キャット・アイ・ゲイザー
坂島電線
XX:XX
とても濃い霧の中を歩いている。
万物の輪郭を曖昧にさせる、真っ白な闇。頭上で輝いているはずの太陽の姿は、霧に覆い尽くされて跡形もない。
だけど、わたしの前を彼が歩いているのが気配で感じられて、それで今、自分がどこにいるのかわかった。
ここはベンサレムだ。フランシス・ベーコンの著作に登場する架空の楽園。理想の学府たるソロモンの館に住む賢者たちは森羅万象を知り尽くし、その恩恵を十分に受けた島の住人たちは幸せに暮らしているという。
だけど、その名を戴いたこのプライベート・メガフロートは違う。一番上の姉――〈
だからベンサレムには、〈妹たち〉のわがままがありったけ詰め込まれた。
近海区域の航行能力。
籠の中の〈妹たち〉はできるだけ外の世界と繋がろうと考えて、それぞれに願いを叶えた。そしてわたしは――
「――ぼくの後をついて来てるみたいだけど、きみはどこに行きたい?」
こちらを振り返りもせず、彼が声を掛けてくる。
「知ってると思うけど、ぼくに行けない場所はないからね。ほら、どこでも言ってみて。ぼくが案内してあげるよ」
わたしが答えに迷っているとふわりと霧が動き、時代も様式も入り乱れになった建物たちが浮かび上がってくる。
右の山手側には、肩を寄せ合うように隙間なく立ち並んだ中層建築物。パリの街角を思わせるアール・ヌーボー様式のアパートの隣にネオン看板が張り出した香港スタイルの雑居ビルが肩を並べ、エーゲ海風の白い漆喰壁の家、ダコタ・ハウスを模した外観、三階建ての京町家と節操なく続く。左手の海側も同様だ。こちらは庭を有した邸宅ばかり連なっているが、今は霧に隠れて見えない。その代わりに、ロマネスク調の装飾を施された鉄柵や綺麗に刈り揃えられた生垣や耐火レンガを埋め込んだ土塀が延々と続いている。
遠くでカリヨンが鳴り、それを合図としたように空が茜色に染まる。いつの間にか姿を現していた観光客たちが、そそくさと帰路を急ぎ始めた。この道の先には、港がある。
「ごめん。ぼくはもう、行かなきゃ」
「……どこへ?」
「家だよ。みんな帰る時間だからね」
「ここがあなたの家じゃないの?」
「呼ばれたんだ。もう時間切れだからって」
「……わたしは、あなたと一緒にいたい」
彼が不意に立ち止まるので、つられて足を止めた。幾重にも折り重なった霧のヴェールの向こうに、小さな黒い影が佇んでいる。
「だから、わたしも連れて行って」
「本当にいいの? 昨日までは同じだったけれど、ぼくが今日帰る家は違う。お姉さんたちに怒られるよ」
わたしがうなずくと、彼は踵を返して駆け始めた。
「だったら急いで。船が出るまであまり時間がないよ」
そしてすぐに右へと曲がり、細く入り組んだ路地に入り込む。「表通りはもう動き始めるころだし、この辺だって時間の問題だ」
「何が?」
「何って、ここに住んでるきみが知らないはずないだろう?」
ごぅん、ごごん、ごうおぉん、と立て続けに地鳴りが迫り、霧に覆われた街が一瞬ブレる。と思った次の瞬間、左右に切れ間なく並んでいる建物たちが一斉に浮き上がった。
「ほら、引っ越しの時間だよ」
彼の言葉を合図としたように、それぞれの建物がゆっくりと歩き始める。比喩ではなく、逆間接型の足が建物の下部に生えているのだ。八本もの足を器用に操り、上体を揺らすことなく水平移動する様は能楽師のよう。高い場所から眺めれば、きっと面白い出し物だろう。
けれど、特別すばしっこい彼はともかく、わたしにとっては生きるか死ぬかの瀬戸際だ。この引っ越し劇は飽きられないために建物が自ら行うもので、人間のわたしはただの異物に過ぎない。
だから今は、踏み潰されないよう逃げ回るのみだ。今にも消えてしまいそうなほどにおぼろげな、彼の後ろ姿を追いながら。
「待って! 置いて行かないで!」
パステルカラーのネオンサインに縁取られたトロピカル・デコがすぐ隣をかすめ、鉄筋コンクリートの洋風建築に和風の瓦屋根を組み合わせた帝冠様式が前を塞ぐ。背後にそびえ立つのはバウハウス様式の白いアパート。
目が回る。視線が泳ぐ。心が惑わされる。
気がつくとわたしは四方八方を隙間なく取り囲まれ、完全に行く手を阻まれてしまった。
「ねぇ、どこにいるの!?」
「ぼくひとりならどうとでもなるけど、きみが一緒だとちょっと難しいんだ」
彼の声に首を巡らせるけれど、その姿はどこにも見当たらない。周囲は建物の影を含んで灰色となり、額を寄せ合うかのように前傾を続ける建物たちが四角い空を狭めていく。
わたしは失敗した。しくじってしまった。連れ戻され、叱られて、それまで与えられていたわずかばかりの自由もきっと奪われてしまう。そしてそのまま飼い殺しにされ、大姉さまに何もかもを奪い尽くされてしまう。わたしだけじゃなく、彼の命も。
「じゃあ、あなただけでも逃げて!」
「……どこへ?」
「早くこの島を出て! じゃないと――」
すると彼が、あははっと声を上げて笑う。
それでわたしは、気がついた。気がつかされてしまった。これが、現実の出来事じゃないということに。
「わかってくれたかい?」
濃い霧が左右へ真っ二つに晴れ、見知らぬ少年がその中から姿を現す。
「だってぼくたちは、直に言葉を交わせないんだから」
少年は口を閉ざしたまま、彼の声で言った。
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