第6話 授乳狂時代 |3-1| 牧原征爾
赤ん坊を大事そうに両手で包み込む形で抱っこしたサイトウが、赤ん坊を寝かしつけるためにこちらが用意していた専用の部屋から、悠々とした落ち着きのある歩き方で出てくると「奥様は今夜、お友達と一緒に外でお食事をされてくるとのことです。」と事も無げに告げてきたのだが、俺にとってそれは一大事だった。赤ん坊を置いて夜間に外出……?近所にちょっとした買い出しにでも行っているのではなくて?ひどい動揺で、一種の混乱状態に陥っていた。
夜間の赤ん坊の面倒は誰が見るんだ?授乳は?オムツの取り換えは?と恐怖にも似た不安が一気に頭をもたげてきたが、それを見透かしたように「大丈夫ですよ、私がしっかりとお世話をいたしますから。」と言われて我に返った。そうだった、そのために俺はサイトウを雇っているんじゃないか!
ただ、いくら彼女が夜間から朝方にかけてのお世話を代行してくれると言っても、妻が雇ったばかりのこのアンドロイドを全面的に信用して、赤ん坊を家に残して外出してしまうなんてことがはたしてあるだろうか。出かけるにせよ俺の帰宅を待ってからとか、せめて事前に連絡だけでも寄こしてくれたっていいのではないか……、いやむしろ連絡してきてしかるべきだろう。
赤ん坊の世話と寝不足続きで、ここのところひどく気が滅入っていたことを勘案しても、睡眠欲求が満たされるなり、今度はすぐに夜遊びに興じ始めるなんて、いくらなんでもやり過ぎとしか言えなかった。妻の気が知れず俺はしばらく呆然としていたが、すぐに彼女の無責任な行動に苛立ちが募っていった。
「たまたまお友達からお誘いがあったようでして……。」そのように、いつの間にか血色の悪い陰りのある表情になったサイトウが事情を説明し始めた。
「当然ながら奥様はそのお誘いを断ろうとされていたのですが、奥様にとってもせっかくの気晴らしの機械なのにもったいない、……そう思ってしまいまして。赤ちゃんは私がしっかりと面倒を見ておりますから、どうぞご安心してお出かけくださいませ、とお伝えして奥様の外出を後押ししてしまったんです。そうしたら奥様が『気を遣ってくれて、ありがとうね』と本当に柔らかさのある嬉しそうなお顔で仰って頂きまして。私も自分のことながら本当に良いことをしたなあと思ってしまって……。」そのように滔々とした語り口で説明するサイトウは、俺の憮然とした表情から妻に怒りが込み上げてきていることを読み取っていたらしい。
しかも驚いたことに、躊躇していた妻の外出するきっかけを作ったのは自分であるとわざわざ釈明して、妻のことをかばっている様子なのだ。そんな心の機微に聡い〈人間〉のような細かい芸当ができるのかと、俺はこのアンドロイドに対して改めて感心してしまった。
ただそれと妻が遊びに行ってしまったことは別の話だった。
「それにしたって、君に来てもらってからまだ二日目だろう、そんな急に遊びに行っちゃうなんて信じられないんだけどな……。」
「そうですよね、私に対する信頼みたいなものがまだ何もないはずなのに、奥様が赤ちゃんを残して一人で外出されてしまうなんて、とんでもないと思われるのも仕方ないことなのかもしれません。」そのように寂しそうに言いながら、サイトウは抱っこしている赤ん坊に目を落とした。
その刹那、なぜか俺は、このアンドロイドがそのまま脱力したように赤ん坊を腕から落としてしまう姿を想像して、ひどい恐怖心にとらわれた。
「君のことを信じてないっていう話ではないんだけどさ……。むしろあいつの気が知れないというか。君にこの感覚がわかるかな。」
「差し出がましい余計なことを奥様に言ってしまい、本当に申し訳ありませんでした。」サイトウは伏し目がちに、弱々しい声で謝罪してくるのだった。
------------------------------------------------------------------------------------------------
授乳狂時代 |3-1| 牧原征爾
読了頂きありがとうございます。
2~3日おきに連載していきたいと思います。
★・レビュー・応援・応援コメント・フォロー、大変励みになりますので宜しくお願いします。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます