第10話 オムライス

「齊藤くん、ちょっと。」


課長に呼ばれる。


「この書類、書き方がいつもと違うけど。」


あ、時短の大橋さんにやってもらってるやつ。先週の金曜日、由香里と待ち合わせで早退したから、直すところを大橋さんに付箋で返してそのまま直接課長に出してもらったんだった。


「はい、申し訳ありません。」


「君、この部署何年いるの。」


このまま部長に出すところだったよとか、部長は外出が多いんだから、決済が必要な書類は本当に気をつけてもらわないととか、小笠原くんが7月1日付で移動の内示が出てるから君ももっと責任感持ってもらわないととか、だから新人の子が育たないんだとか、とか、とか、とか、


そこは、『この一番下の欄に担当者の名前抜けてるよ』で、よくない!?


「すみません、すぐに直します。」


もう一度頭を下げて、急いで席に戻る。


気にしない気にしない、気にしない気にしない、気にしない気にし……


「齊藤さん、ちょっと良いですか?」


小笠原さんが移動する今、唯一の心のオアシス杉山さんが、小さく手を振って書類を持ってきた。


「各部署に配布する書面、最終チェックお願いします。」


夏の社員旅行が今年は取りやめになって、部署ごとで1泊二日までのリクリエーションをやってもやらなくても良いことになったお知らせだ。社員全体へはメールで一斉に知らせるが、企画がある部署から紙ベースで返答をもらえるように、各課の長へは書面で配る。


「社員旅行って、毎年なんでうちが取りまとめんだろ。総務に移そうよ。」


とぶーたれながら目を落とせば、小さい薄ピンク色のメモに


『今日のお昼ご一緒できませんか?』


と書いてあったので、


『もちろんOK!』


とメモの下部分に書いて書類と一緒に渡す。


「これで良いので、50部印刷してきてください。」


杉山さんはお弁当派なのでいつも別々だが、彼女は私がたいてい一人でランチしてることを知っているので、お弁当を持ってない日は声をかけてくれる。小学生の男の子が二人いるという彼女は、何があっても動じない逞しい面がある。外見がほっそりしていて髪は長めのボブなので、第一印象は『うわ、神経質だったらどうしよう』だったが、話してみたら気さくだし、仕事は早いしで、本当に頼りにしてるのだ。


「行ってみたいところがあって、お連れして良いですか?」


「はい!連れてってください!。」


「カフェだから、かわいい女の子と行きたくて。」


「うわ〜、かわいいなんて、20年ぶりぐらいですよ、言われたの。」


「ああ、そうかも。齊藤さんはかわいいっていうよりきれい、って感じですもんね。きれいですね、ってなかなか言いづらいかも。」


「どうしよう〜、顔赤くなっちゃった。」


「ふふふ。お仕事中は割と厳しめの顔してるから、思ってても言ってこないでしょうね。」


「そんなに仏頂面してるつもりもありませんけど。」


「自覚がないのね。仕事中と昼休みじゃ、全然違いますよ。」


「え〜。」


杉山さんが連れて行ってくれたカフェは、開放的で、店内に入ってもテラス席のような雰囲気だった。外で食べるときは、好きだけど自分で作るのが面倒なものと決めている。デミグラソースのかかったオムライスにしたら、杉山さんが『私も。』と同じものを頼んだ。自分では、卵を半熟で仕上げられないのだと杉山さんがぺろっと舌を出し、こんなすてきなお嫁さんをもらったご主人は、幸せだろうなぁと考える。


「齊藤さん、私6月いっぱいになりました。」


「?」


「本来は年度更新なので、この時期に終わることってないんですけど、今回部署の再編があるそうで、契約終了じゃなくて、部署移動ってことになりました。」


「え?もしかして杉山さんがうちの部署からいなくなるって話してる?」


「本来は、こういう話は課長が全員に話すまで言っちゃいけないんですけど、齊藤さんにはお世話になってるし、今後の仕事のこともありますから早めに伝えたいと思って。」


課長には、私が齊藤さんに言ったこと、伝えないでくださいね、と人差し指を口の前に持っていく。


いや、いやいやいやいや、ちょっと待ってよ。


「小笠原さんが係長になって、労務管理からメンタルヘルスとか職場環境整備の仕事を独立させるんだそうで、私もそちらに移動です。フロアは同じですけど部屋が変わっちゃうんで、なかなか会えなくなりますね。少し寂しいです。」


私は、寂しいで終わらないけど。


辛く苦しいとか、そっちの方ですけど。


ってか、どうして川上りなを連れて行ってくれなかったんだ。大橋さんでもいい。本当に杉山さん以外だったら移動させてほしい人ばっかりなんだけど。むしろ杉山さん以外全員移動してくれたら私のストレスチェックの数値は即安全ラインに入れるんだけど!!


「杉山さ〜ん、私これからどうしたら良いですか〜!」


大丈夫大丈夫、齊藤さんできる人だからなんの心配もいらないですよ、ふふふ、って、ふふふって、毎日あの状況見ててなんでふふふって!!


「まだ1ヶ月いるので、またランチ誘っちゃいますね。」


「ええ、もう、誘っちゃってくださいよ。私の憤懣やるかたない思いを、ぶつけさせていただきますから。」


真っ暗だ。なんかもう浮上する努力もしんどい。


午後はなんとなく流れと惰性で仕事した。電話をとっても無心にメモを取って、対処するのは明日にした。伝言も口頭で伝えるのはやめた。全部メールで伝言した。穴を開けて閉じるファイリングとか、差し替えとか、必死で単純作業を探す。今日、本格的に何かに手をつけたら、きっとミスをする。静かに静かに仕事をし、17時00分、「お先に失礼します」と呟いて更衣室に駆け込む。小笠原さんに電話しようかとも考えたが、その元気も出なかった。とぼとぼ地下鉄に乗り、コンビニでちくわと白ワインを買う。


部屋のチャイムが鳴ってる。家に着くなりソファに倒れ込んでうとうとしていたらしい。時計を見ると夜の7時半を回ったところだ。荷物かな、なんかネットで買ったっけ? そう思いながらドアの魚眼レンズを覗くと、昨日の今日にもかかわらず、木苺が息を切らして立っていた。

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