そして彼女は月夜に笑う

小玉 幸一

第1話

 俺の前から彼女は消えた。

 俺と彼女は似た者同士だった。孤独を愛し、馴れ合いを嫌った。そのくせどこかで温もりを求めていた。

 人を愛するということがどういうことなのか、いまの俺にはよくわからない。

 この行き場のない感情を愛と呼ぶのなら、俺は彼女を愛していたのだろう。

 俺の前から彼女は消えた。

 彼女が消えた理由を、俺はいまも考え続けている。


   ○  ○  ○  ○  ○


「くっそ、またやっちまった……」

 シャワーの音で目を覚ます。重たい身体をベッドから引き剥がして俺は頭を抱えた。それは二日酔いからくる酷い頭痛のせいでもあったし、現状を把握しきれていない自分の不甲斐なさからくるものでもあった。ここがどこなのかわからない、ホテルではないことは部屋の様子から伺えた。妙に生活感がある、他人の家で寝ていたのだろう。壁にあった時計は2時15分あたりを指している。頭が割れそうなほどの頭痛に呻きながら、昨日の夜のことを思いだそうとした。

 ナイトクラブでのバイトが休みとなると、俺の行動はおのずと決まってくる。いつも立ち寄る駅前の本屋に入り、恋愛小説を一冊買う。そのあとは近場のカフェでその小説を最後まで読みきって、一人で酒を呑みにいく。

 そうだ、適当に呑み歩いていたら女に声をかけられたんだ。酒に酔ったいかにもビッチそうな女だった。雑にあしらっていたが、そいつはしつこくまとわりついてきた。俺は苛立ちに任せてアホみたいに酒を呷った──だめだ……そこからの記憶がまるでない。ここまで酷い二日酔いは久々だ。記憶が飛んだあともかなり呑んでしまったのだろう。

 こんな状態のまま一人で家に帰れるはずもなく、目を覚ませば知らない女の部屋にいる。よくあることだ、取り乱すほどではない。こういうときは、とりあえず状況の確認が第一だ。

 まずはスマホと財布だ。ジーパンのポケットに手をやるが、そこにポケットはなかった。というかジーパンを履いていない。いまさらながらTシャツも着ていないことに気づく。かろうじてパンツは履いていたが、なかを覗くと散々だった。

「俺が寝てる間にナメクジでも這いずり回ったのかよ」

 それはそれで嫌だなと、ベッドの横に落ちていたジーパンを履いた。やっちまったし、ヤっちまったというわけだ。

 部屋に女は見当たらないが、シャワーでも浴びているのだろう。さっきまで水がタイルを打つ音が聞こえていた。床に無造作に落ちていたスマホと財布をポケットに突っ込む。Tシャツがないと探したら、シーツに同化し張りついていた。

 一夜限りの関係。相手もそのことは理解しているはずだ。俺がこの部屋から出て日常へと戻っていけば、もう二度と会うこともない。

 面倒なのは一度抱いただけで彼女顔してくるメンヘラ女。たまにいるのだ、そういう奴が。こっちはヤった記憶もないってのに、じゃあなんで私を抱いたの? とか、訳のわからないことをうだうだ、うだうだ──。

 女がいない隙に部屋を出ていこうと思った。顔を合わせなければ(そもそも記憶もないし)、昨夜のことはなかったことにできる。俺にとっても、相手にとってもそれが一番幸せだ。しかしシワだらけになったTシャツを着てもなお、動く気力も体力もなく、再びベッドに腰を下ろした。

 重たい頭を持ち上げ、部屋を見渡す。飾り気けのない部屋だった。ローテーブルの上に並んだ化粧品さえなければ、男の部屋だといわれても疑わなかっただろう。テレビに座椅子、三段重ねのカラーボックス。インテリアと呼べるものは窓際にある観葉植物ぐらいだ。

 ぼんやりとしていたら部屋のそとから物音がした。もうすぐ部屋に入ってくる初めましての女に水をもらい、しばらくしたら俺はこの部屋を出ていく。無駄話など一つもいらない。必要最低限の会話だけで、俺と女の関係は終わる。

 部屋の扉が開いた。背の高い女だ。170はあるように思う。部屋着と思われるグレーのショートパンツと、無地の白いTシャツを着ている。ほっそりとした身体に長い黒髪。「水」と、いおうとして言葉が詰まった。知らない女のはずだった。濡れた髪をバスタオルで拭きながら、無表情、というよりは、空っぽの水槽でも眺めるようにして俺を見下ろしている。

「起きたんだ」

「……あ、ああ」

 温度の感じられないその声に、俺は生返事を返すので精一杯だった。女は踵を返し、グラスに水を注ぎ持ってきてくれた。俺はそれを受け取り口をつける。冷たい水が身体に染みて、止まっていた思考を徐々に巡らせていった。

 ──町田真知。

 それが彼女の名前。同じバイト先に勤める同僚だ。他人の名前なんてろくに覚えない俺でも、その変わった名前の響きは耳に残っていた。

 不思議な女だ。俺がいうのもおかしな話だが、こいつはナイトクラブという独特な空間にそぐわない。仕事は早いが、愛想がない。みてくれがなまじ美人なぶん、何に対しても無関心なその表情が周囲に不気味だと思わせる。間違いなく俺と同じで、人間関係を嫌うタイプの人間だ。

 水を飲み干しグラスをテーブルに置く。断片的だが昨夜の記憶が思い出されてくる。

 闇に浮かび上がる細く白い身体。長く冷たい手足が俺の身体にまとわりついていた。胸元まで届きそうな黒髪が白いシーツに扇状に広がり、覚めた視線が俺をじっと見上げている。額に片手を乗せて薄く開いた口元から、熱い吐息が漏れていた。そこに感動も感心の色もない。ただ歪んだ性欲だけが真知の乏しい表情のなかにあった。

 一度思い出してしまうと、記憶は次から次へと俺の頭を駆け巡る。しばらく俺の動作を観察でもするようにみていた真知は、バスタオルを床に捨てカーテンを開けた。よく晴れた空だった。窓を開けてベランダへと出ていく。涼しげな風が、今年の夏の終わりを告げているようだった。

「なあ……」俺は立ち上がり真知に声をかけた。

 無益な会話など一つもしない。そんな俺の信条に反するとはわかっていたが、なぜか聞かずにはいられなかった。

「なんで俺とヤったんだよ」

 真知はしばらく答えなかった。どこをみているのかもわからない眼差しで、呆然とそとへと視線をやっている。俺の声が聞こえていないのかと思った。それならそれでいいと思い、部屋を出ていこうと踵を返す。その背中に囁くように声がした。

「月が、泣いていたから……」

 振り返ると真知は空を見上げていた。こちらを見向く素振りもみせない。まるで彼女のような仕草だった。

「そうかよ……」呟くようにいい「またな」と声をかけた。

 まったくわけがわからない。月が泣いていたから? だからヤった? いったいどういう意味なのだろう。そこに意味などないのかもしれないが、なにを考えているかもわからないあの女の口から発せられたその言葉には、俺にはみえていない何かがあるように思えた。

 かつて彼の夏目漱石が「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳したのは有名な話だ。しかし真知がそれになぞらえ俺を好きだというのも考えられない。真知にとって「月が泣いていた」というのは「ヤりたくなった」という訳になるのだろうか。恋愛感情など微塵もない、月がいつもとは違う表情にみえた。たったそれだけ。性欲の高まりを女は視覚的に感じとることができるのかもしれない。しかし、好きだからヤる、ではなく、ヤりたくなったからヤる、というのは俺としては好ましい考え方だった。

 生きていくうえで人間関係ほど面倒なことはない。一人で生きていけるなら、それが一番楽な生き方だ。だがそれができないのが人生ってやつで、他人との関わりを避けては通れない。だからこそ関わる人間は最低限に絞りこむ。必要になれば関わるし、不要ならすぐに切り捨てる。

 真知と俺は似ている。ヤった後の関係をすぐに切り捨てリセットできる。やたらと群れたがる馬鹿とは違う、賢い生き方だ。

 ずるずると足を動かし部屋を出て扉を閉める。女の部屋を出るときに「またな」といったのは初めてのことかもしれない。普段なら二度と会うはずのない相手、だが今回に限っていえば、バイト先で嫌でも顔を合わせることになる。

 外廊下にはいくつもの扉が並んでいた。どうやら真知はマンションに住んでるらしい。そとを見下ろせば三階ほどの高さだった。そこからはどこか見覚えのある景色が広がっていた。

「あいつ、こんなとこに住んでたのか……」

 ここからなら俺の家まで歩いて15分とかからないだろう。早く帰ってもうすこし寝よう、痛みに顔を歪めそう思った。

 真知がクラブでバイトを始めたのは俺と同じで一年ほど前だったはずだが、近所に住んでいるなんてまったく知らなかった。というか知る必要がなかった。俺は日常へと戻るべく、階段を降りていく。

 昨夜の月を見上げる、真知の姿を想像した。ベランダでぼんやりと空を見上げていたように、闇夜を染める淡い光をその朧気な瞳に写している。どこか悲しげな背中が昼夜を越えて重なった。煌めく街のネオンに溶け込み、行き交う雑踏の隙間で音もなく立ち尽くしている。まるで夜が真知に寄り添っているかのように、真知を意識しみるものは誰もいない。真知もまた、そんな人々を振り向くことはない。

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