖くないと言えば嘘になる。気まぐれを起こした聖女が、出し抜けに雷光を放つ可能性は排除できない。〈右目〉の端には、こちらの動きをトレースし続けている銃口が見える。
だけど、こうして抱きかかえていれば、少なくとも死ぬときは一緒だ。レイモンドの首もろとも、自分の頭も切り落としてくれるだろう。
怯える足が勝手に動く。スキンスーツが動かしてくれる。
計四体の聖女が左右から見守る中、境界線を踏み越える。つま先が、塀の内側へ入る――
ひとまず、何も起こらなかった。走って逃げたい欲望に駆られたが、〈首輪〉はそれを許さない。不審な行動を取れば、即座に攻撃されるかもしれないからだ。
カノエは祈るような気持ちでひたすら歩を進めた。有効射程は五十メートル程度。一歩ごとに遠ざかる距離は七十センチ。歩いても歩いても、
今歩いている通りは幅が十五メートル、長さは百五十メートルほど。突き当たりに高さ三メートルのフェンスがあり、集合住宅が立ち並んでいるのはそれの向こう側だ。
通りの左右に立ち並んでいるのは屋根付きのトラックヤードを備えた自動倉庫で、閉ざされたシャッターの前には誘電駆動式のターレットトラックが何台も放置されている。車両自体はまだ動きそうだが、肝心の道路は亀裂だらけで、太陽発電および誘電能力は既に機能していない。
人の気配はない。生物の気配もない。動くのは、そよ風に揺れるハルジオンだけ。
ようやくレーザーガンの射程から外れたが、さらに十メートル進んで安全を確保する。レイモンドを地面に下ろすと、顔をこすりつけながら足元を一周し、それからカノエを見上げてくる。
《この一帯は後方設備エリアだ。きみの視界にはまだ入っていないようだけど、上下水道施設や非常用発電施設などが存在している》
《ほかには》
《各種インフラ関係のログも取得できたよ。それによると、この二十年近くは使用された形跡が見られない。おおむね、地方政府から仕入れた通りの状況だね》
《じゃあ》
《不法居住者の存在とは矛盾しないよ。最も新しい死骸より後に来たのかもしれないし、独自のインフラを構築している可能性もある》
カノエは痛みで顔をしかめながらうなずき返すと、彼の先に立って歩き始めた。
旧ハスミ生化学四号社宅群。
面積は七十三・〇七ヘクタール――十三・六一
地方政府が把握し、カノエにもたらされた情報はこのぐらいだ。基礎情報とは名ばかりのわずかな概要に加え、各種届出の受理日と所在地の座標が付属している程度。プライバシーの保護を理由に人口の動態すら秘され、企業からの分担金が命綱ということもあり、地方政府は何も言い出せないのだ。
なので、旧ハスミ生化学がなぜここを引き払ったのか、その詳細は明らかになっていない。
この手の集合住宅の使用期限は約三十年。十年足らずで放棄するには、必ず理由があるはずだ。時期的にはルイナー・テクニカル社との吸収合併と重なっているので、それ絡みの可能性は高い。だが、思い込みは危険だ。重大な事件や事故により、居住が不可能になったかもしれないのだ。
今のところ、大規模な破壊の跡などは見当たらない。
代わりに見当たるのは、約二十年という年月がもたらした経年劣化だ。高さ七メートルの灰色の直方体――自動倉庫に取り付けられた屋外照明はところどころで落下し、壁面は白く粉を吹いている。〈右目〉が倍率を上げたので注視すると、ごく小さな崩落の痕跡が何箇所も見つかる。建材に混入されているナノマシンが劣化し、分子間結合力が弱まったせいだ。〈再起動〉以前の廃墟は金属に付着する赤サビが特徴だが、以降の廃墟はこの白サビが付き物だ。
カノエは〈右目〉内のガイドに沿って通りを直進し、やがてフェンスに突き当たる。この向こうは集合住宅の立ち並ぶ区画――一般社員居住エリアだ。
ただし、近くに入口はない。道路はフェンスに沿って左右へ続いていて、それぞれ二百メートル先にゲートが見える。
しばらく思案したカノエはおもむろに屈伸運動を始め、呼応したように手首から伸びたスキンスーツが指先までを覆う。
フェンスの高さは三メートル。縦ルーバーなので手足を引っ掛けるような場所はなく、支柱の頂部に組み込まれた
この街が正常な状態ならば、フェンスを飛び越えようとする者はいないだろう。セキュリティ以前に、かなりの身体能力が求められるからだ。
フェンスを蹴って
次は鉄棒競技の車輪のイメージだ。フェンスを蹴った勢いで後ろ向きに回転し、倒立の状態から手を離して向こう側へ――
「ふ……っ!」
途中まではイメージ通りだったが、フェンスから手を離した後に膝を抱えての回転が加わった。バックパックを背負ったままなので遠心力が過剰に働き、高速で三回転した直後、ほとんど這いつくばるような姿勢で着地する。
一方のレイモンドは、フェンス下の隙間を難なく通り抜けてきた。
《さて、そろそろ仕事を始めないとね。さっきの食事のおかげで身体のほうも聞き分けがいいし、この一般社員居住エリアなら四分の一ぐらいは手伝えそうだよ》
《でも》
《この街の使用期限はあと一週間で切れてしまう。それも地方政府が受けた報告の上での話だし、実際にはもっと短い可能性だってある。急ぐに越したはないんだよ、カノエ》
《わかってる》
《さっき判明したけれど、このエリアの集合住宅は全部で二百棟ある。五十棟ずつ四つのブロックに分かれているから、そのうちの一つにぼくを解き放てば大丈夫だ》
カノエはこめかみを押さえながら立ち上がり、目の前に広がる光景を〈右目〉に収めていく。
南へ一直線に伸びているのは幅二十メートルの大通り。左右には歩道が設けられ、さらにその外側に、長辺を向ける形で集合住宅が建っている。それが五棟続いたところで途切れ、二十メートルの間隔を置いて再び五棟。
アップデートされたマップによると、このエリアには田の字に張り巡らされた大通りがある。つまり、集合住宅の切れ目が交差点ということだ。
北東から南西まで四つの区画に分けられ、一区画当たりの配置は、南北に五棟、東西に十棟。合計五十棟。彼が調べた通りの光景だ。
視線をさらに遠くへ向けると、約五百メートル先で一般社員居住エリアが終わり、さらに三百メートル行ったところに生け垣が確認できる。見える。レイモンドの手が及んでいないのでマップ上では不明の扱いだが、恐らくは上級社員用の区画。今回の真の目的地だ。
しかし、今はまだ行けない。二百棟もの集合住宅を調べ尽くし、居住者の有無を確かめなくてはならないからだ。
カノエは今、『島霧アサコ』として企業資産査察員の業務を請け負っている。その内容は、企業の保有している建物が届出通りに使われているかを、地方政府の代理人として現地調査するというものだ。もしも違反があれば――今回の場合、廃止が届け出された住宅に誰か住んでいるとなれば――追徴分も含めて然るべき額を課税する。設立以来、ずっと金欠に喘いでいる地方政府にとって重要な収入源だ。
にも関わらず、企業からの横槍で調査対象の選定は完全なランダムだ。請負人への報酬はごくわずかで、事故や怪我の補償もない。もちろん、ナノ
〈右目〉のマップ内の集合住宅には、いつの間にか数字とアルファベットが振られていた。彼が追加で見つけてきた情報が反映されたのだ。
数字は南から北へ順番に、01から10まで。南側に若い数字を振られているのは、街の中枢施設に近いからなのだろう。今いる北側は日当たりも悪く、フェンスの向こう側には各種処理施設などが存在する。恐らくは、職位が上がるに従って南側へ移って行ったに違いない。
そして、アルファベットは西から東の順。大通りを境に、AからJが向かって右手の西側で、KからTが東側だ。
カノエはレイモンドを伴って西側のJ10棟に近づくと、チェストバッグから一片のシールを取り出す。
シールの大きさは一センチ四方。二枚合わせになったその中には直径二ミリの球体が八つ封入されていて、シールを剥がすと、こぼれ出た球体がごく微細な羽音をさせながらふわりと宙に浮く。ベクテリカ社の極小探査ドローン『フライビッツ』だ。
片方のシールをレイモンドの〈胴輪〉に貼り付けると、空飛ぶビーズ玉が一定間隔で周囲を取り巻く。
以降は彼におまかせだ。身体のほうはレイモンドになる以前から訓練を受けている上に、彼がフライビッツを操ることで間接的にコントロールできる。
条件付けのトリガーになっている合成キャットニップを嗅がせると、レイモンドはその場に一度ころんと寝転がってから立ち上がり、一声鳴いてから踵を返す。ひとまずは真っ直ぐ、西へ向かって歩き始めるレイモンドだったが、五機のフライビッツが甲高い羽音を立てて行く手を阻み、残る三機がぶんぶん飛び回ってJ10棟に入らせようとする。出鼻を挫かれたレイモンドは少し迷惑そうに尻尾を小さく振ったが、気を取り直して三機を追い、J10棟の中へ駆け込んで行った。
調査とはいっても、フライビッツの内蔵センサーが情報の収集を担うので、レイモンドには範囲内を隈なく散歩してもらうだけでいい。暗く表示されている未確定領域が、小刻みに加減速しながら少しずつ塗り潰されていく。
「……よし」
そろそろ自分も働かなくては。
カノエはもう一枚シールを取り出し、片割れをキュイラシュに貼り付けてフライビッツを起動させる。〈右目〉の視覚情報が使えれば楽なのだが、身元や正体を隠すためにはデータ形式の統一が重要だ。
現在地は一般社員住居エリアの最北端かつ、南北を貫く大通りの始点。北西部はレイモンドに任せ、残る北東部、南東部、南西部を時計回りに巡る。〈首輪〉が即座に作成した推奨ルートによると、総移動距離は約七・五キロメートル。普通に歩けば一時間半というところだ。
現在時刻は〇八五五。カノエはまず、大通りを南下していく。
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