第2話 期末試験ダイブ
うかうかしてると夏休みがやって来る、ということはそれ以前に試験がやって来ることを意味しているわけで。休みになってしまえばなんてことなかったように思われる試験も、この時期は学生なら誰の脳内にも少しずつ侵食してきているのだ。勿論自分も、隣の
「
こちらの意思も聞かずに短く告げられる。霜はぺたぺたとフローリング独特の音を鳴らし、台所へと消えて行った。
「コーラでいいか」
と思ったらやや離れた場所から声が聞こえるのもいつものことと言えばいつものことだ。と言うかさ。
「いっつものやつでお願いします」
「なんて?」
声が聞こえなかったらしい。俺がいつも飲むのなんて決まってるじゃん。何を今更。
「水がいいんだってば!」
少し声を張り上げると、ミネラルウォーター切らしてるとぶすっとした顔で彼がこちらに戻ってきた。ああそういうことなのか。てっきり霜の老化現象が始まったのかと思ってしまったよ。よかったよかった。
「ああ、そういうこと。じゃあ麦茶でいいや」
「麦茶でいいや、じゃねえよ馬鹿。麦茶お願いしますだろうが」
そう言いながらも台所に引っ込んでしまうあたりを見ると、今頃キンキンに冷えた麦茶をグラスに注いでくれていることだろう。全く、不器用な奴なのだ。数分後に再び現れた霜の手にはお盆に乗ったペットボトルのコーラと、ガラスのグラスに入った氷が数欠片と麦茶が澄まして並んでいた。それを見るなりにやりと口元が緩みそうになるのを慌てて引き締める。お盆から目を逸らしてなんとなく視線を動かすと、小さな机に所狭しと並べられた参考書、ルーズリーフ、研究論文の数々が映り込んだ。普段は何とも思わないが、こんな時だけ学生なのだなと改めて実感する。こんなこと親の前じゃ口が裂けても言えないけど。
「必修以外単位取れる気しない」
何の気もなしにそんなことを口走ってみると、俺もという何とも頼りない言葉が返って来た。ああそれはなんとなく気づいておりましたとも。
「霜はさ、出席率悪いから」
「悪いから、なんなんだ」
「単刀直入に言うと、やばいよね。色々」
「……知ってる」
だから勉強してんだろと眉間に皺を寄せて睨む教科書は見たことのない物だった。必修の授業は一年間同じクラスだ。AからCまでのクラスに分けられており成績順に上から振り分けられるため、霜とは別のクラスだった。ちなみに言語類はBなので、決して悪くないはずなのだがCの霜とも大した差が開かないのはここ最近の謎でもある。
水色の教科書を机に開き唸る彼は相当困っているようだった。ちらりと覗いてみたけれど、どうやら自分にも分かりそうもなかったので黙っていることにする。
「
ぽつりと漏らすと手探りで鞄の中を漁る。あきよし、というのは同じ言語クラスの友人らしい。と言っても去年の秋にその名前をふわっと耳にしたことしか覚えていなかったけど。そうか今年も同じクラスだったのか。
霜の指がつるつると薄い端末の画面を何度か行き来し、ぽいと放り出したと思ったらすぐにそれは震え出した。さっと画面を見た彼が舌打ちをする。おいおい、仲良いんじゃないのか。
「なに」
光る画面をつるりと一度彼の指が滑って、それを耳に当てる。
“ひでー!何って連絡してきたのそっちじゃん!”
携帯から拡散される賑やかな声がよく響いた。霜はと言うと端末を摘んで耳から十五センチ離したところでぶら下げている。
「あー、試験範囲でわかんないとこあるんだわ。つか、お前声でかい」
霜にそう言われるなり相手の賑やかな話し声と周囲の騒めきは一瞬にして個体の中に吸い込まれてしまった。会話の様子からすると、どうやら場所を移動したらしい。
「うん、うん。は? ……ああ」
秋吉君とやらは中々頭の良い人のようだ。いくつか質問する霜に、外出中であるらしい彼は淀みなく答えていると思われた。なんで霜と同じクラスなんだろう。
「ん、助かった」
全て聞き終えたのか、霜はそう言いながら教科書を数ページ見直した後さっと閉じて机の隅に積む。通話の相手とはまだ話しているようで、うん、うんといった相槌をしながら手帳に手を伸ばした。
「あー、金曜日?」
「六時半? あー……多分無理」
大方飲み会と称した合コンにでも誘われているのだろう。霜は無愛想で不器用だけど女の子に礼儀は踏まえて接するし、整った顔をしているのでそういうことは珍しくない。最近更にお誘いが増えているように思うけど、まだ一度も行ってきたという話を耳にしたことはなかった。
「は!?」
参考図書にパラパラと目を通していると、低い音が部屋中に響いた。
「ふざけんなよ暇人が!」
何事かと目を上げると、まだ通話中の霜が眉間に皺を寄せて声を張り上げているところだった。荒げる声とは反対に少々狼狽えていると見える。霜相手にここまで言わせるとは秋吉君とやらはなかなかの強者に違いない。その証拠に電話口からは愉快そうな笑い声がこちらまで届いている。込み上げる笑いを耐えていたら、鬼の形相をした彼にギロリと睨まれた。急いで参考書を盾にする。
「うざい」
その一言で彼らの会話は終了してしまったようだ。薄い高性能端末がクッションの上に投げられる。小さな弧を描いて着地したそれはピカリと電球の人工的な光を反射している。
「霜ってさ」
「なんだよ」
下らないことなら話しかけるなという暗黙のルールを読み取ったが、とんでもない。これは重大な出来事だと思う。
「スマホ、替えたんだ」
最新機種だと続けて彼を見ると、頬杖をついたまま目を見開いてひどく驚いていた。何だろう、この表情。
「お前ってさ」
次の瞬間崩れて肩を揺らす彼の意味も解らず、目の前で苦しそうに笑い続ける姿を仕方がないから眺める。なんだかよくわからないが、不機嫌さは払拭されたので良しとしておこう。それに、ここまで笑う霜を見るのはすごく久しぶりな気がしたから。
「わっかんねえな」
呟かれた独り言の意味なんて無いのだろう。再び本の世界へと身を沈める。わからないのは霜の方だなどとちらりと思ったのを最後に、今度こそ俺は文字の犇めく白い海に溺れていった。
伸びたラーメンとモラトリアム 七夕ねむり @yuki_kotatu1
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