第10話 授乳狂時代 |4-2| 牧原征爾
「新しい彼氏っていうのが年下のダンサーらしいんだけど、やっぱり身体鍛えてるだけあって夜が凄いらしいのよ。」コップについだ水を飲み干すと、妻は意味ありげに目を細めてそう言った。
「俺と違って持続力もあるんだろうなあ。」と特に興味もなくこちらは素っ気なく答えた。
「持続力もそうだけど、回復力もあるって言うんだから無敵よね。」そのように言って妻は不適な笑みをこぼした。俺は他人の夜の営みに首を突っ込みたくなるような精神状態ではなかったし、逆に妻がそのような話題を嬉々として話すことを訝しく思った。二度とセックスの話なんてしたくないと言っていた件はどうなったのだろうか?俺たち夫婦の間の性交渉は、妻が身籠ってから完全に途絶えていたし、日常のちょっとした部分に性的なニュアンスがこもったりすることすら表情を硬くしていかにも嫌そうにしていたはずだが……。
「Kと会ってきたら気が楽なったのよね、なんか思い詰めてたのがパッと晴れたみたいな感じ。」妻がこちらの沈黙をどう察したのか分からないが、言い訳がましく補足してきた。
「それは良かった。持つべきものは友とは良く言ったもんだ。」
「Kってノリがいいじゃない?一緒に昔話とかバカっぽい話をしてたら、ここのところ細かいことで悩み過ぎてたんだなって思えてきて。」彼女はそう言って、キッチンに向かった。「缶ビールなかったっけ?」という声がして、まだ飲む気なのかと呆れて返答する気にならなかった。(缶ビール自体は、最後の一本を俺がさっき飲み干してしまっていたが。)
「サイトウさん、お守してくれてるんだよね?」急に不安になったのか、こちらをまっすぐ見据えて妻が尋ねてきた。
「当たり前だろう。そうじゃなかったら、いまごろ大泣きしてるよ。」俺は思わず大きな声でそう答えた。
酒にありつけなかった妻は、口寂しさを紛らわすためにキッチンから柿の種を持って戻ってきた。小袋を開けてそれをつまんで一口食べると、ふと秘め事を思い出したようなハッとした表情をしてから、俺に顔を近づけてきて「ねえ、久しぶりにしない?」と言った。照れ隠しのつもりなのか、手のひらいっぱいに出した柿の種を一気に頬張った。バリバリと咀嚼する音と共に、彼女の口腔内から漂ってくれる煎餅の風味が、いつもと違って受け付け難い匂いに感じられる。俺は顔を背けて「いや、いいや」とだけ言って一人寝室に向かった。
寝付けない夜だった。妻が寝室に入ってきてから、もう一時間以上は経過しているだろうか、二人とも珍しく同じセミダブルベッド内に納まってはいたが、(俺の体臭を嫌うようになった妻は、ここ最近の習わしとしてベッド横の床に敷布団を配置して、そこで寝るようになっていた)、身体どうしが接触しないように距離を取ってお互いが反対側を向いていた。妻の方からは微かな寝息が聞こえてくるから、どうやら眠ってしまったらしい。
どうして、いまごろ俺と肉体的な関係を再開させようなんて気を起こしたのだろうか?久々に友人と会って飲んだ酒の酔いがそうさせたのだろうか。なんにせよ、身ごもってからの一年以上にも及ぶ期間、冷酷な態度で肉体的な接触を拒絶され続けてきた身としては、すっかりそういった気分も失せてしまっていた。逆に今度は俺から拒絶された妻が、何を考えているかは分からなかったが、これで性生活面においてちょうど釣り合いの取れた夫婦になれたのではないかと俺は考えていた。
空腹を感じて、俺はベッドから静かに抜け出すと、階下のキッチンへと向かい、先ほど妻が食べていた柿の種のことを思い出して一袋を開けた。リビングのソファーに深く座って一粒ずつそれらを摘まんで口に放っていると、ふと赤ん坊の泣き声を今夜は一度も聞いていないような気がして、急に不安になってきた。
俺はベビーベッドの置かれている寝かしつけ専用の部屋のドアの前に立つと、音をたてないように静かにドアノブをまわし、わずかに開いた隙間から中を覗き込んだ。室内はコンセントに差し込むタイプの常夜灯の柔らかい橙色の光にうっすらと照らされていた。
室内のちょうど中央に置かれた椅子に、こちらに背を向ける恰好でサイトウは腰かけていたが、足音を立てないように気を付けながら室内に入り込み彼女へ近寄ってみると、上半身は衣服をまとっておらず、赤ん坊を抱えながら授乳している最中だった。
背後から迫る
「うん、まあね。赤ん坊が気になっちゃって……。」彼女の背中に向かって答える。
「ちょうど、いま眠りが浅くなって泣き出しそうだったので、起こしておっぱいをあげているんです。」
赤ん坊が泣き始めそうだと察知したら先回りして授乳していたわけだ。どうりでサイトウが来てからほとんど夜泣きをしていないはずだった。不眠不休で動けるアンドロイドならではの仕事ぶりに感心する。
「……ところで上に着ていた服はどうしたの?」
「先ほど赤ちゃんが少しもどしてしまって……、それで濡れてしまったのです。」そのように言いながら、彼女はベビービッドの方に視線を向けた。彼女の着ていた薄ピンク色の開襟シャツが、赤ん坊の落下防止用のためにベッド周りに設置されている木製の格子柵にかけられていた。
俺は意を決して、彼女の前方に回り込んだ。赤ん坊の頭が片方の乳房を覆い隠していた。目をつむったまま口元だけを動かして母乳を吸っているらしく、腕は脱力して下に垂れていた。そして、もう片方の乳房はサイトウの腕に抱かれている赤ん坊の腹部のあたりに軽く乗っかるような状態で露わになっていた。常夜灯の光に照らされたその乳房の陰影は濃く、丸みがよりいっそう強調されているようだった。
「奥様はもう寝付かれたのですか?」サイトウはこちらを見ずにそう尋ねてきた。
「ああ、もう寝たよ、いびきかいてたからね。」
そのように答えてみてから、これといった話題もないままに二人の間にしばらくの沈黙があった。なにかをお互いが言外に確認して了解しあうような沈黙……、よこしまな気持ちとそれに伴う性的な雰囲気が醸成されていくことによる緊張感が押し寄せてきた。
アンドロイドに果たしてこんな機微が分かるのだろうかという疑問がわいたが、サイトウも淡い期待を抱いたふしだらな少女のようにしてはにかんでいる気がした。薄暗い室内にあって、彼女の表情は人間以上に人間味を帯びているように思えた。
しばらくすると、いつの間にか眠ってしまった赤ん坊を、サイトウは何食わぬ顔でベビーベッドに戻そうと立ち上がろうとした。その瞬間を狙いすましていたかのように、俺は中腰の姿勢になっているサイトウの両肩に手をかけて椅子に押し戻すと、そのまま露になっている方の乳房に吸い付いていた。自分の行為に対して思考が追い付いていないのか、現実味が薄れていく感覚がした。
赤ん坊と頭を並べる形となって、俺はサイトウの乳首に舌を這わせていた。親子の頭が並んで見えるはずのサイトウの視点からの光景について、彼女はなにを思うのだろか……、とそんなことが頭をよぎる。
「ちょっと、ご主人さ……」と言って呼気が若干乱れているサイトウに対して、いちいち芸の細かいアンドロイドだと憎々しい思いがした。
「せっかく寝てくれた赤ちゃんが起きてしまいますよ……」と声を押し殺しながらも必死に訴えるサイトウの声で俺は少し現実に引き戻された気がしたが、それだけのことだった。
「とりあえず、赤ちゃんを寝かせてあげてください。」と言ってサイトウは赤ん坊をベビーベッドへ置こうと忙しなくもがく。
情事に及ぶ前になんだかんだと条件を言ってみたり、性交渉そのものを回避するために執行猶予期間を必死に取り付けようとするやり方が、本当に人間の女っぽいなと感じつつ、俺はサイトウを逃がさないように背後から抱き着いて彼女を力強く引き寄せていた。
彼女は俺の性的な妨害をいなしつつ、なんとか赤ん坊をベッドに寝かせることに成功すると、こちらに向き直って「赤ちゃんがいるのに、本当によろしいのですか?」と最終的な確認に対するこちらの言質を取ろうとするかのような言い方をした。
いやに素直になったなと感じたが、それ以上に、はたしてこういった顧客の問題行動に関する情報は彼女の派遣元であるニューテック社に逐一報告されたりするのだろうかという不安が大きくなった。もし、それが理由でサイトウを明日以降派遣してもらえないなんてことになったら……。
そんな懸念がないわけでもなかったが、こちらが金を支払っている限り会社にとってさしたる問題にはならないのだろうと解釈することにした。アンドロイドには今でもまっとうな「権利」などないのだから。
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授乳狂時代 |4-2| 牧原征爾
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