第18話 ウニとイクラのクリームソース

お母さんが再婚して、新しいお父さんとお兄さんのいる家に引っ越してきた。ちょうど私が小学校に入学する春で、大人たちが「ちょうどいいね」と言っていたのは、今思えば時期的なことだったのだとわかる。私の本当のお父さんは、私がまだ赤ちゃんの時に病気で亡くなってしまったのだと聞いた。物心ついたときには祖父と祖母、母との4人暮らしで、それについてはなんの不満もなく、きっととても可愛がられて育ったのだと思う。


引っ越してくる前から、時々一緒に動物園に行ったり、キャンプに行ったり、お父さんともお兄さんとも楽しく過ごしていた。だから、『今日からは一緒に住むんだよ』

と言われた時も、『今日からパパだよ、お兄ちゃんだよ』と言われた時も、そんなもんなのかと思ったし、あまり違和感も感じていなかった。だから、新しいお父さんにもきっととても可愛がられていたし、一つ年上のお兄さんにも、それなりに可愛がられていたと思う。


だから、新しい街にも安心していた。


「お前、この家に引っ越してきたのか。」


隣の家に住んでる男の子だった。お兄さんと同じ歳らしく、時々一緒に遊んでいるのを見かけていたから、余計に安心していたんだと思う。


「うん、そう。私、より、仲良くしてね。」


「オレ恭二、仲良くしたかったら言うこと聞けよ。」


小学校に入ったばかりの私は、「男の子って乱暴だなぁ」くらいにしか思っていなかった。その後、ずっと恭二に付き纏われて、私が仲良くなった子はみんな嫌がらせされて、中学に入ったら刃物を持ち出すようになった。


「お前が『仲良くしてね』って言ったんだろ。俺は約束守ってるだけだよ。」


「私はみんなと仲良くしたいんだよ。」


「そんな勝手、許されるわけないだろ。」


「だって、そんなこと言うの恭くんだけだよ。」


「なんで?みんなと一緒なら、それは仲良いって言わない。」


中学生の私は、彼の屁理屈に太刀打ちできなかった。それでも、彼のお母さんが体調悪くてずっと寝込んでたの知ってたし、言うことやることクセが強くて友達作るのも難しそうだってわかってたから、変な正義感が彼といることを良しとした。学校の行き帰りが一緒なぐらい、なんてことないかとタカを括っていた。


一つ年上の彼は、一足先に高校へ進学した。成績良いのに、わざとお兄さんに合わせたっぽかった。お兄さんと仲良くしながら、いろんなことを吹き込んで、私の行動を制限させるように動いていた。彼は頭脳の使い道を間違っていた。そこまでしても、「特別」になりたかったようだった。のほほんと過ごしている私に、彼の苦悩とそこから脱出するために私を頼っていることなど、理解できなかった。


部屋の窓ガラスにコツンと小石が当たる。


「出てこいよ。」


彼が下から叫ぶ。


「もう夜だから、出ていけないよ。」


そう答えて窓を閉める。


すると翌朝には野良猫の死骸が玄関前に横たえられている。


そんなことがしばらく続いていた。


流石に私も怖くなって、家から出られなくなった。


彼は、頭が良かった。お父さんとお母さんには礼儀正しかったし、何より両親は、「小さい頃から知っている恭くん」というくくりで安心していた。私が何か言っても、「まさか恭君がねぇ。考えすぎじゃないの?」というやりとりの繰り返しだった。お母さんとしては、後からこの家に入ってきた身の上で、ご近所へも、とても気を遣っていたのだと思う。お父さんに至っては、恭二のお父さんも知っている仲なので、舌足らずな私の説明ではその恐怖をわかってもらうことができなかった。思春期特有の何某かで片付けられた。打つ手がなくなった私は、家に閉じこもるしかなく、本当は一人で部屋にいることも怖かったけど、中学生になってお母さんと一緒にいたいとは言いづらく、布団をかぶって毎日をやり過ごした。


そのうち彼は、野良猫ではなく自分の体を使うようになった。薬を飲んでは救急車で運ばれ、手首を切っては救急車で運ばれた。私が持つ罪悪感で、彼に縛りつけようとした。その方法はある意味功を奏した。


誰とも仲良くなんてならない。


私にそう思わせることに、彼は成功したのだ。


そのうち彼は、病院から出て来られなくなるほど心が大変になった。だから、物理的な恐怖はない。もう彼に会うことはないのだ。だけど、ふとした時に頭の中に響く「お前が『仲良くしてね』って言ったんだろ」という言葉。それを思い出すたび手も足も出なくなる。


私があんなこと言わなかったら、恭くんはあんなに大変にならなかったのかな。


私が、恭くんのいうこと全部聞いていれば、丸くおさまったのかな。


私が、恭くんに声をかけずにツンツンしていれば、誰か優しい人に出会って幸せになれたのかな。


どうしても、そんなふうに考えてしまう。


久しぶりに帰ってきた実家は、電車で2時間半。そんなに遠くないにも関わらず、ここでの思い出が辛くてついつい足が向かなくなっていた。それでも今日来ようと思ったのは、このままではいけないと思ったから。怖がってばかりの私は、誰かに何かをしてあげることができない。


母親というのは、面白い人種だと思う。お盆休みでもないのに帰ってくるなんて、なんかあったの?とか、仕事はどう?とか、そろそろ良い話はないの?とか、矢継ぎ早に質問を繰り出しておきながら、こちらの話はほとんど聞かず、自分が話したいことを立て続けに話しているという。そして、日曜日だったけど、今日はゴルフに行かなかったらしい父が、縁側の揺り椅子に座ってテレビの囲碁を見ながら、少し振り向き


「今日はゆっくりしていけるのか?」


と聞いてくる。


「明日普通に出勤だから、夕ご飯食べたらすぐ帰る。」


と答えて、これまた珍しく家にいるお兄さんに声をかける。


「職場まで時間かかるのに、よく通ってるよねぇ。」


「洗濯とかご飯とか、自分でやらずに済むなら始発電車に乗るくらい、なんてことないよ。」


「ははは、お兄さんは立派な仕事人間だね。」


「褒めてる?」


「はいはい、褒めてます。」


お兄さんに誘われて、地元では有名なチェーン店『濱蔵パスタ』にランチを食べにいく。ご馳走してくれるってことなので、勇気がないと頼めない一番高いやつ、ウニとイクラのクリームソースを頼む。ウニの苦味と甘味をクリームが包んで、それはそれは至福の味である。


「お兄さん、あの時は本当にありがとう。」


「なんだ? 急に。」


「言うのは急にかもしれないけどさ、いつも思ってるんだよ。」


「そうか?」


「うん、お兄さんがお父さんに話してくれなかったら、高校から遠くへ行って寮生活なんて、許してもらえなかったと思う。」


「俺も不思議なんだよな。あんだけやばい状況になってるのに、なんで誰も慌ててないんだろうって。」


「人って、信じたいものを信じるんだなって、よくわかった。」


「何度も言うけど、お前はこれっぽっちも悪くないんだからな。」


「うん、頭ではわかってるつもりなんだけどね。まだ少し時間かかるかな。」


「ま、のんびりやれば良いと思うよ。母さんはああいう感じだけど、きっとよりが幸せなら、どんな風でもいいと思ってるし。お父さんはもっと、マイペースでいいと思ってる人だから。」


お母さんは大好きだし、いつも感謝してる。愛してくれていること、気にかけてくれていること。でも、それだけじゃなかった。


お母さん、二人目のお父さんとお兄さんまで作ってくれて、ありがとう。ただそこに信頼できる身内が存在する。それがどれくらい安心できることなのか、突然実感した。


安心。


ああ、私、木苺に会いたい。



「お父さんに、今度またゆっくり来るって言っといて。」


お兄さんをレジに置き去りにして、足早に駅に向かった。


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