05:54




 暗闇の中で右の眼窩が震えている。右の瞼だけがびくびくと痙攣している。

 文字通りに叩き起こされ、わたしの意識が眠りから覚めた。

 右側のこめかみにビリビリと電流が走る。眉間の皺がどんどん寄っていく。

 ちゃんと瞼を開けないと、この不快感はなくなってくれない。これは確か、そういう機能だったはず。

 でも、まだまだ眠くて仕方ない。こととん、こととん、という規則的な振動と音が心地いいし、バケットシートの曲線に身体を預け、ずっとまどろんでいたい。

 その一方で、右目の振動はどんどん激しさを増していく。ごりごりと鈍い音が頭蓋骨の内側に響いて、さすがにもう耐えられない。

 わたしは目の上に手のひらをかざし、ゆっくりと瞼を開けていく。そして、照明のまぶしさに抗いながら視線を動かす。

 今いるのは、走っている鉄道車両の中だ。車体の壁際に沿ってバケットシートが三人分並び、同じものが対面にもある。各座席の前には天井から謎のケーブルがぶら下がっていて、座っているのはわたしひとりだけだ。

 さらにその隣には片開きのスライドドア。客室のスペースはここで終わっている。窓は、バケットシートの合間に小さなものが二つだけ。壁も骨組みが剥き出しで、まるで貨物列車に乗せられているかのよう。

 もしかすると、わたし自身が貨物という扱いなのかも。

 何となく、そんなことを考えてしまう。

 眠りから覚めたばかりで記憶は曖昧。それに今、見えているのは左目だけだ。瞼は開いているのに、視界の右半分はなぜかブラックアウトしている。

 これは一体、何なのだろう。

 向かい側の壁に視線を向けると、小さな窓の中にコバルトブルーからスカイブルーへのグラデーションが映っている。多分、夜明けの少し前ぐらいの空だ。ということは、さっきの右目の振動は目覚ましだったのかもしれない。

 もしもそうなら、どうやってセットしたのだろうか。少し気になって右目に手を近づけると、いきなり視界が開けた。

「う……っ」

 軽い頭痛を覚えたわたしは、うめき声を出しながら身じろぎする。

 ブラックアウトから立ち直った視界には、たくさんの数字や文字が溢れていた。時刻や気温などのすぐに理解できるものから、何かの暗号めいた意味不明のものまで。変動し続けるそれらを見ているうち、次第に気分が悪くなってきた。

 ひとまず目を閉じると、右の瞼の裏側にバイタルデータが投影された。体温は三六・八℃。心拍数、六五。血圧は一二七/七九――総合判定は平常グリーンと出ているけれども、身体が少し熱い気がする。特に首のあたりが。

 わたしは目を閉じたまま、自分の首元を探る。すると指先に、ほんのりと温かな物体を感じた。

 とても分厚いチョーカーだ。革っぽい材質の上に正方形の金属板と鋲が等間隔で貼りつき、それら全体が熱を帯びている。暑苦しさを感じるのは多分これが原因だ。

 わたしはチョーカーを外そうとしたけれど、方法がまったくわからない。金具の類はおろか継ぎ目すらなく、こんなものをどうやって首に嵌めたのだろう。

 すぐに諦めたわたしは、再び両目を開けて周囲の観察に戻る。できれば左目だけにしたかったけれど、この右目はあまり言うことを聞いてくれない。できるだけ文字や数字を見ないよう、慎重に視線を動かしていく。

 すると、隣のバケットシートに箱が置いてあるのが見えた。

 大きさはひと抱えほど。幅五十センチ、奥行三十センチ、高さ三十センチの面取り加工された直方体。表面積の九四・六パーセントは反射率二三・九パーセントの標準色オフホワイトで覆われていて、側面に設けられた八センチの換気ファンは現在毎分三千六百回転で作動中。上面には十五センチ×十センチの標準色カーボンブラックのパネルが嵌り、反射率八四・八パーセントの表面には、今は何も映っていない。

「…………」

 見覚えはある。この箱には多分、彼が入っている。

 わたしは彼を起こそうと思って、ひとまずパネルに触れた。

 けれど、何も起こらない。十九・五℃の表面温度に変化はなく、パネルは音も光も発しない。

「……レイ? レイモンド?」

 略称と本名の両方呼んでみる。起きているのなら自分から出てきてくれるはず。

 でも、やっぱり反応はない。困ったときはいつも彼に頼っているので、こういうときにはとても困ってしまう。記憶が曖昧なのも、右目の情報が鬱陶しいのも、彼にお願いすれば即座に解決してくれる。

 こうなったら、床に落とした衝撃で起こすしかないのかも。

 意を決したわたしは、箱を持ち上げようと腰を浮かせる。

 その途端、目が合った。彼じゃなくて、パネルに反射したわたし自身とだ。

「…………」

 不審げに少し眉をひそめている女の子の顔。どこかで見た覚えがあると言われる平凡な面立ち。黒いショートカットは顎先を目安に乱雑に切り揃えられ、チョーカーと干渉しないようになっている。

 チョーカーの見た目は指で触れた通りだ。視界の右半分によれば、標準色トゥルーブラックの本体はアマルガムレザー製。幅三センチ、厚み五ミリ。ナノマシンマテリアル製の飾り鋲が三センチ間隔で、二センチ角の外付けバッテリーが四センチ間隔で取り付けられ、この威圧的な外見はチョーカーというより首輪だ。

「首輪……」

 そう、これは〈首輪〉だ。

 頭の中で自分に言い聞かせると、霧が晴れていくようにじわりじわりと記憶が蘇る。この〈首輪〉が、何物なのかについて。

 これはわたしの家庭教師だ。

 これはわたしの身分証明証だ。

 これはわたしの翻訳機だ。

 知恵を与え、社会的身分を与え、彼との仲立ちをしてくれる半世紀前の遺物アーティファクト。これに繋がれて初めて、わたしは外を歩くことができる。

 だから、このいましめからは決して逃げられない。窮屈で、息が詰まって、苦しくなっても、我慢しないといけない。今はまだ冷たいけれど、機能が展開して負荷が増えると〈首輪〉はどんどん熱くなって、頸動脈もどんどん熱くなる。熱くなった血は全身を隈なく駆け巡って、脳の奥まで入り込んで、わたしを頭の内側から焼いていく。

 熱い、熱い、熱い熱い熱い苦しい苦しい苦しい。意識が沸騰する。目の前が炎に巻かれる。心が燃えて尽きる。逃げたい逃げたい逃げたい逃げられない逃げられない逃げられない。ずっとずっと繋がれたままこのまま苦しみ続ける。熱い熱い熱い熱くてわたしがどんどん形をなくしていく。パネルに写るわたしの顔が、無数に浮かび出る文字や数字に掻き消されていく。

「レイ、起きて! お願い! このままじゃわた――」

 目をつぶって遮ろうとしたけれど、右の瞼は閉じてくれない。半分だけになった視界にはステータスパネル対角七インチ画面比十六:九ユルフェ製NWDL-U-RPUZにはたちまち文字がプラスチック風汎用パネル材ウサンディOEM供給ケルミュートシリーズRJ-LGRJQH-VWオフホワイト擦過傷上面六十九箇所側面二百二十八箇所耐久性評価変更なし焦点対象移動秒速七・五二三センチ角度三五三・二八六距離十六.五七一センチ静止焦点対象側面に皮脂成分付着視点移動四十八・九一三センチ~四十六・一五二センチ~四十六・九七六センチ加速体焦点対象に接近接触移動角度二九七・五二二平均速度秒速五十四・七八七センチ推定飛距離七十九・一九二センチ視点対象高度マイナス四十五・〇二七センチ落下の衝撃による機能不全確認できず視点移動焦点対象との距離百三十四・六八四センチ~百四・四七八センチ~七十六・九〇五センチ平均秒速二十五・二六二センチ――五三――七八――二二――静止現焦点対象鉄道車両統一規格七一年式ナノカーボン骨材製天井躯体距離三百三十七・三二六センチ最大振幅計測七・六二七センチ最大振幅計測八・一七九センチ最大振幅計測七・三五二センチ最大振幅計測七・九八三センチ――

 突然、視界を埋め尽くす文字列が消えた。

 情報の洪水から解放されたわたしは、電車の床に仰向け寝転がっていることに気がつく。

 今の現象は何だったのだろう。こんな目に遭うのは、今回が初めてのはずだ。身体はもちろん、右目や首輪もひどく熱い。今は視界には出てこないけれど、体温や血圧はかなり高くなっているに違いない。

 わたしは寝転がったまま、体調が落ち着くのを待つことにした。そして考えた。苦しむわたしを助けてくれたのは、きっと彼の仕業しかありえないと。

「……レイ? どこにいるの?」

 すると胸元に黒い影が飛び乗ってきて、その衝撃でわたしは一瞬息が詰まった。

「もうっ。不意打ちは止めて、レイモンド」

 黒い首輪と上半身を覆うベスト状の黒い〈胴輪ハーネス〉を着けている、長毛のサバ模様のネコシルバーマッカレルタビー

 わたしの文句にも悪びれた様子はなく、彼は着ているサマーセーターの上でくるっと向きを入れ替えて目を覗き込んできた。

 金色の瞳とわたしの右目が合った刹那、電車の走行音が間延びしながら音階を下げ、可聴域からフェードアウトする。

 すっかり停滞した時間の中、代わりに聞こえてきたのはどこか小生意気な声色のボーイソプラノだ。

《かなり疲れているようだから手短に説明するよ、カノエ。右目は一度リセットして再起動プロセス中。現在、段階的に機能を開放している首輪と協調して立ち上がるように設定したから、完全に復旧するまでもう少し待って欲しい。もっとも、今回の予定地への到着は一時間四十四分五十一秒後だから全然急ぐ必要はないし、そのまま休んでいるといい》

 彼が一方的に会話を打ち切ると、周囲の音がフェードインしながら時間の流れが戻ってくる。

 何が起きたのか詳しく知りたかったけれど、わたしは――カノエは、視界の外へ去っていく後ろ姿を見ていることしかできなかった。

 彼との〈会話〉に必ず付き纏う、フィードバック痛に襲われたからだ。

「痛っ、く……うぅ……っ!」

 鎮痛タブレットを取り出すこともできず、カノエはしばらく、床の上を転げ回って苦しんだ。


「起きて、カノエ」

 彼の声がする。おかしい。目を閉じているのに聞こえるなんて。

「若干の語弊があるけど、これは夢のようなものだからね」

 彼に似た誰かの声はそううそぶくけれど、夢と呼ぶには明晰すぎる気がする。

「正確には〈首輪〉の情報処理システムの最適化作業だ。きみとレイモンドが〈会話〉をするたびに膨大なキャッシュファイルが作られ、システムを圧迫している。早い話、きみを苦しめたさっきの出来事は〈首輪〉の誤作動が原因なんだ。だからこうして、緊急メンテナンスを実施しているというわけさ」

 ウェアラブルコンピューターの一種であるからには、〈首輪〉にそのような機能が備わっていてもおかしくない。けれど、このような場面に出くわすのは初めてだ。

「定期メンテナンスは、きみの眠りが深い間にこっそりやっているからね。今のきみは寝入ったばかりで意識レベルが高いし、何しろ時間がないものからこうしてきみの助けを借りなきゃいけない」

 わたしの助け? 人間よりずっと処理速度が早いのに?

「ああ、そんなに身構えなくてもいいよ。きみはただ、ぼくとこうして話してくれるだけでいい。ログの選別をするためにもね」

 どういうこと? 理解が追いつかない。

「釈迦に説法だけど、きみがレイモンドと〈会話〉する際、その助けとなるのが自動的に生成されるキャッシュファイルだ。今までの〈会話〉の中から似たようなものを呼び出し、それを参考にすることで処理を高速化させている。だから、キャッシュを削除する際には参照頻度の高いものを残さなきゃいけないし、その順位付けをするためにもきみとの会話が必要なんだ」

 あなたは、何者なの?

「ぼくかい? ぼくはもちろん、キャッシュファイルから自動生成されたレイモンドの模倣者コピーキャットだ。つまり、普段の〈会話〉とは逆の構図というわけだね」

 レイが、わたしのアバターとやり取りをしているように?

「レイモンド側のハードウェア容量はテラバイト止まりだけど、きみが保有している領域はその一回り上のペタバイト級だ。つまり、この〈首輪〉の中に彼という存在がまるごと収納されているといっても過言じゃないね」

 でも、あなたは彼じゃない。

「わかっているとも。レイモンドはきみに対して全幅の信頼を寄せているし、異論があるにしても最終的にはきみの意志を尊重する。そういうところも含めて、ぼくは彼の完全なる複製者レプリケーターだ」

 こうして、一方的に話すところも含めて。

「きみが受け身過ぎるという点を差し引いても、うん、確かにそうだね。だけど今は、本当に急ぎの作業なんだ。これから仕事が始まってさらに〈会話〉は増えるだろうし、一刻も早くファイルサイズを圧縮しなきゃいけない。だから、もっと積極的にこのぼくと会話して欲しいね。この領域ではどれだけ長話をしても、フィードバックによるダメージはまったく発生しないんだから」

 でも、わたしが慣れる頃には終わっているでしょ?

「ところがそうはいかなくて、作業が完了するまでリアルタイム換算で三時間四十三分ほど必要だ。つまり――」

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