第4話 簡単カルボナーラ

私は今、この見ず知らずの男のために、なぜかスパゲティを茹でている。正確には見ず知らずではない。先週の木曜日に木苺のムースをご馳走してもらった、多分0.3秒ぐらい顔を見合わせて会釈をした、0.3秒の仲である。


「好き嫌い、ありますか?」


「あ、ないです。でも、強いて言うなら椎茸が少々苦手です。でも、大丈夫です。食べられます。」


独身の女性が、0.3秒の相手を一人暮らしの自宅に招いていいのだろうか、良いわけがない。招く方も招かれる方も非常識だ。はっきり言ってけしからん。だけど、この事態を招いたのは結局私だ。誰のせいでもないのである。だから、所在なげにソワソワしているこの人にも、少しでも居心地良くこの時間を過ごしてほしいと思ってしまう。一言で言えば、お人好しなのだそうだ。よく言われる。


今日は日曜日だけど、先輩とお昼ご飯を一緒に食べることにしていたので、会社の近くまで出ていた。そこにルナ・クレシェンテから出てくる二人連れのうちの一人が先日の木苺のムースの人だと気づいて思わず会釈をしてからが一悶着だったのだ。


「湯山さん、そちらの方が、例の方ですか?」


二人連れに近づいた長身の美人が、私の顔を見ながら木苺の人に話しかけた。


「いや、違うよ。」


即答で否定したことを、長身美人が怪しいと思ったらしい。しかし、例の方ってなんだ。


「いえ、そんなことでもなければあんなことを私におっしゃるはずがありません。」


長身美人のセリフはそんなとかあんなとかの指示語ばかりで具体的な内容がさっぱりないため、本当になんの話をしているのかわからなかったのだが、一つだけはっきりしていることがある。私は、巻き込まれている。


「どんな条件を出されたのですか。湯山さんの障害になることなら、いくらでも私が取り除きますのに。」


想像の域を出ないのだが、この流れは、私が木苺を脅して自分のものにしようとしている。だから振られるはずのない長身美人が振られることになったのだ、ということのようだ。木苺も、一緒にいる木苺友人もほとほと困っているようだ。でもよく考えたら私は全然関係ないのだから、何も考えずに歩き出せばいいんだと思い直して歩き出した途端、木苺友人に呼び止められた。


「あなたが気を遣う必要はないんですよ。」


え〜?


「柏原さん、そろそろタカヤを解放してあげてください。あなたの勘違いもそこまでくるとどうかと思いますよ。」


そして木苺は、ずっと困った顔をして、何も言えずにいる。


「タカヤ、ほら。」


と、木苺友人は木苺の背中を押し、事もあろうに私と並ばせた。さらに、さらに事もあろうに木苺は木苺友人に感謝の眼差しを向け、私の手を取り地下鉄の駅に向かって歩き出した。柏原さんと呼ばれていた長身美人は、どうやら木苺友人が引き止めているようだ。ここでジタバタしたらきっとこの人は困るに違いないと思って、とりあえず地下鉄の駅まで黙って連れていかれることにした。これは、多分改札口まで行って、ごめんごめん協力ありがとうなんて言われて、別れるパターンだ。


案の定、階段を降りて切符売り場まで来たとき、木苺のムースは口を開いた。


「ごめんね、びっくりしたでしょう?ちょっと苦手な人からどう逃げたらいいかわからなくて、悪ノリしたみたいになっちゃったけど、とにかく助かりました。ありがとう。」


ほんとに特徴のない普通の顔で、ただただ爽やかな木苺のムースが、物腰柔らかに笑顔で謝る。こういう隙のない人は警戒したくなっちゃうんだけど、それでもここで別れちゃう赤の他人なので、こちらも愛想良く返答する。


「お役にたてて良かったです。それじゃあ。」


手を繋いでここまで来たせいか、手に触る事に関して全く抵抗がなくなっていた。だから、どちらからともなく握手をして、次の瞬間には「じゃあ。」という空気が出来上がっていた。なのにこれまた後ろからさっき聞いた声が追いかけてきた。


「湯山さん、もっと、私にわかるように説明してください!『事情があるから』だけでは分かりません!困っているならその事情を私が取り除きますと、言っているではありませんか‼︎」


木苺のムースは、本当に本当に困っていたのだろう。無言で切符を2枚買い、私の手を引いて改札を抜けた。引くに引けなくなった木苺のムースは、苦い顔をもう隠す事なく、黙っている。そしてそのまま地下鉄に乗り込んで、どこに行くでもなく、ドアの側の手すりに捕まったまま、真っ暗な窓の外をじっと見ている。


普段愛想のいい人が不機嫌になると、ちょっと怖いな。


なんてことを思いながら、黙って地下鉄に揺られていた。でも、この人が女性に好かれるのはわかる。愛想がいいし、ギラギラしてないし、爽やかだし。特徴がありすぎる美形よりも、押し付けがましくない普通の顔の方が、受けがいいのかもしれない。そして何よりこの人、


声が、良い。


木苺事変のときには(すでに今日であのことが事件から事変に格上げ、)会釈だけの間柄だったから、普通の顔という認識で終わったけれど、今日は地下鉄の改札前で声を聞いてしまった。思ったより低めの、少し艶のあるハスキーボイスなのである。これは、面と向かって何か優しい言葉をかけられたら、ちょっと参ってしまうかも。


次で、自分が降りる駅だ。せっかく切符を買ってもらったけど、自分には定期券がある。


「失礼します。」


と頭を下げてホームに降り立つと、木苺も一緒に降りてきた。


「奇遇だね、僕もここなんだ、降りる駅。」


奇遇ですね〜、どっち口ですか〜?なんて軽口叩いてみようと思ったら、恐ろしいことに、またあの声が聞こえてきた。


「湯山さんっ、待ってくださいっ!」


なんで?この人どうしてここまでするの?嫌がられてること、普通ここまでされればわかるじゃん!わかっててわからないふりしてんのかな。木苺への同情通り越して、頭に来た。お嬢様っぽいから、今まで思い通りにならないことなかったのかなっ、ほんとに!!


「なんの権利があって彼に付きまとうのか知りませんが、あなたに彼を幸せにできるとは思えません!!」


今度は私が彼の手を引いて、自分のアパートの中に引っ張り込んでしまった。自分がこんな目に遭ってたら、誰かに助けてほしいと絶対思う。困ってる人は助けてあげたい。これが人情ってやつですよね。だから、これはきっと人として当然のことであって不可抗力ですよね!


「なんかやることありますか?」


居た堪れなさ120%のご様子で、木苺がウロウロしている。


「このボールに卵と牛乳と粉チーズ、入れてください。」


茹で上がって玉ねぎとベーコンと一緒に炒めたスパゲティを、熱々のうちにボールに投入して素早く混ぜる。卵が半熟になったところでお皿に持って黒胡椒をたっぷりかける。


「簡単なものですけど、どうぞ。」ワインを出したいところだが、0.3秒の仲でお酒を出すのはちょっと、と思いとどまった。私たちは天変地異に遭遇して、避難所に逃げ込んで、炊き出しを共同でやった二人、きっとそれが正しい形容なのだ。アルコールを飲んでいる場合ではない。


「え、これ、すごく美味しいです。」


「恐縮です。」


照れる。しかし、やっぱり褒められると嬉しい。普段人に作ってあげることなんてない私としては、新鮮でちょっぴり楽しい経験だ。


「食べたら帰ります。」


「はい。」


木苺が腰をあげる前に、食後のコーヒーを淹れよう。決して引き止めているわけではない。食べ終わって飲み終わったら帰ったらいい。ただ、クリームっぽい味の後は何かさっぱりできるものが飲みたいだろうと思ってるだけだ。そう、それだけだ、本当に。


「おかわりありますよ。」


「あ、ありがとうございます。」


そうして2時間後、木苺を送り出した。考えたら、名前も知らない。木苺だって私の名前を知らない。お互い聞きもしない。特に何を話したわけでもない。たまたま人助けをしただけの話だ。電車の中で席を譲ったようなものだ。そう、最後に残った一つの商品を譲ってあげたとか、そういうようなことだ。


その夜は、そんなことをぐるぐるぐるぐる考えながら、日付が変わる頃ようやく寝付いた。

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