07:23




 予定地への到着まであと十五分ほど。

 十四両編成の列車の最後尾が切り離され、カノエたちが乗っている十三号車が新たな最後尾となる。そろそろ支度をする頃合いだ。

 膝の上で眠りこけているレイモンドを断腸の思いで床に下ろすと、カノエはトランクを手にして貨物室へ。電動二輪エリーはマニピュレータを伸ばして待っていて、素早くトランクを交換して客室に戻る。

 新しいトランクの中身は仕事用具一式だ。

 ショッキングピンクに塗られた胸甲キュイラシュ。ハーネスと一体化したチェストバッグとバックパック。ホルスターに収まったオートマチックのハンドガン。そして衣類。

 一通りバッグを開けて〈右目〉で一瞥するが、すべてリスト通りに整っている。電動二輪エリーのマニピュレーターが夜のうちにやってくれたのだ。

 まずは着替えだ。下着も脱ぎ捨てて全裸になると、上下セパレートのスキンスーツに手足を差し込んでいく。

 カーボンブラック色のスキンスーツは、ほぼ百パーセントが織物ファブリック系ナノマシンマテリアルで構成されている。首から下の全身を隈なく覆う造りだが、今はまだ一回り大きくてぶかぶかだ。

 上下をジッパーで繋ぎ止めてから首元の生地を〈首輪〉に触れさせると、準備ができた旨のダイアログが〈右目〉に現れる。

「やって」

 すると、〈首輪〉から送られた命令がナノマシンに送られ、ベース素材の分子間力をコントロールして変形を始める。血行を阻害しない程度に全身をぴっちりと締め上げ、ジッパーが繊維状に変化して上下が一体化し、ほんの一秒足らずで〈首輪〉から下がもう一枚の皮膚に覆われた。

「診断モード、開始」

 そう宣言し、カノエは一分間に短縮した新ラジオ体操を行う。目的は、筋肉の柔軟性や関節の可動域などを〈首輪〉に学習させるため。スキンスーツのサポート能力は強力で、現在の状況を把握してもらわないと筋断裂ぐらいは当たり前のように起こる――こともあるらしい。

「運動機能、テスト開始」

 次はスキンスーツを動作させてのアクションだ。正拳突きを皮切りに、ボクシング・コンビネーションから上段回し蹴りを繰り出して、そのままY字バランスに移行。列車が大きなカーブに差し掛かってレイモンドがバランスを崩す中、カノエの身体は十秒間ぴったり静止し続ける。それから、床面に届くまで身体を沈めて前後開脚のポーズを取り、両腕の力だけで跳び上がって抱え込みの前宙。華麗に着地を決め、カノエは大きく息を吐いた。

 最後は〈右目〉との協調能力の確認。トランクからポーチを取り出し、中身を手の上に開ける。中心に穴が空いた五円玉古銭が三枚と、伸縮性の指示棒だ。

「視覚連動機能、テスト開始」

 指示棒を伸ばしてしなりを確認すると、レイモンドが期待の眼差しをこちらに向けてくる。急いで終えないと、猫じゃらしと勘違いして飛びついてくるパターンだ。

 カノエは五円玉古銭を一枚、まずは真上に投げる。〈右目〉がその軌道を捉え、〈首輪〉が正確に予測し、スキンスーツを操ってカノエの全身を動かし、指示棒は見事に古銭の穴を貫き通した。〈右目〉で古銭の表裏を確かめるが、新たな傷はついていない。

 二枚目も真上に投げるが、今度は自分がその場で一回転する。〈右目〉の視界に入る時間はより短くなるが、これも問題なく貫いた。

 三枚目は遠くへ。七メートル先の壁に向かって投げつけ、狙うはその跳ね返りだ。キン、と澄んだ音が聞こえた途端、身体がひとりでに動き出していた。

「ふ……ッ!」

 右足が床を蹴って一気に前へ。大幅にアシストされた脚力はたった一歩で二・五メートルを稼ぎ出し、続けて左足が床を捉える。これで間合いは詰められた。あとは、回りながら落下する古銭の穴を貫くだけ。指示棒を持つ右手が動き始める、

 しかしその時、〈右目〉が別の動体を感知した。レイモンドだ。カノエは、自分がどう動くのかわからないまま、〈首輪〉とスキンスーツに身を委ねる。考えてからでは間に合わない。とっさの判断が要求される場面では、与えられた力を信頼するより他ないのだ。

 カノエの身体がぐっと沈み、指示棒に目掛けて飛びついてくるレイモンドを左腕一本でキャッチ。胸元に引き寄せて抱え込むと、前回り受け身で床を一回転。起き上がって右手を見ると、ちゃりんと音がして三枚の古銭が重なったところだった。

「もうっ、そういうのはやめて。ケガがなかったからいいようなものだけど」

 カノエのお小言にもレイモンドはどこ吹く風だ。その目は指示棒の先端に向けられていて、まだ狙う気でいるらしい。

 レイモンドを床に置いてから立ち上がると、カノエの呼吸に合わせてスキンスーツが波打ち、全身に形成された換気スリットベンチレーションから熱気が放出される。体温は現在三六・六℃。スキンスーツの高活動時間は五秒にも満たないが、体温の上昇は〇・三℃とやや高めだ。レイモンドの乱入というアクシデントのせいだろうか。

 程なくして平熱に戻るとスリットは跡形もなく消え、今度はクーリングダウンを目的としたパルスマッサージが始まった。その間も問題なく動けるので、カノエは足元にまとわりつくレイモンドを適当にあしらいながら着替えを進める。

 スキンスーツの上に着るのは、オリーブグリーンのミリタリーシャツとパンツ。ハンドガンを収めたホルスターを太ももに履き、ハーネスに腕を通してチェストバッグを腰の前に。そして、仕上げにキュイラシェを付ける。

 ショッキングピンクのこの胸甲は軽さだけが売りの強化プラスチック製で、耐弾性や耐刃性は特に考慮されていない。誰もが眉を顰める極彩色も、暗闇でも目立つ蓄光素材の使用も、企業資産監査法に対する嫌がらせが目当てだ。関係者でもない人間が合法的に企業遺跡へ立ち入るにはこれを着るしかなく、要は見せ物として歩けというわけだ。

 ハイカットの安全靴を履いてトランクを貨物室に戻すと、到着まではあと五分あまり。

 覗き窓の外は相変わらずのクズの海原だが、その中に切り拓かれた道が混ざり始める。

〈右目〉の古地図によると、道の先にあるのは治水ダムだ。周辺の地形に土砂の堆積が見当たらないということは、ダムは現在も機能しているらしい。そして、〈首輪〉の見立てを裏付けるように、一台の六輪型カーゴトラックがダム方面に向かって走って行く。サイドニアモーター社製のイステル・Dシリーズ。カーゴ部分は十二人まで輸送可能で、車体後方に独立した発電ユニットを牽引している。

「まぁーお」

 背後からの鳴き声にカノエが振り向いた瞬間、レイモンドが胸元へ目掛けて飛び込んでくる。カノエは素早く上を向いて鎮痛タブを口に含むと、五秒数えてから頭を戻した。

《さて、このアジールともそろそろお別れだ。準備はいいかい?》

《おねがい》

《わかった。やることはいつもと同じだから、そんなに緊張しなくてもいいよ》

 頭痛で少しよろけた直後、〈首輪〉が急激に発熱を始めた。

「くっ、うぅぅぅ……っ!」

 外へ出るためには避けて通れない儀式――〈首輪〉に備わっている代理認証機構イルラ・イミッティの発現だ。頸動脈が熱せられるおかげで体温は急上昇。瞬く間にに三七℃を超えて現在は三七・六℃。完了まで残り七秒。〈右目〉には警告メッセージが流れ、左目の視界が端から赤く染まる。体温は上がり続け、スキンスーツが喘ぐように呼吸をする。三八℃を突破。吐く息がマグマの塊のよう。頭の中が沸騰しそうな感覚に襲われる。

「……あ、うぅ……っ、く……」

 釜茹での刑は唐突に終わり、カノエはレイモンドを抱き締めたままその場に崩れ落ちた。

「……どうしてこんな、毎日毎回苦しい思いをしないといけないの?」

 それはただの愚痴だったが、カノエの声色が気になったのかレイモンドが顔を覗き込んでくる。

《首輪にとっては後付けの機能だからね、これは。書き換えを容易にする代わりに持続時間は短いし、自然発生するエラーは即座に訂正しないといけないから、それに対する備えも必要になる。中でも手間なのはバイタルデータの捏造だ。IDの属性に応じて矛盾なく作らなければならないし》

《わかってる》

《やはり、一度帰省するべきだとぼくは思うよ。一方通行だけれど、稼働ログは欠かさず送っているから問題の洗い出しはできているはず。改良案を用意してきみの帰還を待っている可能性は十分にあるさ》

《かえらない》

《きみが嫌がる理由は理解しているつもりだよ。ぼくたちが旅を始めてから千百二十一日が経過したけれど、目立った成果は挙げられていない。お姉さんたちの猛反対を押し切って島を出た以上、手ぶらでの帰還はできれば避けたいよね》

《いわないで》

《それでもきみは一度帰るべきだよ。右目も首輪も、この三年でまともにメンテナンスしていない。今朝のような異常動作が頻発するような事態に陥れば、きみは身動きが取れなくなってしまう》

《でも》

《きみがぼくに、言葉を与えてくれた。ぼくが知性体であると存在証明してくれたんだ。もしもきみを失えば、ぼくは再び永遠の闇の中に取り残されてしまう。それはぼくにとって、インプラントが尽きるよりも恐ろしいことだよ》

 いつもより長い〈会話〉とその内容は、カノエの心身をひどく打ちのめした。眉間からうなじまで頭全体を無差別に襲う痛みに耐えかね、うなだれるようにしてレイモンドのお腹に顔を埋めた。

「……いい匂い」

 わかっている。ちゃんと理解している。代理認証機構イルラ・イミッティは外の世界で生きるのに必要不可欠で、メンテナンスの重要性も認識している。

 いつかはあの島に戻らないといけない。でもそれは、今ではない。せめて何か、成果を得てからにしたい。何体ものレイモンドを犠牲にした意味があると、〈大姉グレート・シスター〉や〈妹たちレッサー・シスターズ〉に証明しなくてはいけない。

「なぁう」

 思い出したようにレイモンドが鳴き、〈右目〉隅のマップが一気に更新される。

 到着予定地点まではあと二キロメートル。そこは、二百メートル四方の正方形状の区画の一辺に接していて、人間を示す光点が四十五個存在している。光点の配置は区画全体に分散しているが、その中の三つが到着予定地点のすぐ近くにある。

 区画の名称は3S-T12駐在地。地方政府管轄下にあるインフラ設備――この鉄道路線も含めて――を維持管理するために設けられた現場事務所以上居住地未満の施設だ。

 この手の駐在地は一定距離ごとに設けられ、従事する作業員は住み込みで設備維持作業に当たっている。つまりこの列車は、作業員向けの物資を駐在地へ配給するためのものだ。運行は週に一往復。深夜に中核地を出た下り列車は駐在地へ差し掛かるたびに一両ずつ切り離されて、同じ日の夕方に折り返しの回収列車が運行される。

 あと五百メートル。連結器が切り離され、車両が緩やかに減速を始める。

 カノエは鎮痛タブを口に含みながらマイクロコンテナを片手に提げ、もう片方の手でレイモンドを小脇に抱えようとした。

《オーバーグラスを掛け忘れている以外、これといった問題はなさそうだ。ぼくの情報収集も支障はないし、安心していいよ》

《ほかには》

《特には何もないかな。さっさと抜け出て、さっさと移動しよう。帰りの列車までに戻らないといけないからね》

〈右目〉曰く、オーバーグラスは左側のウエストバッグに入っている。汎用型の情報投影デバイスなので〈右目〉があれば不要だが、視線の移動を不審がらせないという重要な役目がある。

 車両は時速十キロメートルまで減速し、本線を外れて引き込み線へ。『見えざるネコの手』が振るわれ、貨物ヤードを担当しているらしい三つの光点に名前が入る。岸山寿来じゅらい、山田王醍院おーでぃん河南かわなみQ次きゅうじ。停止位置で到着を待っているのはその中のひとり、岸山寿来だ。

 現在時刻〇七三八。車両は予定通りに到着した。隔壁の向こうでは複数の動作音が重なり、早くも自走式コンテナの移動が始まっている。

 カノエは乗客用ドアの前で、今一度深呼吸をした。

 扉が開かれる前のこの瞬間は、いつだって恐怖を覚える。

 誰も怖くない。レイモンドを信じている。どんな危険からも、彼は自分を守ってくれる。

『人間ではないので、対人用セキュリティ網を簡単に掻い潜れる』という奇妙な理屈の通り、彼の〈胴輪ハーネス〉は電子機器に対する攻撃性が極めて高い。駐在地の住人が相手なら、無力化するのにコンマ一秒もいらないだろう。決して、危害は加えられない。

 でも、それでも恐ろしいのだ。もしも自分が何者であるのかを暴き立てられたら、〈大姉グレート・シスター〉は決して自分を許さないだろう。彼との旅は終わり、二度と外には出られなくなる。無駄に死なせた償いを、永遠に果たせなくなってしまう。

 この不安は、決して拭い去れない。こうして、外の世界を歩き続ける限りは。

 おもむろにドアが開き、カノエは彼を伴ってプラットフォームに降り立つ。NM廃材系のリサイクルコンクリート製。ありふれた材質。ありふれた工法。

「おっ、こりゃ驚いた! 生きてるネコなンて久しぶりに見たなぁ」

 旧式の人工声帯が発するひび割れた声がし、カノエはたった今気づいたようにその声の主――岸山寿来へ向き直った。

「もしよかったら、ちょっとだけ触らせてもらえンかな?」

 見えざるネコの手で集められた情報には、岸山寿来を構成している機材についても含まれている。だから、その異様な見た目にも特に驚きはなかった。

 右腕はトーヨーホー技研の重機械腕ワダツミ伍式、左前腕は非正規改造の情報処理仕様汎用ガントレット。腰から下はロードランナーワークス社製のプロヴァーシリーズを独自改修したもので、胸部に組み込まれているのはセンチネル型のアーマードハッチだ。内部には機械化された各種臓器が収まっている。生身の部分は左の薬指と上腕、頭の一部分のみ。顔面には皺だらけの老爺ろうやのそれが貼り付き、チタン殻が剥き出しになった額には増設された第三の目が埋まっている。

 平たく言えば、全身型サイボーグだ。

「……ええ」

 脅威度は低いという〈首輪〉の判断を元に、カノエはマイクロコンテナを地面に置いてからレイモンドを差し出す。

「お、おおお……。ンむ、うぅ……な、懐かしいのぉ。昔はイヌでもネコでも好きに飼えたンだが、動物といえば最近は駆除作業ばっかりで、いや、どうにもこうにも……」

 カノエの身長が百六十九・六センチメートルなのに対し、老人は約百八十三センチメートル――ちょうど六フィート。差し出されたネコを前にまごつく長身が、少しだけ滑稽に見える。

 岸山老は――いや、この駐在地を構成するほとんどの人間は、俗に『フィーターズ』と呼ばれている機械化老人だ。

 シリコンジャケットで見た目を繕うこともできないこのパーツたちは、そのどれもが型番落ちの旧式品。公共福祉の名の元、最新医療を受ける余裕のない者は病んで機能不全に陥った身体を機械でぎする以外に選択肢はなく、無償で人工臓器を貸し与えられた代わりに老人たちは労働ボランティアを行う。

 ただしそれは、体のいい奴隷制度に過ぎない。無償提供と言いながら不良在庫を押し付け、ボランティアは強制される。継続的かつ永続的ななメンテナンスを理由に老人たちは集められ、最低限の生活は保障される代わりに賃金は発生しない。つまり、ひとたびこの福祉制度に囚われれば、宛てがわれた機材を買取ることもできずに延々と働かされ続けるのだ。

 老人は骨格が露わになった右手を所在なげに開閉させていたが、やがて刃物同士を擦り合わせたような声を出しながら肩をすくめるジェスチャーをした。

「よくよく考えたら、こンな物騒な身体で触るわけにもいかンか。もしも傷をつけてしまったら、後の仕打ちが恐ろしいわな」

「…………」

 カノエが返答に迷っていると、自動的に会話支援モードが立ち上がる。相手の言葉に対してどのような返事をするべきか〈首輪〉がリアルタイムで判断し、その場に相応しい答えを複数用意してくれるというものだ。

 ちなみに今は、この三つが〈右目〉に提示されている。

『それは残念です。帰りにまた立ち寄るので、気が変わったらその時に』

『仕打ちとは、具体的にはどのようなペナルティが?』

『彼ならそんな事態には陥りません。わたしの自慢の相棒なので』

 この三択から選ぶか。もしくは、選ばないことを選ぶか。

〈首輪〉は判断材料を的確に与えてくれるが、決断はしない。ヒトに取って代われるだけの能力を持ちながら、最後に決めるのはヒトだというスタンスを崩さない。

「……あ、あの」

 カノエが迷っているうちに新たな三択が現れ、岸山老が「そうだったそうだった」と話題そのものを変えてきた。

「まずはこっちからIDを確認して構わンかな?」

 老人は少しやりにくそうな感じで言い、カノエが頷くと、付け根から外れた額の目がケーブルを伸ばしながらカノエのうなじに回り込む。

「まあその……色々と勘弁しておくれよ。こンなのにじろじろ見られるなンて気分よくないだろうが、何しろこっちは旧式も旧式だ。感ン度も悪けりゃレンジも狭いし、どうせ無償貸与なンだから目ン玉のほうを取っ替えてくれりゃいいンになぁ。お上(かみ)の判断はどうにもよくわからンよ」

 岸山老が小声でぼやく通り、スキャンはなかなか完了しない。〈首輪〉を間近で見られていることもあって、カノエはとにかく気が気ではなかった。まさか、今回に限って代理認証機構イルラ・イミッティがうまく働いていないのでは――

「……よしよし、やっと掴ンでくれたぞ」

 第三の目がするすると元に戻り、老人が自分の左腕からホロディスプレイを引っ張り出す。スキャン結果はそこに表示されているのだが、岸山老の機械眼とは相性がよくないらしい。再び伸びてきた第三の目がピントを合わせようと何度か前後する。

「ええと……島霧しまぎりアサコさン、で間違いないンかな」

「は、はい」

「ンで、第三種の企業資産監査員?」

「そっ……う、です」

 一気に緊張が解け、カノエは思わず声をつっかえさせた。

 そう、今の自分は島霧アサコ。仕事用に彼が作ってくれた架空の女性。彼女に付随する個人情報は、職務履歴を除いてすべて彼が捏造したものだ。

「地方政府からの申し送りによると、今回の目的地は旧ハスミ生化学の……四号社宅群?」

「……はい」

「ふぅむ、旧ハスミ生化学か……」

「……なにか、ご存知ですか?」

〈首輪〉の指示通りに問い掛けるが、老人はがちゃがちゃと音を立てて首を横に振った。

「聞いたことあるような気がしなくもないンだが、はて、いつのことだったか……」

 岸山老はそのまま首を真後ろまで回し、コンテナの開封を見守っていた同僚二人――山田王醍院おーでぃん河南かわなみQ次きゅうじを手招きする。

「おう、あンたら! ちょっとこっち来とくれ!」

 彼らもやはり機械化老人だが、その改造度合いはバラバラだ。山田老は鳥類を思わせる逆関節脚と超高速度対応のビジュアライズ・バイザーが特徴で、河南老には背中にマウントされた二対の副腕とその制御用の補助脳が目を引く。

 三人に共通しているのは、生身のまま取り残されている左薬指と、フィーターズの通称通り百八十三センチ六フィートに揃えられた身長だ。元の体型に関わらず無理やり嵌め込まれているおかげで、複数人が集まると手足のバランスの歪さが際立つ。比較的まともな岸山老に対し、山田老は下半身だけで身長の七割を占め、河南老はその逆だ。

「おう、おうおうおう、め、めめめ珍しいお客さんが、おおるじゃないかぁ」

 約百メートルをわずか四秒で走り抜けてきた山田老が、上体だけを前後左右に動かしてカノエとレイモンドを観察する。

「つ、つ、つつ継ぎ目が全然ないのぅ。いっ、いいい一体どんなスキンを使っとるんじゃあぁ?」

「バカ! そんなこと聞くヤツがAるか!」

 遅れてやって来た河南老が、合計六本の腕を振り回しながら叫ぶ。

「OまえはなAんも通達を見とらんのか!? 地方政府から派遣されたO役人様に何たる口の聞き方!」

「わっしゃ、ネ、ネネネネッコの話をしとるんじゃあぁ!」

「それからOまえも! こっちのIDも見せにゃならんぞ!」

 河南老の矛先が突然向けられ、岸山老は文字通りに小さく飛び上がった。

「いかンいかン、うっかりしておったな。何しろこンなところに普通のヒトが来るなンて、ええと…なン年ぶりだ?」

「さ、さささあぁ」

「知らん!」

「とにかく、わしらみたいな老人か、さもなくばお代官さましか電車は使わンよ」

 岸山老が左手の薬指を差し出し、残りの二人もそれに倣う。

 生身になっているのは第二関節から先の部分だ。メタボロームゲルで満たされた生命維持筒によって保護され、皺だらけの指の腹には五ミリメートル四方のチップが浮かび上がっている。千差万別な改造が施された老人たちの、数少ない共通点がこれだ。

 カノエはレイモンドを脇に抱え、ベルトポーチから取り出したハンディスキャナーを指先のチップに近づける。

「……岸山寿来さん……山田王醍院さん……それから、河南Q次さん」

「や、ややっぱっぱ、最近の早いのぅ」

 目の焦点をスマートグラスから山田翁に切り替え、カノエは曖昧に微笑んで褒め言葉に応えた。

「ところで岸山、Oれたちを呼んだのは何でだ?」

「おっと、そうだった。このお嬢さンは第三種の企業資産監査員で、今日は旧ハスミ生化学の、ええと……」

「よっ、よっ、四号社宅群か」

「そう、それだ。ンで、お前さンたちもなンか知ってるンじゃないかって思ってな」

「Iや、知らんな! Oれの派遣元は〈共同アルテリ〉だからなOさらだ!」

「ハッ、ハハハスミミは〈財団ファンド〉の系列に吸収、さ、されれたけど、もっともとは違うぅ」

 岸山老は自分の後頭部をガリガリと掻き、カノエに向き直った。

「すまンね。お嬢さンの生まれる前は、そりゃあもう吸収やら合併やらの繰り返しでね。わしらみたいな末端には全然把握できン」

「そりゃ、Aんたがポンコツなだけだろう、岸山!」

「そ、そそそそう。こっ、この前の宿直だだってすっかり、わ、わわ忘れておっただろぅ?」

「ン? この前っていつの話なンだ?」

「ああ、こっ、こここれは重症だなぁ」

「Uむ、まったくだ!」

「ちょっ、ちょっと待ってくれ。『この前』という曖昧な表現で惑わせるのは止めてくれンか?」

 程なくして始まった他愛もない言い争いを前に、カノエはただその場に立ち尽くしていた。

 駐在地への挨拶は済んだので、彼らに付き合う必要はない。地方政府から与えられたのは座標だけ。目的地までは道を探しながら進まねばならない。帰りの列車へ間に合わせるためにも、つまりは一分一秒が惜しい。

 にも関わらずカノエは、どうにも立ち去り難い気持ちを感じていた。この騒々しくも無害な争いは、年上の〈妹たちレッサー・シスターズ〉に囲まれて過ごした日々のよう。具体的にどうだったのかは〈首輪〉に遮られてうまく思い出せないけれど。

 でも、あの頃は間違いなく幸せだった。右目を取り上げられて〈右目〉を与えられる前は、自分が本当は何者なのか知らずにいた。〈妹たち〉が、残酷な真実から目を逸らさせてくれていた。

 だから、この老人たちが気になってしまうのだろう。

 成り立ちや実態は違うけれども、自分たちは似た者同士だから。

「だ、だだからなぁ、おまえの動きは無駄がおっ、おおいんじゃあぁ」

「何を言Uか! せっかくの六本腕、全部使わんと勿体なIだろU!?」

「二人ともいい加減にしてくれ。そろそろ仕事に戻らンとマズいぞ」

 現在時刻〇七四七。到着してから十分が過ぎようとしている。

 抱えた脇の下からレイモンドがするりと降り立ち、カノエが訝しんだ次の瞬間、老人たちが苦悶の声を発しながら一斉に崩れ落ちた。

「おいおいおいおい、誰が寝る時間っつったか? ああ?」

 罵声を吐きながら近づいてきたのは、紺色のケピ帽を斜めに被った中年男だ。

 身長は百六十三センチで、推定体重は七十三キロ。やや太っているが、老人たちとは違って普通の人間だ。帽子と同じ色合いのミリタリージャケットを羽織り、一辺が二十センチの立方体型ドローンを左肩の上空に従えている。

「まだ仕事中だろ? さっさと起きろやこの鉄クズが」

 男はそう言って右手の小型リモコンを押し込み、立ち上がろうとしていた老人たちが再び悶絶する。

「ほーらほらほらほら、ちゃーんと起きなきゃダメでちゅよー? 仕事をサボる悪いおじいちゃんたちにはハイロー送りが待ってまちゅからねー?」

「もっ、もも申し訳ありませっ!」

「そ、それだけは、ハイローだけはどうか……!」

「だったらちゃっちゃと起きろやクソジジイが」

 男が再びリモコンを押し、悲鳴を上げながら一斉に倒れ伏す老人たち。「てめぇらが無能だったおかげで〈再起動リ・ブート〉後に生まれた俺が余計な苦労してんだろうが。ええ?」

「……そんな事言われても、困るぞ!」

「大体、わしらは一介の労働者だった。何の影響力もなかったンじゃ」

「ああ? それ、本気で言ってんのか? 長いものに巻かれ続けた人生なら、流行りのハイロー処理に志願するのが当然の流れじゃねぇの? 健康を、蝕む、ナノマシンは、放射線で、死んじ、まうし、せっかくの、フルメタルな、身体、なんだから、適材、適所、だろう?」

 自らの口調に合わせ、リズミカルにリモコンを押していく男。その都度ごとに老人たちへ電気ショックが送られるが、彼らは立ち上がるのを止めようとしない。皆、それほどまでにハイロー送りを恐れているのだ。

「もっとも、俺サマは慈悲深い人間だから三人まとめて送るなんて外道な真似はしねぇ。だから三人でガチで争って、負けたヤツがハイロー送りな?」

「…………」

 老人たちが狼狽えながらお互いの顔を見る。「あ、争うって……」

「ま、腕か足を一本もぎ取るぐらいだな。くれぐれもてめぇらの身体が貸与品ってこと忘れんなよ?」

 男はリモコンと入れ替わりに伸縮式のスタンロッドを取り出し、真横に勢いよく振り払った。

「よーし。んじゃ、試合開始だ」

 躊躇いがちに立ち上がった老人たちが、おずおずと腕を曲げ伸ばししてパンチの真似事をし始める。

 なんともいたたまれない空気だった。レイモンドにお願いすればこの状況は簡単に打破できるが、それはあくまで非常手段だ。起こした現象と『島霧アサコ』とを関連付けられれば、今後の活動に支障が出るかもしれない。

 何しろこの中年男は、駐在地の管理監督官として企業から派遣されたダイレクトカントリーマネージャー、通称『代官』だ。駐在地における最高権力者であることから、目の前の彼のように悪代官として権勢を振るうケースは枚挙に暇がないという。

「おい、おまえ」

 突然、スタンロッドの先端がカノエに向けられた。

「そこでぼーっと突っ立ってる女。おまえだよ」

「…………」

 敢えて無言のまま向き直ると、代官は肩を怒らせながら一歩詰め寄る。

「おまえ、さっきから一体何なんだ? 口出してくるかと思ったら、なぁんもしねぇでただ突っ立ってるだけじゃねぇか。ああ?」

「……不愉快に思われたのなら謝罪します。わたしには、あなた方の事情に立ち入るだけの権限は持ち合わせていないので」

 最も穏健な選択肢をなぞると、代官は肩を竦めながら顔に侮蔑の色を浮かべた。

「おいおいおい、薄情な女だなぁ。非人道的な扱いだって、俺をなじるぐらいはやってもよかったんじゃないのか? んん?」

「……仮にわたしがそうしていた場合、あなたはどう対処するつもりでしたか?」

「もちろん、報告するに決まってるだろ? 地方政府の雇われの分際で、越権行為してますってな」

 代官はそう言って、スタンロッドで空を指す。

「ったく、少しは点数稼がせてくれると思ったのに期待外れもいいとこだ。ほら、もう行けよ」

「……つまり、自分の評価のためだけにこの人たちを虐げたんですね」

「んだてめぇ、文句あんのか?」

 選択肢通りに言い募った途端、代官がドスを利かせた声で凄んだ。彼の連れているドローン――Q96-PSキュクロプスの表面に大きな一つ目が浮かび上がり、カノエの頭を見つめたまま周囲を素早く一周して主人の元に戻る。

「……所属はナカガミ・ブレインズ社? 聞いたこともねぇな。まあ、〈連合ユニオン〉第四レイヤーでミドルクラスなら普通に下流……あん?」

 キュクロプスが差し出したディスプレイを読んでいた代官が急に口ごもり、カノエの顔をまじまじと見つめた。

「……あんた、素のままか?」

「…………」

「本当にまだ、生身のままなのか?」

 カノエは無言で代官の目を見つめ返す。

 カノエの〈右目〉には、彼がいつの間にか調べてくれた個人情報が映っている。阿島あじま理兵衛りへえ、四十二歳三ヶ月。〈共同アルテリ〉第二レイヤーのボトムクラスに位置するガイダルテック社に所属。身体置換箇所は心臓、肝臓、そして生殖器系だ。

「……もういい。さっさと行け」

 代官はすっかり鼻白んだ顔で、追い払う振りをする。

「では、失礼します」

 これ幸いとばかりにレイモンドを呼ぶカノエだったが、唐突に代官が待ったを掛けた。

「おい、そのネコは何だ。本物か?」

「……そうですが」

「まさか、そいつも一緒に行くのか? 企業廃墟なんぞに?」

「……はい」

「悪いことは言わねぇ。そいつはここに置いていけ。戻ってくるまで俺が面倒見てやる」

 代官の意図が読めず、カノエは思わず口ごもった。親切心か、嫌がらせか、それ以外の感情か。〈首輪〉も判断を保留している。

「……せ、せっかくの申し出ですがお断りします。彼はわたしの、相棒なので」

 とりあえず〈首輪〉の選択肢の中から選ぶが、代官は納得しない。

「おまえバカか? 本気でネコの手を借りようってのか? それがネコの形をした別物っていうんならまだわかるが、企業廃墟は遊離したナノマシンで汚染されてる。小動物には結構な毒だ。まあ、あんたが身体にメス入れる羽目になってもザマアとしか思わねぇけどな?」

 代官はそう言い放つと、スタンロッドを大きく振りかぶる。

「とにかく、そいつはここに置いてけ!」

 間合いは二・四メートル。〈首輪〉の導き出した予想攻撃範囲が脅威レベルによってグラデーション化され、〈右目〉にオーバーレイ表示されている。ハードウェアの特質上、視界の左半分には何も表示されないが、特に意思決定をしなければ〈首輪〉がスキンスーツを動かしてカノエを導く。どちらにせよ、避けるのは簡単だ。

 しかしカノエが反応した対象は、足元から聞こえたレイモンドの鳴き声だった。

《このヤロウへの攻撃はぼくに任せて欲しい》

《いいけど》

《心配はいらないよ、カノエ。既知のバグをちょっと突くだけだから、ぼくたちとの関連を疑われる危険性はない》

《わかった》

《意図はどうあれ、ヤロウはぼくときみとの分断を図った。とても許し難い行為だ》

 鎮痛タブのおかげで、軽くめまいを覚える程度で済んだ。

 たたらを踏んで身体をぐらつかせたカノエに対し、一方の代官は深刻な状況に陥っていた。

「あ、ぐっ……あぁぁぁ!?」

 今まさに振り下ろそうとしていたスタンロッドを取り落とし、自らの股間を押さえながらくたくたと崩れ落ちる代官。その顔色は蒼白で、額には脂汗がにじみ出ている。

「なっ、何でこんな、あぁっ!? い、痛いわけがねぇ……そうだ、こんなの絶対、おかし、いっ……おかしいに、決まってるヴっ!」

「あ、ああああの、だっ、大丈夫ぅ?」

「どこか、痛むンですかい?」

 老人たちが遠巻きに気づかうが、代官は拾い上げたスタンロッドを投げつけて追い払う。

「クソっ、クソっ、このクソがっ! な、何で俺だけが、こんな、どうして、ミクロ以下のゴミカスなんかに、この、クソみてぇなナノ病禍ハザードめ!」

 彼がどんな攻撃をしたのか、カノエにはすぐわかった。すり寄る彼を拾い上げてそそくさとその場を離れると、勝手にプラットフォームへ降りていた電動二輪(エリー)に跨る。

「こんなの、この痛みはっ……まっ、間違いだっ! 絶対に、こんなあ゛っ……どうして、とっくに腐り落ちたはずのっ、俺のタマがこんなに、痛むんだよぉっ!?」

 カノエは電動二輪の身体を二度ノックし、ひっそりと発進させた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る