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 駐在地の街並みは全国どこへ行っても同じだ。道路はもちろん建物も。省力化のためにすべてモジュール化され、仕様はひとつしか存在しない。

 だから、外へ出る道筋も風景も毎回同じだ。道路の左右に規則正しく立ち並ぶのは、空輸用のフックが生えた戸建ての宿舎。以前とは有り様を変えた老人ホーム――そして、無辜の罪人を収容し続ける刑務所だ。

 カノエたちを乗せた電動二輪エリーは時速二十キロの徐行運転で駐在地を出ると、時速六十キロまで滑らかに加速する。道路の幅員は六メートル。歩道はなく、自動補修素材で覆われた路面には大型車両のタイヤ痕がうっすらと残っている。

 道路は――管理されている設備や施設の外側は、もちろんクズの海だ。足を踏み入れる隙間もなく覆い茂り、ほぼ二十メートルの間隔でモニタリングポールが立ち並んでいる。

 ポールの高さは地表から三メートル。直径は五センチと細いが、内部には動体センサーを始めとする各種観測機器が仕込まれ、得られた情報は代官が従えているキュクロプスが管理する。動体センサーのログや気象データのみならず、物資の数量、自給施設のコントロール、老人たちの稼働状況に至るまで。駐在地ごとに構築された通信網は入口も出口もキュクロプスが一手に掌握し、扱えるのは代官だけに限られている。

 道路は三百メートルほど続いたところで緩やかなカーブに差し掛かり、別の古い道路に合流する形で消えている。ひび割れとわだちが目立つ、従来工法によるアスファルト舗装だ。

 前輪が合流点の継ぎ目を踏み越えた途端、より平坦な路面を求めて自動運転の車体が大きく横へ動く。

「レイ、おとなしくしてて」

 走行中の彼の居場所はレッグシールドの内側に設けられたポケットだ。リードを繋げているので落ちる心配はないが、フロントパネルに手を掛けようと立ち上がる姿は見ていてどうにも危なっかしい。

 押さえ込むつもりでカノエが手を伸ばすと、彼は身体を擦り付けるようにして全身で逃れ、顔をこちらに向ける。

《目的地までのルートは七十六パーセントまで割り出せたよ。途中まではジイサンたちが高架道路の修繕に向かう道のりで、そこから先は未知の領域というところだ》

《だいじょうぶなの》

《移動系のログを漁ってみたけど、道は続いているとみて間違いないと思う。従来構造物の転用は駐在地運営の基本だからね。労働力の確保こそが至上命題となっているこの時代、設備維持のためだけに新しく道路を拓くことはないよ》

《わかった》

《本当はキュクロプスから情報を得たいところだけど、今は代官に付きっきりでビジー状態だ。どうやら、ちょっとやりすぎたみたいだね》

 眉間を貫くような痛みが走り、車体の揺れと合わさってカノエの身体が大きく傾く。電動二輪がマニピュレーターを展開して不測の事態に備えるが、どうにか持ちこたえて姿勢を戻した。視線が合えば勝手に〈会話〉が始まってしまうのも考えものだが、主導権は彼の側にあるので仕方ない。

 カノエはレイモンドの懐柔を諦め、視線を上げて周囲の観察に努めることにした。

 今走っているのは〈再起動〉以前から存在する道路だ。片側二車線ずつで両側には歩道。モノレールの軌道もかくやという深さで刻まれた轍の中を進んでいるが、〈右目〉のスキャンによると、平坦な部分にはもはや走行に耐えうるだけの強度がないらしい。

 残りの施設も同様だ。信号機や標識は朽ちて倒れ、コンクリート製の電信柱からは電線が垂れ下がったまま。道の外側に延々と広がっているクズの海原うなばらにはテーブル状の大きな盛り上がりがいくつも確認でき、〈右目〉に投影されたアーカイブによると、この近辺には大型商業施設が立ち並んでいたようだ。その背後に広く展開していたのは整然と区画された住宅地。それを証明するかのように、遠方の山並みの付近まで途切れることなく電信柱が続いている。

 見渡す限りの緑の荒野。

 人々はかつて、このような場所で生活を営んでいたという。どの土地で暮らすか。どのような家に住むか。職業にも選択の余地があり、個人の自由意志が尊重されるだけの余裕が社会全体にあったらしい。

 にわかには信じられない話だと、こうして地方へ赴くたびにカノエは思う。

再起動リ・ブート〉後の世界は、労働リソースの減少が大きな問題だった。電子記録の喪失は社会に混乱をもたらし、あまりに多くの人々が死んだからだ。一説によると〈再起動〉からの三年で地球の総人口は十億を切ったという。

 故に企業は、積極的に労働力を集めた。復活させたテクノロジーこと安心で安全な衣食住を惜しげもなく提供し、あまねくもたらされる幸福と安寧を前に人々はこぞってくびきに繋がれていった。

 そして、その流れは加速する一方だった。自動化や省人化がどれだけ進もうとも、人間の手のほうがはるかに効率的な場面は依然として多く存在するからだ。

 最初は労働者だけだったが、ややもすると、やがて労働者になるものや労働者を生み出すものへと。そして、かつて労働者だったものも囲い込みの対象となった。団地化した社宅を宛てがわれ、生活は全て保障され、医療費も低廉で、働ける身体になるまで徹底して治療を施された。妊娠と出産は何よりも尊ばれ、生まれたその瞬間から企業の一員たる社民の資格が与えられた。

 しかしカノエは、ふと疑問に思う。

 囲い込みが進むにつれて、保有している人的資源の多寡が企業の序列を決めるという奇妙な価値観が定着した。M&Aが繰り返され、数多ある企業は三つの勢力に統合された。

 群雄割拠の時代ならばいざ知らず、代官に任じて地方へ飛ばすほどに生殖能力の喪失は罪なのだろうか。子供を作れないことは、そんなにも悪なのだろうか。

 カノエは目を閉じ、〈首輪〉から湧き起こる言葉に耳を傾ける。

 ――不能者が将来的に発生させるであろう経済的損失に関する予測。

 ――クローン体及びそれに準じる知性体の製造・開発を禁止する企業間協定。

 ――新たな労働者階級が創出された場合に想定されうる社会的な影響についての報告書。

 現状を肯定するキーワードがいくつかもたらされるが、どれもカノエを納得させるようなものではなかった。

 自分には正常な生殖能力がある。カタログスペックの上では、ナノ災厄ハザードによって損なわれることもない。

 しかしこれは、ただの飾りだ。実際に用いられることは、決してない。

「それならわたしは――」

 何なのだろうと言い掛け、カノエは頭を振る。

 自分が何者なのかは、生み出された前から決まっていたこと。異を唱えても、疑問を呈しても、決して覆ることはない。

 そのとき、身体が左へ一方的に傾くのを感じ、カノエは目を開ける。

 すると電動二輪は交差点に差し掛かっていた。〈右目〉のナビと同様、路面に刻まれた轍も左折で一致している。残りの直進と右折方面は、無数に走ったクラックと折り重なるように倒壊した信号機や標識によって閉ざされている。

 左折を終えた電動二輪は、やや規格の下がった道路を再び直進し始める。橋を渡り、川を越え、いくつもある脇道をすべて無視し、遠くに見えていた山並みがどんどん近づいてくる。

 道路はやがて丁字路に差し掛かり、今度は右へ。山並みに沿って進む道路は片側一車線ずつとさらに規格が下がったが、実際に走れるのは右側の反対車線だけだ。山沿いの左側の車線は、崩落した土砂やコンクリートによって埋め尽くされているのだ。応急処置のつもりなのか土砂の表面には硬化剤が撒かれているが、ほころびて崩れた箇所はおざなりに押し戻され、そこに再び硬化剤を撒いている。

 山沿いの一本道は緩やかに蛇行しながら続き、やがてトンネルの入口が見えてきた。崩壊を防ぐためにアーチ状のフレームが差し込まれていて、ここの荒廃もかなりのものだ。

 カノエの不安を先取りしたように電動二輪がわずかに速度を緩めるが、カノエは胴体を軽く叩いて先に進ませる。代わりにレイモンドを膝の上へ乗せ、覆いかぶさるように彼を抱き締めた。

《きみのその疑問は持てる者ならではの傲慢なものだ。アドバンスドであるきみの身体には、生まれながらに抗ナノマシン性が付与されているわけだからね。性能が正しく発揮されれば、どのような場所でも決して身体性能を損なうことはない》

《なんのはなし》

《きみがさっき考えていた、子孫を残せないモノを排斥することの是非についてだよ》

《レイのかんがえは》

《やむを得ない措置だとぼくは思う。確かにやや過剰な面はあるけれど、厳格な序列構造を設けることによってガス抜きを図る施策は古今東西を問わず行われているからね。自分たちよりも下の存在がいると安心させ、自尊心を満たさせることで不満を自然解消させる。流動性の低い会社組織においてはとりわけ有効だ》

《でも》

《きみが不満を感じる理由は理解しているつもりだよ。だけど、圧倒的多数を占める一般社員や社民もまた賤民だ。飼い慣らされ、何の自由もない。生粋のアウトサイダーであるぼくだって、きみのグレート・シスターに隷属せざるを得ないし、絶大な権勢を誇る彼女にしても、自らを蝕んでいる病を克服できていない。結局のところ、人間社会全体がリ・ブート後の世界に対して服従を余儀なくされているというわけさ》

 レイモンドが振り向いたので不意に目が合ってしまった。鎮痛タブの効果は切れていて、こめかみを割りそうな痛みに歯ぎしりしながら悶絶する。

 気分がよくない。頭痛もさることながら、片付けたはずの疑問が彼との〈会話〉で再燃してしまった。

 人口が回復したにも関わらず、企業がなぜ人的資源を重要視するのか。

 それは間違いなく〈ナノ災禍ハザード〉のせいだ。

再起動リ・ブート〉後に発展した技術はいくつもあるが、中でも重要なのはナノマシンマテリアルだ。ナノマシンを混入させることで成形を容易にするこの新素材は、まずは建築の分野で普及を始めた。従来、完成までに膨大な時間と人員を必要とした建築物や構造物が、マテリアルプリンターで安易に、しかも大量に生産できるようになったのだ。

 時を同じくして発展を遂げたドローン技術との相性は抜群で、復興事業における強力な武器となった。他の分野でも応用が模索され、自動成形能力という劇的な省力化をもたらすナノマシンマテリアルは、〈再起動〉後の社会に無くてはならない存在となった。

 しかし、ナノマシンマテリアルには極めて重篤なデメリットが隠れていた。遊離したナノマシンが体内に入り込み、健康被害を及ぼすのだ。

 ただちに命を落とすことはない。だが、ナノメートルという極めて小さなサイズは人体への侵入を防げず、各所へ確実に蓄積し、継続的にダメージを与えていく。

 当初は原因不明の奇病という扱いだった。臓器が機能不全に陥り、置換を要する者が年を追うごとに増えていった。老若男女を問わず、世界中の至るところで。

 気がついた時にはもう手遅れだった。かつて問題となったアスベストよりも応用性に富むナノマシンマテリアルは、ヒトの生活からは切っても切り離せない存在となっていた。日用品から建築物まで、生産施設はそのほとんどがマテリアルプリンターに置き換わり、職人という概念が消え去った後だった。ナノマシンマテリアルを排除しようにも、一度廃れてしまった技術を取り戻せないのでは不可能に近かった。

 そして人々は、不可視の時限爆弾との共存を強いられることになった。どうか自分だけは当たりませんようにと祈るように暮らし、どこにもメスを入れていない五体満足の身体には羨望の眼差しを浴びせた。

 もちろん、生殖器官も例外ではなかった。企業による統治が進むにつれて確実な高まりを見せていた出生率は、ある時期から緩やかに下降を始めた。あらゆる手を尽くしても問題の解決には至らず、そして企業は人的資源の確保を第一義とするようになった。

 囲い込みは、まさしく時代の趨勢だった。

 仮にクローン製造技術が一般化し、低廉かつ大量に労働力が供給されればどうなるか。それは火を見るより明らかだ。コスト度外視で運用されてきた機械化老人のような存在はお払い箱となり、ナノマシンに冒されても医療は提供されなくなる。

 リストラという名の大粛清が、世を席巻するのは間違いない。

 今のこの人間社会は、企業たちが新たに築き上げたものだ。彼らの安定イコール社会の安定であり、これを覆そうと考える者は誰もいない。すっかり零落した行政機関や政府機関も、企業の支配を逃れて辺地に暮らす非追跡主義者集団アンチトレーサビリティパーティも、既に飼い慣らされている圧倒的多数も、誰も。

 であるのなら、やはりそれは悪なのだ。自分が身を委ねている秩序の維持に貢献できないのならば――人的資源を生み出せないのであれば――見せしめとして排斥するのもやむを得ない。

 理解はできる。できたつもりだ。

 しかし、納得はできない。したくない。

 その論法に従うならば、自分もレイモンドも悪に属することになる。去勢済みのオスネコたる彼はともかく、自分のこの身体はきっと多くの人々を救うはずなのに。

 レイモンドの温もりと共に、鬱屈とした思いを抱え続けていたカノエだったが、次第に明るくなっていく周囲の様子に身体を起こす。もうすぐトンネルの出口だ。

「っ……!」

 外の明るさに思わず左目だけ閉じた。〈右目〉はもちろん平気だ。光量の変化に問題なく追随し、いつもと変わりなく光学情報を捉え続ける。

 トンネルの全長は約二キロメートル。直線距離ではもう少し短いが、山で隔てられていただけあって外の様子は少し違っていた。

 まず、クズの繁茂がどこにも見当たらない。地面を覆っているのはイネ科やキク科の雑草たちで、建築物が露出している。

 一階部分が潰れた木造家屋。一枚板のように倒れた石塀。屋根が吹き飛んだ鋼板製のガレージに、壁面が剥離して内部が露わになっている土蔵。雑草が繁茂した空き地――恐らくは農地――には、折れ曲がった金属製の細いフレームが何本も突き刺さっている。

〈首輪〉に収録されているアーカイブによれば、さっきのトンネルがシティタウンの境界線らしい。電動二輪は両側に山並みが続く渓谷の中を走っていて、前に越えたのとは別物らしき川が道路の左手に沿い、右手には奥行き数百メートルほどの帯状の平地が続いている。このまま進むと町の中心地だ。それを裏付けるように、廃墟の種類と数と密度が増していく。

 それから三キロメートルほど走ったところで十字路に差し掛かり、カノエは電動二輪を一旦停止させた。

 交差点にはコンビニエンスストアやエネルギースタンド、コミュニティセンターなどが面しているが、どれも廃墟と化したまま。再利用の形跡は見当たらない。

 道路は三方向それぞれに進むことができ、轍が存在するのは直進方向と左折方向。より新しいのは左折で、目的地たる社宅群の方向とも一致する。

 カノエは鎮痛タブを飲み、レイモンドの両脇に腕を差し込んで目の高さまで持ち上げる。

《うん、ここは左折で間違いないよ。この道を進んでいくとジイサンたちが仕事をしていて、さらにその先だ》

 一文だけで終わったのでフィードバックも最低限で済んだ。ボディを軽く叩いて電動二輪をスタートさせると、レイモンドを抱きしめて鈍痛を紛らわせる。

 左折した先には二つの橋が並んで架かっていた。崩落寸前のコンクリート製のものと、金属製の仮設橋だ。仮設橋は、約二十メートルの川幅に対して三十メートル級の一枚板を置いただけというその場しのぎで、空輸用のフックと一体化したアンカーパイルによって固定されている。とは言っても接地面には何本もの亀裂が走っていて、そう遠くないうちに地盤ごと崩落するだろう。

 欄干のない仮設橋を減速しないまま渡り、次第に規格と道幅が下がっていく道を進むこと三分あまり。正面にある廃神社らしき森を右に避けると、いよいよ本格的な登坂の始まりだ。勾配は五パーセント程度とまだ緩やかだが、路面の状態はさらに悪くなって砂利道も同然。アスファルト舗装が完全に砕かれ、その下に敷かれた砕石が露わになっている。

 顔を上げて先を見るが、路面はずっとこのような調子だ。今のところ自動運転に支障はないものの、これ以上に勾配が強くなればどうなるかわからない。

 それでもなお速度を緩めずに走っていると、不規則な上下動に耐えかねたようにレイモンドがカノエを見上げる。

《こんな僻地でパブリック・ライドシェアを振りかざす人間なんていないだろうし、このまま走る理由はないんじゃないかな》

《わかった》

 カノエが賛意を示すと即座に〈会話〉が終わり、電動二輪のインジケーターがスプリットモードの作動を告げる。

 変化はまず、ナノマシンマテリアル製のソリッドタイヤに現れた。走行中にも関わらず中心に分割線が生じ、車軸の変形を伴いながらそのまま左右へ。後輪も同様に二つへ分かれ、ものの五秒で独立懸架式の四輪駆動車となった。

 最初から四輪で走らないのは、四輪以上の装輪車を所持する者に一般市民の同乗規定が課せられているからだ。公共交通機関網が寸断されて末端部から次々と消滅していく中、当時の行政機関はライドシェアの義務化を打ち出し、四輪車の所有者は同乗の求めを拒否できなくなった。今となっては時代遅れの制度だが、それでも万が一ということもある。対策を取るに越したはない。

 電動二輪改め電動四輪となったエリーは、格段に向上した不整地走破能力で砂利道を駆け上がっていく。

 左手に連なっているのは広葉樹林。右手に広がっているのは石垣で狭く区切られた階段状の平地。廃神社を通り過ぎて以降、建物の形跡はひとつとして見当たらない。

 坂道を登って行くうちに右側の平地はどんどん狭まり、やがて山並みに収束する格好で途切れてしまった。ここから先は、広葉樹林の谷間を辿る完全な一本道だ。管理が放棄された林の中は朽ちて倒れた樹木が到るところに転がり、そのうちの何本かはガードレールのように道路に並行している。塞がる形で倒れたものを脇に退けただけなのだろう。

 それからさらに走ること約八分。急カーブを曲がると突然に視界が開け、コンクリート製の巨大な柱が目に飛び込んできた。

 深い谷底に立つ柱は全部で四本。幅五メートル、奥行きが二十メートルの分厚い板状で、高さは約八十メートル。それがほぼ百メートル間隔で一直線に並び、山と山を結ぶ長大な橋を支えている。

 そう、この柱は橋脚だ。アーカイブには事業中のタグが付けられ正確な完成年度はわからないが、建築様式や劣化具合などから〈再起動リ・ブート〉以前なのは間違いない。

 その根本付近には仮設の足場が設けられ、様々なアタッチメントを装着した機械化老人たちが橋脚にへばりついて補修作業に勤しんでいる。その様子も姿も、まるでアリのようだ。そんな彼らの上空にはあの立方体キュクロプスが浮かび、代官に成り代わって老人たちを監督している。

 カノエがしばらく眺めていると、立方体の一面に浮かび上がった目がこちらを見つめ返してきた。少し身構えるカノエだったが、向こうは身元の確認をしたかっただけのようだ。一瞬スキャン波を向けただけですぐに目を閉じ、再び老人たちの監督に戻っていく。

 そうこうしているうちに電動四輪は橋の下を通り抜け、さらにその先へと進む。相変わらずの一本道だが、轍はある地点で脇に逸れ、六輪型カーゴトラックが停まっている。

 現在時刻は〇八二〇。駐在地を出発してから三十三分が経過し、累計移動距離は二十七・四キロメートル。出発地点を基準とした高度は三百八十メートル程度。

 駐在地の人間が立ち入っているのはここまでらしく、本来の道はこの先まったく手入れがされていない。左手の山肌から崩れ落ちた土砂や枯れ葉などが積み上がり、右手の崖に向かって緩い斜面になっている。既に押し流された後なのか、ガードレールの類は見当たらない。おまけに行く手を遮るかのような倒木がところどころに見え、普通の二輪や四輪で乗り越えようとすれば、横滑りを起こした挙げ句に崖下へ真っ逆さまだ。

 だが、この電動四輪エリーは普通ではない。前輪が堆積物に乗り入れた途端、タイヤの表面に鋭いスパイクを生やしてグリップ力を向上させる。それにナノマシンマテリアル製のフレームとサスペンションが加われば、走破性は全地形対応車をも上回る。速度は大幅に落ちて時速十五キロ程度しか出せないが、想定ルートを安全に進めるのなら問題はない。

 落ちた枝葉を割り踏み、朽ちた倒木を乗り越え、腐葉土と化した路面を耕しながら電動四輪エリーは進む。

 サスペンションが効いているおかげで衝撃はない。むしろ、適度な揺れ具合が心地よくさえ感じられる。試しに目を閉じてみると、意識が暗闇に引き込まれそうな感覚がする。

 そういえば、今朝はあまり寝られなかった。累計睡眠時間は五時間二十四分十九秒。ここ一ヶ月の平均値は六時間五十二分三十九秒で、車中泊という点を考慮してもやや少な――


「さっきは途中で切れてしまったね」

 また彼の声がする。しかも暗闇の中で、ということは。

「そうそう、そういうことだ。隙あらば緊急メンテというのも風情がないけれど、とにかく事は急を要する。今はミリ秒でも時間が惜しいからね」

 理屈の上ではわかっているつもりだが、思考に割り込んでくるようなこのこの会話はどうにも慣れない。どうせならバックグラウンドで作業してくれればいいのに。

「それができたらぼくだって苦労はしないよ。開いている限り右目の機能は使われ続けるし、そもそもきみは、キャッシュの中に住まう模倣者ぼくのことを覚えておけない。かつて使われていた揮発性メモリが永続的に記憶を保持できないのと同じで、きみにとっては夢の中の出来事だ。この会話チャンネルは、きみの意識レベルが低下している間しか維持できないわけだからね」

 だったらパーティションでも切り分ければいいのでは、とふと思う。永続的な作業領域が確保できれば、そっちの仕事だってもっと楽になるはずだ。

「うん、それはいい考えだ。もしも実現できれば作業は確実に捗るよ。壁に向かって話し掛けるようなものだから、ぼくの気はひどく滅入るけれどね」

 ちょっと皮肉の混ざった言い方は、いかにも彼らしい。

「まあね。何しろ、作業用の領域を設けようにもそれを作るだけの空間がまだ確保できていないんだ。今は足の踏み場もないほどにゴミが散らかった状態で、何をするにもまずは絶対量を減らさないとね」

 そこまで逼迫していたなんて思いも寄らなかった。ペタバイト級を誇りながら容量不足に陥るなんて、誰が想像するだろうか。

「この首輪は実証用のプロトタイプだから仕方ないさ。長期間の運用なんて考慮していないし、当面の危機に対処すべく、緊急生成されたのがぼくという人格だ」

 つまり、あなたが生まれるまでは何もしていなかったということ?

「ログを見る限りではきみが寝ている間にちゃんと掃除していたようだけど、結果はご覧の通り。何が悪いのかほとんど形ばかりの作業で、処理しきれないものがどんどん溜まっていったというわけだ」

 わたしがもう少し気を配っていればよかったのかも。

「ハードウェアの容量を気にするなんてそれこそ再起動の生き残りがやることだし、きみが責任を感じる必要はないよ。悪いのは主に開発チームだ。それと、ぼくたちレイモンドも少しだけ」

 どういうこと?

「彼は、きみともっといっぱい会話がしたい。なにしろきみは、思考速度の違いで一言だけ言うのが精一杯だ。だからぼくが、この形式でのメンテナンスをシステムに提案したというわけだ」

 あなたの経験は彼にフィードバックされないのに?

「うん、その通りだ。だけどぼくは間違いなく彼だから、彼の抱いている願いはぼくの願いでもある」

 つまりレイは、わたしともっと話がしたい。

「ぼくが言うのは変かもしれないけれど、とにかく彼はネコにしておくのが惜しいぐらいに自制心が強くてね。きみに苦痛を与えてしまうことをとても気にしているし、もちろん、会話のたびに上昇するナノマシンの侵食率もだ。あとどれぐらいで自律行動ができなくなるのか、ぼくたちは常に把握して――」

 タイムリミットがわかるの? 教えて! こっちは推定値しかわからなくて。

「きみならそう言うと思ったけど、ごめん。ここでの出来事が記憶に残らないとしても、教えるわけにはいかないんだ」

 どうしても?

「どうしてもだよ、カノエ。彼ときみとの間には、きみが感知できないバックグラウンド通信が多数あるけど、その中にも含まれていない情報だ。つまりこの件に関しては、そもそもからして共有が拒まれている」

 そんな、レイモンドがわたしに隠し事してるなんて。

「ぼくは首輪が生成したコピーキャットだから、首輪に保存されていない情報は知らない。でも、彼が何を考えているのかなら知っているよ。もしもきみがレイモンドの正確な寿命を知ってしまえば、命を惜しむあまりに会話を避けてしまうかもしれない。でもそれは、短絡的で致命的な過ちだ。ぼくたちとの会話がなければきみは外の世界を出歩けないし、決して避けられない自然死を遠ざけようとして突然死を招き寄せるようなものだ」

 わたしって、そこまで信用されていないの?

「ぼくたちは心配性なんだ。きみはまだまだ経験値が少ないし、ぼくたちの知性が発揮されるのは会話の中だけに限られている。ぼくたちが目を離した隙にきみが窮地に陥っても、即座に対応できるわけじゃない」

 だけどレイモンドは、いつでもわたしを助けてくれるじゃない。

「それは、会話ごとに策定されて実行しているマクロ的な行動を、知性の発露と誤認しているだけなんだ。何しろ分岐は数百もあるからね。その点では生身のきみを凌駕しているかもしれない」

 でも、そんなはずは――

「ねえ、きみは疑問に感じたことはないかい? 彼はなぜ、会話でしか意思疎通を図ろうとしないのか。キーボードやジェスチャーや人語を模した鳴き真似や、意思の伝達手段は会話だけに限らないのに、彼はどうして――」

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