第2話
ナイトクラブ『IF』の扉を開け、なかへと入っていく。営業が始まれば騒音轟く箱のなかもいまは静かだ。家に帰り二時間ほど寝たら頭痛はだいぶ治まった。音楽もない職場で準備を進めていれば、営業開始ごろには完全に復活できるだろう。
地下にあるスタッフルームでバーテン服に着替えていると、狛江拓磨が入ってきた。
「おっ、佳祐じゃん。おっつー」
「おう」
やたらテンションが高い挨拶に、流し目を向けて答える。狛江はイヤホンを片耳から垂らしながらレッドブルを飲んでいた。背負ったリュックをロッカーへ入れると、ロボットダンスのような奇妙な動きで俺のそばへとやってきた。
「なあ、おい。モテ男くん。昨日きてたぜ、お前の客が」
「はぁ? 俺の客?」
ニヤニヤとした笑みを顔に張り付けて俺の肩を小突いてくる。
「どこで捕まえたんだよあんな可愛い子。背ぇちっちゃいし、ちょっと怯えて震えてるし、あんな純粋そうな子に手ぇ出したらダメだって」
あれは絶対遊び慣れてなかったよ、と一人納得して満足そうに何度も頷いている。
「誰だよ、名前とかいってなかったか?」
「いってた! えーと、たしか……なななちゃん? そう、なななちゃんだ!」
「はぁ? なななちゃん? 余計に誰だよ」
本当にそんな名前なら、名付け親の正気を疑うレベルだ。
「ひでぇ奴だなお前、なななちゃんお前に会いにきたっていってたんだぜ? まあ、今日もくるっていってたから、顔みたらさすがに思い出すだろ」
「なななちゃん、ねぇ……」
記憶のどこを探しても、そんな奴のことは覚えていなかった。だが心当たりがないわけではない。おそらく一夜限りの関係を勘違いしたメンヘラ女の一人だろう。顔は何人か出てくるが、名前は誰一人として一文字も思い出せなかった。
着替え終わった俺はシフト表で当てられたフロアを確認する。今夜は一階のメインフロアの欄に「喜多見」と、俺の名前が書いてあった。同じ欄に狛江の名前もある。土曜日のメインフロア……どんなに仕事が早い奴でも確実に忙殺されるポジションだ。他のメンバーは狛江と、谷山……誰だこいつ? 知らない名前がそこにあった。
先にいってる、と狛江に声をかけ、スタッフルームをあとにする。ため息を漏らしながら階段を上がっているうちに、なななちゃんとかいう奴のことなどもう忘れていた。
メインフロアでは今夜招待されているDJやそのスタッフたちが機材確認を進めている。ゴツいセキュリティの外国人と軽く挨拶を交わす。ホールの清掃をおこなう姿は、身体がデカイぶん滑稽にみえる。
時折聞こえるウーハーの音に顔をしかめながら、俺はバーへと入り在庫のチェックや補充を始めた。『IF』は、4つのステージからなる大型ナイトクラブだ。地下を含め5階層ある建物には、ピーク時に1000人を越える客で溢れかえる。バーにはドリンクを求める客が列をなし、一人のバーテンダーが一時間に300杯以上もドリンクを作らなければならない。樽やボトルが空くペースも、そこらのバーとは雲泥の差だ。
業者から届けられた樽やボトルを狛江が運んできた。隣で一緒に運んでいるのが、谷……谷なんとかだろう、何度かみかけたことはある。古いものを手前に出し、新しいものを奥から定位置に並べる。洗浄してあるサーバーのホースをペリエの樽に繋ぐ。炭酸はカクテルを作るうえで最も消費が激しいぶん樽も大きいが、途中で必ず交換をしなければならなくなる。追加分をすぐ隣に1つ、後方にある冷庫室にも3つは準備しておく必要があった。ジン、ウォッカ、テキーラ、ウイスキー、多種多様のアルコール、またはドリンクを補充し管理する。注文が入ってからボトルを探している暇など、ここにはない。
作業を進めていると、真知の姿が視界に入った。バーテン服に身を包み、長い髪は後ろで括られている。すこしつり上がり気味の瞳からは何の感情も読み取れなかった。釣り銭用の五百円玉をカウンターへと置く。
「釣り銭、ここに置いとくから」
どこまでも事務的に、視線さえ合わせない。真知と寝たことがただの夢だったのではないかと、本気で思ってしまうほどにいつもと同じ態度だった。
真知は俺が釣り銭をカウンターへとしまうのを見届けると、すぐにその場を立ち去ってしまう。今夜の担当フロアは3階だったはずだ。真知が階段を登っていく姿をみえなくなるまで目で追っていると、狛江が肩をぶつけてきた。
「おいおいお前、能面女でも狙ってんのか?」
「別に……」
真知のことを能面女とはいいえて妙だと思った。色白の肌に、いつ何時も変わらぬ無表情。そういわれると能面という例えでしか真知を表現できないような気がする。
「やめとけよ、なななちゃんの方が絶対いいって。あの女、セックスのときでさえ表情一つ変えやしないんだぜ、きっと」
ギャハハと品もなく笑う狛江を尻目に「……そんなことねぇだろ」と、小さく呟いた。
「ん? なんかいったか?」
「なんでもねぇよ」
俺がシカトして作業に戻ると、興を削がれたといわんばかりに肩をすくめて、狛江も自分のポジションへと戻っていった。
22時のオープンと同時に大量の客が流れ込んでくる。DJが客を煽りながら、定番のクラブミュージックや最近流行っているJ-POPなんかを流していく。曲に合わせて色とりどりの光の線が会場を縦横無尽に飛び回る。音と光が、人と人とが入り乱れ、ホールはもはや無法地帯だ。
バーカウンターには客が詰めより、口々にオーダーを叫んでいる。金を受け取りドリンクを作る。ナイトクラブのバーテンダーは、接客というよりは流れ作業に近いものがある。手を止める隙などどこにもない。気づいたときにはボトルが空になり、補充と提供を同時進行でこなしていく。
この忙しさが俺は好きだった。無駄なことを考えずに済む。ドリンクを作り続けていれば時間はあっという間に過ぎてゆくのだ。真知はナイトクラブにそぐわないと思っていたが、俺と同じような考えをしているのならば、思いのほか向いているのかもしれない。
減ることのない客をみる。ドリンクを受け取り離れていく客がいれば、後方に一人二人と、また新たな客が溜まっていく。単純作業の繰り返し、そのなかでどれだけ効率よく客をさばけるかだけを考えて手を動かす。
そろそろ1時をまわったころか、ここからさらに客は増える。だいたい2時から3時にかけてが『IF』のピーク帯だ。大柄な男にテキーラのショットを二杯渡すと、その後ろには小柄な女が立っていた。そいつはバーカウンターに張りついて身を乗り出してくる。
「喜多見くんっ、やっと会えた!」
周りの雰囲気に怯えつつも、嬉しそうに笑顔を向けてきている。一瞬、誰だ? となったが、狛江の話を思い出して、例の女かとため息をついた。たしかに見覚えのある顔だ、1ヶ月くらい前にホテルでヤった相手だったと思う。その記憶もないのだが。
「ご注文は?」
わざわざ俺に会いにきたらしいが、そんなものは関係ない。ただの客の一人として冷静に仕事をまっとうする。
「えーと。あんまりお酒とかわかんなくて。あの、喜多見くんのおすすめが欲しいかな」
騒音に掻き消されそうな声をかろうじて聞き取り、金を受け取るとテキーラをショットで出してやった。提供さえ終われば次の客だ、オーダーを叫ぶ声は他にもいくらでもある。
千円札を差し出す隣の女に目を向けて、ファジーネーブルとモスコミュールを出してやる。次の客だと、視線を変えるとあの女がまだそこに居やがった。
「おい、なななちゃんだっけ? 他のお客さんの邪魔だ、ドリンク受け取ったらすぐ後ろに下がるんだよ」
「待ってよ! やっと会えたんだもん。全然連絡くれないし、LINEは既読もつかない。次会う約束ぐらいしてよ!」
こいつは頭がイカれてるらしい。その時点で察するという能力ぐらい身に付けて欲しいものだ。後ろの客もなかなか場所を譲らないこの女に対してイラついてきている。
「ちっ、わかった、あとで連絡するよ。だからはやく下がってくれ」
「うん、わかった! 待ってる、ずっと待ってるから!」
なにがそんなにも嬉しいのか、女はニマニマと笑ってバーカウンターから離れていった。多少のイレギュラーはあったものの、つつがなく時間は過ぎてゆく。クローズの深夜4時になるまで、俺はドリンクを作り続けた。
店が終わっても俺たちの仕事は残っている。散々荒れた店内の清掃だ。まずは空になった樽やボトルをそとへと運び出す。残った在庫を確認し、発注の数量を決める。他にもサーバーやバーシンクの洗浄などなど……。すべてが終わるころにはいつも朝の6時をまわっているころだ。
在庫の残数確認をしていると狛江が話しかけてきた。
「なななちゃん、やっぱりきてたな。俺もちょっとだけ話したんだぜ? 海老名菜々子ちゃん、略してなななちゃんだ」
へぇ、とか、ほう、とか相づちにも満たない言葉で返す。今後も関わりを持たない相手のことなど考えるだけで無駄だ。
「デートの約束したんだってな? めっちゃ喜んでたぞ、なななちゃん。ここにもまたくるっていってた!」
「へぇ、え? は!?」どう解釈したらあれがデートの約束になるんだ……曲解にもほどがあるだろう。
「ん、どうした?」額に手をあて天井を仰ぐ俺に、狛江は怪訝な表情を向けてきた。
「いや、もういいよ」
どうせ連絡を取る気もない。次ここへきたのなら、今度はジンをグラスで出してやろう。そう思って、ジンの発注を一本多めにしておいてやった。
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