第3話
真知の部屋で目覚めたその日から、怒濤の11連勤が始まった。他にやることもないフリーターの俺にとって、バイトに時間を取られることはなんの問題でもなかったが、体力的にはさすがにきついものがある。
真知は真知で、毎日のように出勤しているようだった。みかけない日などなかったし、同じフロアのバーに入って仕事をした日もある。しかし俺たちの間に会話などない、交わされるのは仕事のうえで必要な限られた言葉だけだった。
海老名菜々子も一度きたようだったが、あまり覚えていない。適当にあしらってその場を濁したのだろう。明確に拒絶してもよかったが、バイト中にその場で泣き崩れられでもしたら、それこそ面倒なことになってしまう。
久々の休日は、夕方近くまでベッドの上で過ごした。空腹に耐え兼ね、近くの牛丼屋で飯を食うと、空は夜へと移り変わろうとしている。
このまま駅前の本屋へいってしまおうと思った。そこで恋愛小説を一冊買って、近場のカフェへと入る。小説を読み終わるころには、呑み歩くにはいい時間になっていることだろう。いつもと変わらない、普段通りの休日の過ごし方だ。
だがふと思い立ち、いつもとは違う方向へと足が向いた。駅前にある大きな本屋ではなく、駅から離れた個人経営のような小さな書店に行ってみようかと思ったのだった。俺の家から離れていて、足を運んだこともなかったが、真知のマンションを出るときにみかけて気になっていたのだ。
『百年堂』古びた看板に店の名前が大きくある。店先に古本が並び「ALL100円」の文字が手書きで書かれている。
がたついた手動の引き戸を開けると、すこし埃っぽい臭いが鼻についた。夕暮れ間近の店内はすこし薄暗い。大きな本棚がところ狭しと並び、多くの本が陳列されている。
いくつかの棚をしばらく物色する。どれも古い小説ばかりで、いつも新刊ばかりが並んだ書店に通う俺にとっては物珍しくみえた。
数ある小説のなかに『はつ恋』というタイトルをみつけた。作者名はツルゲーネフ。海外作家のようだ。隣に同じ作者の作品がいくつか並んでいる。本好きの間では有名な人なのかもしれないが、俺はそんな名前など聞いたこともなかった。ページは色褪せずいぶんと古いものにみえる。日本人作家しか読んだことのない俺だったが『はつ恋』というタイトルにはなぜだか惹かれるものがある。
本棚から抜いて、手に取る。100ページちょっとの短い中編小説のようだ。表紙に描かれているのは一本の木と、周りを飛び交う数羽の小鳥だ。赤い果実の実った木をみていると、どことなく春の陽気を想像させた。見た目では恋愛小説とは思えなかったが、使い古された甘すぎるラブストーリーよりかは、この爽やかな感じがいまの俺には合っていると思った。今日はこれにしようか……。それを手に取ってしまった後に棚に並んだ小説を眺めていても、これ以上に魅力的にみえるものはなかった。
レジは店の一番奥にあるようだった。『はつ恋』を片手に向かおうとすると、店員に声をかけられる。
「あの、そろそろ閉店時間なのですが」
「すいません、これを──え?」
「あ……」
一瞬だけならば時間は停止するらしい。
抑揚のない、どこか聞き覚えのある声の主は真知だった。俺には数分にも感じられたその長い間に、真知はなにを想ったのだろうか。壁を埋め尽くすいくつもの物語のただなかに、一人の店員と、一人の客は取り残されてしまった。
「それ、買うの?」静寂のなか、真知の声は凛と響いた。
「……あ、ああ」
どうやら真知の方が先に冷静さを取り戻したようで、俺が差し出していた小説を受け取りレジの方へと歩いていく。俺はただ呆けてその後を追っていくことしかできなかった。
グレーのパーカーにジーンズ姿、化粧っ気もなく素っぴんなのだろう。そんな姿をみてしまうと、あの朝の真知をどうしても思い出してしまう。レジカウンターへと入り、真知は会計を進める。俺はそこでやっと落ち着きを取り戻し、金を払った。
「ここでもバイトしてんのかよ」
俺が話しかけてくるなんて思ってもいなかったのか、真知はレジに金をしまう手を一瞬だけ止めた。
「そう、週に3日だけ。家も近いし楽な仕事なの」
小説を紙袋に入れながら真知は続ける。
「それにしても意外だったわ、あなたがツルゲーネフを読むなんて」
「これが初めてだよ。ツルゲーネフなんて作家、聞いたこともなかった」
カウンターのなかには真知が座るためのものだろう、簡素なパイプ椅子が置いてあった。座面には文庫本が見開きのまま伏せてある。作者名まではみえなかったが、ほの暗い装丁に『闇夜を照らす月の哀しみ』とあった。
「お前は小説を読むのか?」
俺の視線に気づいたのか、真知は椅子にあった文庫本を閉じてタイトルを隠す。
「そうね、それなりに。ここの店はほとんどお客さんこないから、小説を読む以外することがないの。『はつ恋』も昔読んだことあるわ。あなたが小説に何を求めているのか知らないけれど、とても良い物語よ」
「……そうか」
きっちりと封をされた紙袋を受け取る。その紙袋は薄く軽かったが、なかに入っている小説には作者の想いが膨大に詰まっているのだと思う。
俺は真知に背を向けて、出口へと向かう。両側に並ぶ古本の壁が、俺の進むべき方向を一本道で示している。その間を通り抜け、店をあとにする。あとはそれだけのことだった。
小説に何を求めているかなんて考えたこともなかった。手に取る本が、なぜいつも恋愛小説なのかと聞かれても、明確に理由を答えるのは難しい。ただ俺自身、ああゆうのに憧れのようなものがあるのかもしれない。愛し合う男女が、隔てる壁を乗り越え、最後には結ばれる綺麗なハッピーエンドを、俺が誰よりも望んでいるのかもしれなかった。
しかし現状、俺の物語は純愛とはほど遠い。酒に酔って、知らない女を抱いて、性欲さえ満たされればその女にもう用はない。人を愛するということがどういうことなか、それを知らない俺は、小説のなかでその答えを探している。
この小説を手に取ったのだって、俺がどこかで初恋というものを、もっと簡潔にいえば恋というものを知りたいと思っているからではないだろうか。他人を愛するということを、俺は知りたがっている。
もしかするともう知っているのかもしれない。ただ俺自身が気づけていないだけで。他人との関わりを嫌う俺だが、関わり以上に想う何かをすでに持っているのかもしれなかった。
俺は店の扉に手をかけて止まった。いま一瞬だけ脳裏をよぎった考えに身体の動きを止められてしまった。冷静になれ、何を考えているんだ。そう思えば思うほどに、自分がそうしたがっているように思えてならない。
真知がいきなり目の前に現れて、まだ冷静さを欠いているのかもしれない。俺の考えとは裏腹に、身体が先行して動き出す。この空間そのものが俺を囲い、出口をわからなくさせているみたいだった。踵を返してレジへと向かう、訝しげな目を向けてくる真知に歩み寄った。
「なに?」
「なあ、もう店仕舞いなんだろ?」
「だったら、なに?」真知の鋭利な視線が俺を刺す。
「いまからお前の家にいっていいか?」
その言葉は滑らかに俺の口を離れた。
真知はすくなからず驚いているようだった。普段から表情の乏しい能面女にとってすれば、大きな変化だ。そんな珍しい真知の表情をみれたことを、どこか嬉しく思ってしまう。しかし真知以上になにより俺が一番驚いていた。いってしまった後になっても、自分の正気を疑ってしまうほどに。そこまで性欲が溜まっているというわけでもなかった。11連勤の後だ、溜まってないといえば嘘になるが。
曖昧な表情を浮かべる真知は、レジスターの鍵を掛ける。そしてさらに俺を驚かせた。
「うん、わかった……」
欲望の先に愛があるのか、愛するがゆえに身体を求めるのか。果てた後にその答えなど想像もできない。しっとりと湿った真知の身体を抱き寄せる。二人の汗が染みたシーツが、火照った肌に心地よかった。シラフでセックスをするなどいつぶりだろうか、俺の胸に顔を埋める真知をみて思う。同じ女と二度もセックスをすることじたいが、久しぶりのことだった。
「お前、働きすぎじゃないのか? 俺がいうのもおかしな話だが、クラブでお前をみかけない日がない」
「別に、休みの日があったところで、やることなんてないもの」
真知がしゃべる度に、熱い吐息が胸に広がる。
「だからって、仕事が好きってわけじゃないだろ?」
「そうね」
真知は俺から身体を離すと、ベッドから立ち上がり窓辺へといった。
「私はつまらない女なのよ、やることがないからバイトをしてる。働いている間は他のことを考えなくて済むでしょ?」
遮光カーテンの隙間から射す月明かりがまるでスポットライトのように、一糸纏わぬ真知の裸体を煌々と照らしている。
「私が生きていることに意味なんてないの。死んでしまっても構わないと思うけれど、死ぬ必要も感じないから生きているだけ。いまはね」
窓のそとにいる何者かに語りかけるようにして話す真知の後ろ姿は、そのままどこかへいってしまうのではないかと思わせる危うさがあった。
「あなたはそうじゃないの? 自分の生きる意味を理解できないでいる。違う?」
不意に視線を俺へと向けて問いかけてくる。視線を逸らすこともできないが、否定も肯定の言葉も、俺は持ち合わせていなかった。死にたいとは思わないが、生きていたいとも思わない。いつ事故だったり病気だったりして、死んでしまうことがあっても俺はそれを素直に受け入れると思う。生への渇望が他の人間よりかすくないのかもしれない。
「生きるのに意味なんているのかよ? 意味を持たずして生きてる人間なんて腐るほどいるだろ。生きる意味なんてことを考えるやつの方が希だ」
「そうね、あなたのいう通りよ。だから私はいまもこうして生きているのだもの」
無意味に、無価値に、俺は生きている。俺が消えたところで、社会の歯車は滞りなく動き続けるのだろう。だからとて消える必要もないのだから、歯車の邪魔をしないように、ただ生きていくだけだ。
真知は肌を隠す素振りもみせず俺の前へと歩み寄る。弱々しく細い首筋に、起伏した胸と滑らかなくびれが、なまめかしく俺を誘っていた。いましがた終えたばかりだというのに、想像よりも溜まっていたらしく、脈打つ欲望が俺の理性を狂わせていった。
俺は感情のまま乱暴になってしまうのも構わずに、真知の手首を掴み引き寄せる。薄い唇に重ねると、真知の方が遥かに激しく吸いついてきた。冷め始めていた身体に熱が再び戻っていく。ベッドが軋む音と、真知の漏らす声とが、俺の生への渇望を示した。
果てゆくなかで、俺は俺の生きる意味について考えていた。金持ちになりたい、綺麗な女を抱きたい、幸せになりたい、それはすべて間違ってはいなかったが、正しいというわけでもない気がした。
答えがみつかりそうだが、頭の隅の方に朧気にある何かを俺は掴めずにいる。
「……けい、すけ…………」
初めて俺の名を呼んだ真知は、突き上げる欲望に顔を歪め震えている。
「……真知、お前は……なんのために、生きているんだ……」
「わから、ないわ……ただ、いまは、生きていたいと、思えるような……未練が、あるからかも、しれないわね……」
事の終わりは唐突で、俺は乱れた息を整えるように、真知の隣へうつ伏せに倒れ込む。
「未練、か……」
真知のその一言は色鮮やかに俺の脳内を駆け巡る。未練、たしかに俺も真知と同じだ。俺がいまなお生へと繋ぎ止められているのは、彼女という未練を持ち続けているからなのだと思った。
俺の生きる意味、真知が訊いた質問の解として、彼女に対しての未練というのは、俺の心にストンと落ちてもやもやを晴らしてくれる正しい答えのように思えた。真知の上下する胸、その横顔を視界に収めて、ゆっくりとまぶたを閉じる。心地のよい疲労に身を委ねているうちに、いつの間にか深い眠りへと落ちていく。
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