第16話 ペンネ・ゴルゴンゾーラ

忙しかった。今日は、忙しかった。

昨日午後から早退してしまったせいもあるが、書類というやつは、最初からやるより修正の方が時間がかかる場合が多々ある。それも大量だと、すごいことになる。


一晩寝たら、さっぱりした。私は意外と睡眠で復活できるタイプだ。昨日の木苺との会話に対して、もう10年くらい前のことのように、心の距離が取れている。


冷静に考えたら、びっくりするようなことを言われたわけではない。ただ、うちでご飯を食べる理由を、長身美人から逃げるためにやむを得ず、から、ご飯食べるの楽しいから一緒に食べる、に変更したいと言われただけで、そのほかに何を要求されたわけでもない。だから、私も、「そうだね、一緒にご飯食べるの楽しいよね〜」と、軽く受ければいいだけの話だった。軽く受ければいいだけの……


でも、本当にそれだけ?木苺は、もっと私に何か要求してるんじゃないの?


考えれば色々おかしい。そう、最初からおかしかった。

見ず知らずの人を、女ひとりが住んでいる家にあげる、そこからおかしかった。もし追いかけられていると言っても、交番に駆け込むのが一番適した逃げ込み場所だったのに。実際駅の近くに交番あるのに。


「ああ、そうか。」


多分、私が、助けたかったんだ。

私が、木苺に、『ありがとう』を言ってもらえる立場になりたかったんだ。

不思議だ。あの時、木苺のことなんかほとんど知らなかったのに。


あの時は、長身美人から逃げるのに必死で、いろいろ考える余裕なんかなかった。ただ、なんとかしたいし、なんとかしてあげたかった。だけど、逃げ回ることさえある意味楽しくて。


ルナ・クレシェンテ、本日のランチはゴルゴンゾーラ。アオカビチーズをたっぷり使った濃厚なソースでペンネを和えている。カビ系は得意じゃないと思っていたけど、これはなぜか大好き。だけどやっぱりクリーム系は飽きてくる。


ワイン、飲みたいな。木苺と。


最近、食事どきは必ず木苺の顔が浮かぶようになった。これは重症で、末期だ。わかっている。でも、その人のことを考えて、自分一人幸せになることくらいは、許されて然るべきなんじゃないだろうか。それとも、私が幸せにしてもらってるんだから、木苺使用料を、本人に払わなきゃいけないんだろうか。一緒にご飯を食べるという名の使用料を、人として払うべきなんだろうか。


木苺は、長身美人のことを、なんとかすると言っていた。だから、人助けという意味で彼に会う理由はもうない。そう、木苺と会う大義名分がなくなった私は、これで終了を宣言したらいい。木苺のこれから先の人生に責任を持てないなら、理由のない関係は混乱のもとだ。作らない方がいい。曖昧にしたままだと、これから木苺が出会うだろう人や、イベント、その他諸々の可能性を奪う。木苺に何をあげられるわけでもない私が、実りある選択肢を潰すのは嫌だ。


木苺、幸せになってほしい。


心の底からそう思った。不思議だった。世界中の人に、彼を困らせないでほしいとお願いしたかった。たかだか二週間前に知り合った、何度かご飯を一緒に食べただけの相手に何を思うのか。自分でも笑っちゃうのだが、彼の笑顔を思い出すと、それだけで幸せになれる人間がここにいる。


みんな、木苺を大事にしてよ。


誰に言うでもないが、ペンネを口に運びながらそう思っていた。





土曜日、凛花の結婚おめでとうパーティーには、盛況だった。27歳女子と33歳男子が50人一同に会せば、盛り上がらないわけがない。


「最高の婚活パーティーよね。」


「確かに。しかも、友人の旦那の友人っていう、紹介っぽい関係性が安心安全をプラスして信用度高まるという……」


受付を終えた由美香と合流し、壁際から会場全体を見回す。華やかなスーツやワンピースに身を包んだ女性陣はみんな綺麗だ。中でも、由美香は素敵だと思う。長めの髪をスッキリとアップにし、知的で上品な彼女の長所を存分に表現している。紺色のワンピースは総レースで、遠目で見れば控えめなのだが、近づくとその華やかさに驚く。ああ、その辺の男子は近寄り難いだろうな。むしろ、何も考えていないお調子者とか、だらしなさすぎて由美香が面倒見ちゃうとか、そういう人じゃないと恐れ多くて近寄れないかも。


「由美香って、何年彼氏いないの?」


「んー、かれこれ7、8年。って、あんたにだけは言われたくないけど。」


「だよね。」


「しかも、より。今日も絶妙にダサいわよ。そのエメラルドグリーンのワンピース、むしろどうやったら見つけて来れんの。」


「お褒めいただきありがとう。ビンテージなのだよ、これは。」


母が若い頃来ていたというワンピースは、重宝だ。昭和のアイドルを思わせるシルエットに、フリルが程よくついている。これを来ていると、あまり男性が近寄って来ないので助かっている。5歳くらいの時に、お姫様になりたいからちょうだいと言ってもらった服だが、そのまま私のパーティースタイルになった。


写真撮ってくるね〜と走っていく由美香と別れ、美味しそうな料理が並ぶテーブルの前に移動する。あと1時間半、ここに陣取って食事を楽しむことにする。あまりの品数の多さに、お皿を持ってウロウロしている男性がいたので、『ローストビーフや鶏の煮込みがあっちにありますよ』とボリュームありそうなメニューを指さして男性に話しかけた。


「ありがとう。」


「いえいえ。」


「お義兄さん……」


「はい?」


「い、いえ、なんでも……」


違う違う。人違い。お義兄さんがここにいるはずがない。


お義兄さんは悪くない。むしろ私の心配をしてくれて、あの家からなんとか出そうと頑張ってくれた人だ。悪いのはあいつで、毅然とした態度を取れなかった私なのだから。


急いで化粧室に向かう。体勢を立て直さなければ、新婦に挨拶をする顔を作れない。とにかく落ち着かなければ。廊下にあったベンチに倒れ込むようにして座り、肘掛けにもたれかかる。ぎゅっと目を閉じて深呼吸する。1、2、3……。数を数えながら息を吐き出す。大丈夫。今私は一人だから大丈夫。


大丈夫。一人だから。誰にも迷惑をかけてない。


大丈夫。一人だから。誰も私に何かを強要することはない。


大丈夫。一人だから。


大丈夫。


『一人だから』


いつもは自分を安心させるこの言葉が、今日はなぜだか苦しくて、涙が止まらなかった。途中から嗚咽になった。自力で止めることは難しそうだった。



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