第5話 授乳狂時代 |2-3| 牧原征爾

遠くに山稜さんりょうが見渡せるほど晴れやかな朝で、職場のオフィス内はまばゆい日の光に照らし出されていた。出社するなり「おう」と同僚が背後から声をかけてくる。


「例のアンドロイドの派遣サービス、もう使ってみたんだろう?どうだった?」と彼はこちらの返答を聞く前から、なにやら期待感に満ちた不敵な笑みを浮かべているのだった。「正直に言って、素晴らしいの一言だよ。昨日の夜は一回も夜泣きで起こされなかったし、めちゃくちゃ快眠だった。」


それを聞くと同僚はしぐさの大きい欧米式の歓迎を思わせる快活さでハッハッと笑ったかと思うと、間髪を入れずに顔を近づけてきて「……それで問題の奥さんの方はどうだったの?」と今度は片方の眉を軽く吊り上げながら、神妙な顔つきになって心配そうに尋ねてきた。


「ああ、嫁さんもぐっすり眠ってたよ。サービスのこと教えてくれて、きみには本当に感謝だな。」そのように答えると同僚は破顔はがんして、「これで君も、奥さんの手厳しいヒステリーみたいな症状から解放されることになるわけだ。」と言って満足気な表情を浮かべて鼻歌交じりに自分のデスクの方へと戻っていった。


同僚の大きな背中が、オフィスに入り込む日差しを浴びて白く輝いて見えた。赤ん坊の夜泣きに苦しむしがない家庭を救ってあげたという小さな喜びと自尊心が、今日という彼の一日を高揚感で満たされたものにしてくれるといった雰囲気があった。



同僚にも三歳と五歳になる子供がいて、子育ての経験年数でいえば俺よりだいぶ先輩だった。ただ、あのラガーマンのようにたくましい巨躯きょくの持ち主である彼も、奥さんの妊娠期にはマタニティー・ブルーやら産後のうつ症状といった、パートナーのホルモンバランスの崩れによる、なかば八つ当たり的な激情のうねりに怯えていた過去があるのかもしれなかった。


家の中では可能な限りあの大きな身体を小さく縮こまらせて、なにに対して憤っているのかもわからない妻の怒りを耐え忍び、ときにこの世の終わりを思わせるような悲しみに暮れて落ち込んでいたりすれば、今度は逆に必死に励ましてあげる……、そんな経験だ。


そうした中でやっと生まれてきた赤ん坊の誕生に夫婦ともども涙ぐんだりして喜んだのもつかの間、今度は永遠に続くと思われる授乳や夜泣きで、また妻が肉体的にも精神的にもボロボロになることになるし、夫の方もその姿を見て、なんとかしてやれないものかと空しく悩み、たまの育児や家事に精を出して手伝ってみるものの、あらゆる疲れから殺気立ってしまっている妻にやり方やらなにやらを否定され叱られることで、今度は夫婦喧嘩に発展してしまったりして、そのことにお互い嫌気がさしたりする。


そういった家庭的な苦難や困難を乗り越えてきた実績があるからこそ、同僚は俺と同世代であるわけだが、俺よりもずいぶんと成熟している印象があったし、そのうえ実際の彼の身体の大きさ以上に雄大で頼もしい人間に見えるのかもしれなかった。そんなことを俺は思いながら、アンドロイドによる育児代行サービスを教えてくれたお礼もかねて、近いうちに酒でも奢ってあげなくてはと考えていた。



家に帰ってくると、妻がいなかった。



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授乳狂時代 |2-3| 牧原征爾

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2~3日おきに連載していきたいと思います。

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