第13話 コーヒー、微糖
昨日の齊藤より、泣いてたな。
彼女のことを、ずっと考えていた。昨夜彼女の家を後にしてから、彼女の顔が頭から離れない。最初は思い出すまいと頑張っていたけど、それも疲れた。どうせ疲れるなら、彼女のことを考えて疲れた方がいい。
齊藤よりを初めて見た時、正直かわいいと思ったわけではなかった。大きな目としっかりした眉、面長の顔立ちにハーフアップにしたロングヘアは黒髪。どちらかというと、可愛くないタイプだなと思った。だから、背に腹は変えられず、彼女に木苺のムースを奢ったときは、怒り出したらどうしようかと、内心ヒヤヒヤしたものだ。しかし予想に反して、彼女は真っ赤になって恥ずかしがりながら、それでも小さな声で「ごちそうさまです。」と言ってくれた。初めて一緒に地下鉄に乗った時も、こちらの事情を察して合わせてくれた。思いやりがあるだけじゃなくて、機転が効く賢い人だった。
柏原さんに絡まれても、ちゃんと言い返す気の強さもある。やられっぱなしで負けるということはない。
そんな彼女が泣いていた。悟られないように頑張っていたので敢えて触れなかったが、キッチンから戻ってきた時、堪えきれなかった一粒が、音も立てずにすっと頬を伝った。大きな瞳が潤みっぱなしで、こちらの心臓をぎゅっと絞られてるような、そんな苦しさを感じる。できることなら、大丈夫だと安心させて、元気にしてあげたかった。彼女を前に、俺と柏原さんの話をしながらずっと考えていたのは、
『俺は、今、どうして齊藤よりを抱きしめてはいけないのだろう』
これだけだった。
派遣の人が異動しちゃうから落ち込んでいると聞いて、もしや彼女が好きな人なのか?とドギマギしてしまったが、話を聞いたら女性のようだった。純粋に仕事のことで悩んでいるようだった。いつも助けてもらっている自分だけど、仕事のことなら話くらい聞けるのに、とモヤモヤする。俺は愚痴もこぼせない、信用ならない存在なのかと考えると、さらにモヤッとする。そこで、ハタと気づく。
どんだけ仲良くなったつもりなんだか。
俺は、ヒーローに助けられている一市民。名前さえ知ってもらえてない。
それでも今までは、彼女のご好意により助けてもらっていた。申し訳ないと思ったり、お礼をしたいと思ったりする余地が残されていた。だが、昨日の提案を受け入れたら、これからはまったくビジネスライクな関係になるのだ。
『助けてくださーい。3時間一名で。』
『千円ね。毎度あり〜。』
みたいな。一市民からお得意さんになるという、それっていいことなのか? ずっとこうやって、柏原さんを巻きながら彼女の家に駆け込んで、ご飯を食べて、『じゃあ、また。』『おやすみなさい』を繰り返すのか?
いや、それはだめだ。
正直言うと、そうやって問題をうやむやにして、楽しくご飯だけ食べていたい。齊藤よりだって、俺とご飯を食べるのは純粋に楽しいって、言ってたじゃないか。
だが、俺は齊藤よりに、心配されている。事態を収集しろと言われている。彼女の家に行く限り、毎日心配されて、毎日せっつかれるだろう。こんなにはっきり線を引いておきながら、彼女は本気で俺を心配している。それくらいはわかる。優しいあの子に心配をかけ続けるのは、俺も本意ではない。
昨日は缶詰だったけど、おいしかった。有名なメーカーのミネストローネだった。量が少ないことをしきりに心配していたけど、彼女を見ていたら、胸がいっぱいで、足りないなんて思ったことはなかった。だから言われるまで気づかなかった。
そして、こんなことを言ってはなんなのだが、彼女はご飯を作るのに、時間も手間もあまりかけない。つまり、齊藤よりの夕食は、とても参考になるということだ。
「俺も、あのスープ箱買いしよ。」
すでにいろいろ影響されている。レンジで2分の冷凍生パスタは、通販で発注済みである。ちくわの美味しさも再確認した。練り物は、意外と手軽で食べ応えのある優秀な食材だった。
ずっと彼女のことを考えていたら、あっという間に定時だった。今日だって齊藤よりと楽しく晩御飯を食べたいが、いつまでもそこに逃げているわけにはいかない。日常を取り戻さなくては。
「課長、ご相談があります。少々お時間いただけませんか。」
今日はノー残業デーだから、この後は無理かもしれないなと思いながらも言ってみる。
「じゃあ湯山、総務行って、ちょっと会議室取ってこい。」
「でも、今日水曜日ですけど……」
「その顔じゃ、急いだほうがいいだろ?」
「ありがとうございます!」
俺は思いっきり頭を下げて、総務へ走る。急がないと、全員帰ってしまう。
どうにかこうにか一番小さい部屋の鍵を借りて、課長に会議室の場所を伝える。この間、仲人の件で説教されたばかりだが、きちんと事実が伝わるように、俺も頑張って話そうと思う。
会議室で待つこと10分、課長が現れた。
「待たせたな。」
課長の手には缶コーヒーが二つ。微糖を俺の前に、無糖を自分の前に置いて、正面に座る。この人、俺がいつも夕方飲むコーヒー知ってたんだ。それを見て、直感的に感じた。この人は、話せばわかる人だ。
「ほら、例の仲人の件だろ。」
「はい。」
「まずは聞こうか。」
缶コーヒーのプルタブをプシュッと抜いて、いただきますと半分ほど飲む。俺は柏原さんが受付に配属された頃からの話を、順不同で思いつくまま一気に話し切った。そして、いつも曖昧にしていたことを、今日は言い切る。
「彼女には本当に迷惑しています。どうか助けてください。」
今まで、どうしたら柏原さんを悪者にせずに丸く収められるか、そんなことばかり考えていた。だが今の俺は、齊藤よりの肩から荷物を下ろすためなら、いくらでも波風立ててやる、そう思っている。こんなに強い思いを持ったことは今までになく、それは多分遡れば、齊藤よりの涙を見てしまった、そこからだ。
帰り道、今日は齊藤よりの家には寄らないことにした。課長に話したことで、自分の中の何かに決着がついたような気がした。そうなると、後ろから柏原さんが追いかけてくるかもしれないと考えても、恐怖はない。
少し遠回りにはなるが、齊藤よりの家の前を通って帰る。彼女がここに暮らしている、そう思っただけで胸が暖かくなるのが不思議だった。
「明日のランチ、彼女と同じ時間に行こうかな。」
そう、なにも毎日彼女の家に駆け込む必要はない。連絡先は知らなくても、行きつけの店は知っている。木曜日は時間を合わせるだけで、彼女に会えるのだ。助けてもらう以外の理由で彼女に会いたい、素直にそう思った。
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