06:46




 ばるばるばるばる、ばるばるばるばる。

 遠くから聞こえてくるのはジャイアントローターの羽音。目を閉じたままでもわかる。

〈首輪〉に付属しているセンサー類が周辺情報を捉え、照合した結果を〈右目〉に映し出しているからだ。距離は約十五キロ。推定速度時速百二十キロ。

 どうやらあの〈会話〉の後、激痛でのたうち回っているうちに疲れて眠ってしまったらしい。

 現在時刻は〇六四七。到着予定の〇七三八までまだ五十分近くもある。目覚めるにはまだ早いかもしれないが、硬い床の上で一眠りしたせいかバイタルサインに一部イエローが灯っている。局所的な血行障害及び末梢神経系の過剰反応。首や腰が少し痛い。

 コンディションを整える手間を考えると、今すぐ起きたほうがよさそうだ。

 カノエは意を決して両目を開け、ゆっくりと上体を起こす。うんと伸びをしながら首を巡らせ、彼の姿を探す。

 懸念していた〈右目〉の情報量も、今は適正レベルだ。現在時刻、方角、気温、光量などの基礎的な項目が視界の右半分に配されている。

「……レイ?」

 返事はないが、〈右目〉がすぐに見つけた。床の上に転がっている白い箱――小動物運搬用のマイクロコンテナの開いた側面から、揃えた前足が出ている。

 そこに意識を向けると、より詳細な情報がポップアップした。体表から推定される体温は三八・三℃。心拍数毎分百十九回、脈拍数毎分百四十二回、呼吸数毎分二十三回。健康状態は文句なしのグリーンだ。

 なおも見つめていると灰色をした彼の手がぐんと拡大表示され、体毛の色や密度をリアルタイムで解析し始めていく。カノエは慌てて瞬きをし、強制的に打ち切らせた。

 この〈右目〉は、基本的には高性能な義眼だ。相対距離、色相、反射率、透過率、表面温度、照度、移動速度、加速度など、その視界に捉えたあらゆる事象を観測する。

 そして、〈右目〉が得た観測結果を解析し、分別し、貯蔵するのは〈首輪〉の役目だ。それは、カノエの意思とは関係なく自動で行われ、カノエが求めればいつでも呼び出すことができる。視覚情報であれば〈右目〉に投影され、それ以外の知識は脳内に直接もたらされる。素肌を伝送路として行われる非端子型の思考支援だ。それは〈右目〉とは関係なく日常的に機能し、カノエの経験不足を補っている。言うなれば、非実体非顕在型の『ささやき女将』だ。

 しかしこれらは、〈右目〉と〈首輪〉の本来の役目ではない。

 鎮痛タブレットを含もうと思い立つカノエだったが、ふと動きを止めた。いつもポケットに入れているタブレットのディスペンサーがない――いや、座っていたバケットシートの隙間だ。昨晩、眠る前に握っていたディスペンサーが手から落ち、挟まっている。

 カノエは〈右目〉に映る矢印とハイライト表示に導かれ、直径一センチ、長さ七センチの銀色の円筒を拾い上げる。〈首輪〉曰く、残りは四枚。手のひらに押し出したタブレットを口に入れるとミントの味が広がり、鎮痛効果が発揮されるまでのカウントダウンが〈右目〉で始まる。とは言ってもたった五秒に過ぎず、それが終われば今度は推定有効期限のカウントダウンだ。体調に左右されるが、平均して十分程度。これが過ぎてから〈会話〉をすると、さっきのような激痛に見舞われる羽目になる。

 かちかち、という小さな音に振り返ると、マイクロコンテナからレイモンドが這い出てきたところだった。

「おはよう、レイ」

 カノエの挨拶にあくびを返すと、伸ばした爪で床材を引っ掻きながら前後に大きく伸び。その最中、おもむろにカノエの目を見た。

《調子はまずまずのようだね。ぼくとしてもひとまず安心だ、と言いたいけれど、きみとの会話ログがひとつ飛んでいるみたいだ》

《どういうこと》

《それが、ぼくにも詳細がわからないんだ。こんなケースは初めてだし、その一方で実害らしいものは見当たらない。無視してもよさそうだとは思うけれどね》

《じゃあ》

《この件についてはひとまず保留だ。でも、ぼくとしてはオーバーホールを推奨するよ。一度、ベンサレムに帰ったらどうかな》

《それは》

《きみの懸念はぼくも理解しているつもりだ。ベンサレムに戻りたくない気持ちもね。だけど、今朝のような誤動作がまた起こらないとも限らないよ。今回は速やかに対処できたけれど、ぼくが必ず傍にいるわけではないし、ハードウェアの問題となればなおさらぼくの手に負えない》

《でも》

《あるいは、メンテナンス要員を派遣してもらうという手もある。到着までまだ時間もあるし、今のうちに話をつけておいてもいいんじゃないかな》

 彼との〈会話〉が終わると、カノエは眉間を押さえてその場にうずくまった。目のくらむような頭痛。思わず閉じた瞼の裏がちかちかする。鎮痛タブの効果中でも、彼とのやり取りに伴うフィードバック痛は完全には防くことはできないのだ。

 一方のレイモンドは特に気遣う素振りもなく、頭をこすりつけながらカノエの足元をぐるぐると回る。

「……うん、わかった。朝ごはんの時間だよね」

 十秒もすると、フィードバック痛は消えてなくなる。抜けが早いのは鎮痛タブレットのおかげだ。

 カノエはレイモンドを抱いて立ち上がり、貨物室に向かう。

 隔壁のスライドドアはロックされているが、カノエが手を触れる直前、ひとりでに開いた。

 貨物室は二十メートル級の車体の大部分を占めていて、奥行きは十四メートル。壁際には高さ二メートル、幅五十センチメートルの自走式コンテナが隙間なく並び、最も手前の空間には大型の二輪車がワイヤーで床に固定されている。

 セルフメイドの車軸可変型電動式二輪『エリマキトカゲ』、通称エリー。本来はバジリスクと名付けられるはずだったが、左右に大きく張り出したレッグシールドからの連想でエリマキトカゲと呼ばれるようになり、さらにはエリーとなった。

 車体の七十二パーセントが高可塑性ナノマシンマテリアルで構成され、長距離移動を前提としたツアラータイプ。リアフェンダーの上部と左右に大型トランクボックスがそれぞれ取り付けられている。

 カノエが電動二輪エリーに近づくと、起動した車載AIがインジケーターパネルを点灯させる。

『おはようございます、マスター』

 女性の合成音声にうなずいて返すと、車体から伸びたマニピュレーターアームが左側のトランクを足元に下ろす。

『トランクの返却は出発三分前までにお願いします、マスター』

 車載AIは〈首輪〉が作成し、マスター/スレーブの関係にある。対話型インタフェースを採っているのは、〈首輪〉のバッテリー切れなど不測の事態に対する備えだ。

 トランクの中には灰色の雑嚢が五つ。生の左目では区別できないが、〈右目〉を向ければ一目瞭然。〈首輪〉の記録に基づいて『レイモンドの食事セット』と『カノエの身の回りセット』が強調表示される。

「なーぅ、まーうぅ」

「わかったからもう少し我慢して」

 雑嚢をピックアップして急いで客室に戻ると、腕の中から飛び降りたレイモンドが足にじゃれついてくる。

「じゃあ、今朝はターキー味で」

 パウチ包装を雑嚢から取り出すと、レイモンドの興奮は早くも最高潮に達した。ステンレスの皿にウェットフードを絞り出す間も延々と鳴き続け、床に置くとようやく静かになる。

「…………」

 カノエはバケットシートに腰掛け、レイモンドが夢中で食べる様をぼんやり眺めた。

 目を合わせなければ、彼は表に出てこない。今は本当にただのネコだ。訓練通りの動きはできるが、人語を理解するまでには至らないレベルの。

 彼は――レイモンドは、後天的かつ人為的に知性を向上させたコンパニオンアニマルだ。脳に埋め込まれたインプラントと、ウェアラブルコンピューターの〈胴輪ハーネス〉によって、賢さを与えられている。

 しかし、彼がその知性を発揮し、人語でコミュニケーションできるのは〈会話〉の中だけに限られている。言うなれば、ネコの身体に別の人格が取り憑いているようなものだ。

 あっという間に食事を終えたレイモンドが顔を上げ、一声鳴いてカノエの注意を惹く。

《ウェットフードのおかげで、今日が仕事の日だとわかってくれたみたいだ。今朝はターキー味の気分じゃなかったらしいけれど》

《ごめん》

《それに関しては仕方ないさ。この身体にとって、ぼくは実体のない居候に過ぎないからね。ともあれ、おかわりを要求するかもしれないから適度にあしらって欲しい》

《わかった》

《それにしても、このターキー味というものが本当に七面鳥のものなのか、どうにも疑問だね。フードプリンター製だから主原料は合成タンパク質だし、スズメ味のほうがまだ理解できるよ》

《はつみみ》

《この身体がベンサレムにいた頃は、かなりの野生児だったらしい。スズメの他にも、ハトを捕食した記憶が強く焼き付いているんだ。次のフードデポで、スズメ味やハト味を作るのもいいんじゃないかな》

 カノエは頭痛に顔をしかめながら、鎮痛タブを口に入れて推定有効期限をリセットする。その間、レイモンドが物欲しげな視線を向けてくるが、目が合うと勝手に〈会話〉が始まってしまうので、とにかく今は素知らぬ顔をするしかない。

 自分用の雑嚢から常緑バーを取り出すと、レイモンドが期待の眼差しですり寄ってくる。しかし包装を破いた途端、即座に興味をなくして立ち去ってしまった。今のレイモンドは、どういうわけか常緑バーを苦手としている。彼曰く、マッチャの匂いがどうも気に食わないらしい。

 ともあれ、おかげでカノエは落ち着いて食事を摂ることができた。

 常緑バーの主成分はミドリムシと汎用カロリーペースト。栄養は豊富で、カノエの身体はこれ一本だけで一日保つ。

 ただし食感は粘土そのもので、口溶けの悪さゆえにいつまでも口の中に留まり続ける。おまけに、マッチャフレーバーとは名ばかりでただ苦いだけ。フードプリンター製の配給食のほうがいくらかマシだ。

 ばるばるばるばる、ばるばるばるばる。

 飛行音はさらに音量を上げ、確実にこちらへ近づいてきている。

〈首輪〉の解析によれば、ジャイアントローターは高度三百メートル付近を時速百二十一キロメートルで東南東に向けて飛行中。対してこの列車は、時速六十二キロメートルで南に走っている。あと二分二十四秒後には進路が交錯するらしい。

 カノエは近くにある覗き窓から外に目を向けてみる。

 現在時刻は〇六四七。最初の目覚めから一時間近くが過ぎ、世界はすっかり明るさを増していた。

 まずカノエの目に飛び込んできたのは緑色の海原うなばら――もとい、くず原だった。異常繁殖したクズの葉が、見渡す限りに地上を覆っている。侵食から逃れられているのは線路沿いのレーザー防御柵と、最も近い地点で二・九キロメートル奥にある山並みだけだ。

〈右目〉隅に表示されたマップには地形のみが表示され、道路や地名の類はない。最新データを参照しているはずだが、今の地方政府管理区パブリックはこの程度の情報管理もできない。気を利かせた〈首輪〉が自らのストレージから〈再起動リ・ブート〉以前の古地図を引っ張り出し、それでようやく、この一帯に街が存在していたとわかった。

 線路と並行するように走っている主要地方道。軒を連ねるロードサイド店舗。その後背に設けられた住宅地と、虫食い状に欠き取られた農地。

 二十世紀末期に成立した街並みが、一面の緑色の海に飲まれて消えている。文明の名残りは水面に現れた凹凸しかなく、高さ故に侵食から逃れている送電塔がまるで墓標のように立ち尽くしている。

 クズの海原に大きな黒い影が差し込んだのはその時だった。視線を上げると、下部に巨大な構造体を吊り下げた大型輸送ドローンジャイアントローターの姿が〈右目〉に入る。

 ジャイアントローターはビッグDエンタープライズ社のクラス30。吊り荷はズィニート・エネル社、汎用発電プラントユニットKDC-20010。予定進路には山並みが立ちはだかり、それを越えていくためか少しずつ高度を上げている。

 進路を目で追ったカノエは、山並みの中腹あたりに何かを――官民境界杭ツェペシュを見つけた。地表から三十メートル露出し、十メートルごとに打たれた鉄杭は、地方政府管理区パブリック企業統治区域デメーンとを区分している。ツェペシュというあだ名は、鉄杭に仕込まれた防御装置を由来としている。

〈右目〉内のマップがズームアウトし、一キロメートル四方だった表示範囲が一気に十キロメートルまで拡大した。明度の高い地方政府管理区は線路の両側に連なるのみで、マップで見る限りまるで川のよう。その外側、官民境界杭の向こうは情報不足を示すグレーで塗り潰されている。

 だが、〈首輪〉の思考支援はそこで止まらない。百科事典エンサイクロペディアに加えて、自動的に取得・収集していた膨大な統計資料ビッグデータを元に、推理・検討を進めていく――官民境界杭の向こう側に、どのような施設があるのか。

 参照するデータは多岐に渡っている。隣接している地方政府管理区の各種インフラ稼働ログ――委託分の電気や上下水道の使用量、交通数量及び交通重量、公共港湾使用履歴、気象モニタリングポストの生データなど。商業施設の購買データや犯罪種別統計、〈再起動リ・ブート〉以前の国勢調査といったものも役に立つ。

 なぜならヒトの暮らしには、ある種の偏りが必ず現れるからだ。寒冷になればなるほど身体が大きく育つ傾向があるように。鉱山労働者の多い地域では菓子類の消費が増えるように。高層住宅群が存在する街はナノ風邪が蔓延するように。

 マップ上に半透明の街が形作られるに従って、〈首輪〉から発せられる熱は飛躍的に上昇する。仕事量と熱量の関係は不変だからだ。頸動脈が熱せられ、血液が温まり、体温が高まる。現在三七・五℃。慣れてはいるが、苦しいものは苦しい。三七・六℃。早すぎる。

 そのとき突然、〈首輪〉の作業が強制終了した。すぅっと熱が引いていき、カノエは肩で大きく息をして安堵する。言うまでもなく、彼の仕業だ。カノエの危機を察知して『見えざるネコの手』で介入してくれたのだ。

「ありがとう、レイ」

 しかしレイモンドは毛づくろいの真っ最中で、カノエを一顧だにしない。カノエはレイモンドと目が合わないように上を向き、バケットシートに深々と腰掛けた。

 彼との〈会話〉は、必要最低限に留めなくてはならない。カノエにフィードバック痛があるように、レイモンド側にも大きなデメリットが存在するからだ。

 彼の本体は、レイモンドが身に付けている〈胴輪〉のストレージ内に存在している――とされている。脳に移植されたインプラントは網膜の下にあるタペタム層を生体発振器に作り変え、カノエの〈右目〉との間で高圧縮通信を行う。

 その際にカノエの主観的時間が停止するのは、ネコの思考速度がヒトのそれを遥かに上回るからだ。

 では、どのようにして〈会話〉を成立させているのかというと、カノエの人格をトレースしたアバターを〈首輪〉が作り、それと彼との間でやり取りを行っている。つまり、視線が合って〈会話〉が成立した瞬間には通信が終わっていて、カノエの主観が彼との会話劇を追体験しているだけなのだ。

 一方でレイモンド側が犠牲にしているのは、己の寿命だ。

 レイモンドの眼球を改造しているのはインプラントから遊離したナノマシン群だが、これは無関係の周辺組織をも侵食し続けていく。侵食はインプラントへの負荷が掛かるたびに、つまりは〈会話〉のたびに加速し、やがては生命維持に支障をきたすことになる。

 インプラントを移植したネコは、設計上の寿命は約六年とされている。ただしこれは〈会話〉をしなかった場合だ。一日あたり五回の〈会話〉をしたモデルケースでは、その寿命は四年程度にまで縮む。

 今のレイモンドの身体は、生まれてから千二百四十八日――三歳と三ヶ月。レイモンドになってから四百十一日――つまり、一年と二ヶ月弱。〈会話〉の累計は七千百四十三回とモデルケースの三倍以上にも及び、レイモンドが問題なく動けるのもあと半年ぐらいだ。〈右目〉の片隅には、〈首輪〉が弾き出した健康寿命が常に表示されている。残り百七十八日と六時間四十二分。一度の〈会話〉でどれだけ縮むのかは定まっていないが、平均して二時間程度だ。正確には一時間五十六分。

 彼を長生きさせるためには〈会話〉を控えなくてはならない。

 しかしその一方で、〈会話〉をしなくては彼を長生きさせられないという現実がある。

 カノエが思わずため息をつくと、毛繕いを終えたレイモンドが不意に立ち上がる。視線を合わせないよう〈右目〉隅のレーダーでその姿を追っていると、レイモンドは一直線にカノエの元へやってきて、膝の上にのっしりと座り込む。

「さっき、ごはん食べたもんね」

 カノエの言葉に大あくびを返したレイモンドは、推定体重五キロの身体を横たえ、もう一度あくびをした。こうなってしまっては仕方がない。到着予定時刻まで五十二分。

「準備があるから、四十分だけだよ」

 レイモンドには伝わらないが、彼はちゃんと聞いている。時間が来れば、〈胴輪〉の機能を使って無理にでもレイモンドを起こすだろう。

 カノエが頭を撫でるとレイモンドは心地よさげにぐるぐると喉を鳴らし、そのうち本格的に寝入り始める。

 撫でる手を少しずつ緩めながら、カノエの目は自ずとあるものに注がれてしまう。

 サバ模様の毛を、掻き分けた中に存在している縫合跡。

 装着している〈胴輪〉の隙間から見える、地肌に増設された電極。

 去勢済みの三歳のシルバーマッカレルタビーを、レイモンドたらしめているテクノロジーの数々。

 このレイモンドは、五番目だ。彼の記憶と経験は〈胴輪〉によって引き継がれ、インプラントがある限り〈着替え〉続けることができる。

 だが、残りのインプラントは四本しかない。作られたのは九本だけ。使用中を含めた使用済みは五本。

 そして現段階では、インプラントの解析及び複製ができていない。使い切れば、依り代を失った彼は消滅よりほかなくなる。

 眠るレイモンドを見るたび、焦りの感情が胸を満たす。急がなければ。早くしなければ。永遠の眠りにつく前に、彼の寿命が尽きる前に、インプラントの秘密を――『ヒラサワ計画』の詳細を解き明かさなくては。

 そう、すべてはヒラサワ計画にある。レイモンドと名付けられた知性体も、カノエの〈右目〉も〈首輪〉も、すべてヒラサワ計画によって創り出された。

 だが、それについて判明している事柄は本当にわずか――半世紀以上前に計画立案され、遂行途中で〈再起動リ・ブート〉を迎えたということだけ。『ヒラサワ』が提唱者なのか企業名なのか地名なのか、それすらもわからない。〈再起動〉によって以前の電子記録は根こそぎ失われ、一番目のレイモンドと共に現れたスミス博士は秘密を打ち明けないまま死んだ。

 とはいえ、ヒラサワ計画がどのようなものであったのかを推測する工程は、〈首輪〉にとってそう難しいことではない。

 周辺の電子機器の制御を行うために〈胴輪〉のフレームと一体化したアンテナ。視線を合わせるだけで成立する高度なハンズフリーコミュニケーション。肉体への完全な上書きオーバーライトではなく、重ね合わせオーバーレイているだけのパーソナリティ――

 ネコ側に施した『改造』の副次効果として、ヒト側は擬似的な時間停止能力を得たが、これを活かす方向に開発は進まなかったらしい。フィードバック痛という重大な欠陥が放置されているからだ。緊急時に時間を止めて最適解を導き出せても、復帰直後に素早く動けなければ意味がない。

 そして、ネコという小さな器に多くの機能を持たせ過ぎているという問題がある。

 ネコという存在そのものを強化したいのか。それとも、軽量かつ小型であることが必須要件だったのか。

再起動リ・ブート〉以前に隆盛を極めたという火星移住計画が事実ならば、ヒラサワ計画の企画意図も自ずと浮き彫りになってくる。つまりは、ネコの宇宙飛行士化だ。実務を担わせることによる乗組員の負担の軽減、およびペイロードの大幅削減、精神衛生面での好影響など。成就した場合の恩恵は、それこそ計り知れないものがある。

 しかし、そうはならなかった。火星への移住船は飛ばなかった――らしい。衛星軌道上のデブリが急速に増大し、不慮の核爆発が連鎖して地球規模のEMPが発生し、人類社会は〈再起動リ・ブート〉を余儀なくされた――という説が今では有力だ。

 どのような経緯で何が起きたのか。正確なところはわからない。防護処置の取られていない電子記録は根こそぎ失われ、ほとんどの人が死んだ。世界は分断され、正確な日時すらも消滅し、各地方ごとにこよみが創られた。

 だが、およそ十年で暦は再統一された。人類社会はかろうじて復興を果たした。電子記録のサルベージに成功した者が台頭し、実権を握り、情報と技術を独占して企業を興し、国家の如く振る舞って社員を支配し、覇権を争って合従連衡し、〈再起動リ・ブート〉から半世紀近く経った今では三つの企業勢力に統合されている。

 食品のチェーンストアから発展し、物流網を広く支配する〈連合ユニオン〉。

 傷痍軍人の生活協同組合を前身とし、兵器開発で他を先行する〈共同アルテリ〉。

 情報の保管業務から勢力を拡大し、かつての企業遺跡を多く保有する〈財団ファンド〉。

 俗に言うこの『三巨頭』が世界を支配しているが、もちろんこれが全てではない。国家が解体された一方、地方政府という形で行政機関は残り続け、為政者の支配を望まない無政府主義者アナーキスト自由意志主義者リバタリアンも根強く存在している。

 ――でも、やがては私たちになる。

 右目を差し出す前、〈大姉グレート・シスター〉は自分にそう言った。

 ――あなたたちが順調に育てば、必ず。

 ――そして世界中の人々を、〈あなたたち〉が救うのよ。

 その言葉に異論はない。自分たちは、そのために生み出されたのだから。

 だけど、彼はどうなるのだろう。人間ではない彼は〈大姉〉の言う『みんな』の中には入らないし、入れることもできないのだ。彼に味わわせてしまった苦痛に対して、いつか報いなければならないのに。

 スミス博士が連れてきた一番最初を除き、今までの彼はことごとく事故死している。

 二代目は、警備ドローンから放たれた対人レーザーに貫かれて死んだ。七百八十三日前のことだ。

 三代目は、官民境界杭ツェペシュの侵入防止機能に串刺しにされて死んだ。四百九十八日前のことだ。

 四代目は、対鳥獣用選択性ウイルスに感染し、カノエが安楽死させた。二百十四日前のことだ。

 どの死も防げていたはずだった。忘れられるはずがない。〈右目〉がその一部始終を捉え、〈首輪〉がそのすべてを記している。忘れさせてはくれない。

 現に今、〈右目〉の片隅に浮かぶ小さな窓の中では、絶命する前後十秒間が繰り返し流れている。走って逃げる最中、いきなり倒れ伏す茶トラレッドタビー。横合いから飛び出てきたスパイクで、真っ二つになるサビ猫トーティシェル。身じろぎひとつせず、静かに息を引き取る黒猫ブラック

「やめて」

 呻くように声を出すと、レイモンドのヒゲがぴくりと動いて〈右目〉の動画が消えた。

「……ごめんね、レイ」

 ベンサレムを後にしてからの約三年で、レイモンドは三度の〈着替え〉をした。浪費させてしまった健康寿命は、推定で十四年にも及んでいる。

 ヒラサワ計画の謎を解き明かし、インプラントを複製し、彼を永遠に生かし続ける。そのために、外の世界へ連れ出したのに。

 心拍数と血圧が安全域を逸脱――〈右目〉内にイエローサインが現れ、カノエはふと我に返る。〈首輪〉のおかげで思考は深化する傾向にあるが、その内容は問わないので時として苦痛ばかりが増幅されてしまう。

 レイモンドからは寝息が聞こえ、安堵を覚えたカノエは両目を閉じる。

 けれども生身の左目には、彼の死が残像となって焼き付いたままだった。

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