第4話 授乳狂時代 |2-2| 牧原征爾
子供が生まれて以来、――いや、むしろここ数年来といえるかもしれない――経験したことのないほどの深い眠りから醒めた俺は、薄暗い室内で弱ったサナギのように身体を丸めて眠り続ける妻をベッドに残し、サイトウが用意してくれていた朝食をダイニングキッチンでゆったりとした気分で食べていた。
静けさに包まれた空間でアンドロイドに見つめられながら朝食を摂る……、なんとも奇妙な取り合わせだった。
妻が育児に追われるようになってからというものの、朝食を摂るという習慣は我が家からすっかり抜け落ちていた。
わざわざ朝食を作るために物音を立てて赤ん坊を目覚めさせてしまうリスクをとるくらいなら、空腹をこらえてでも少しでも長く眠っていたいという欲求が妻の場合は勝っていたし、俺も出社直前の忙しい時間帯に赤ん坊の泣き声にさらされたくないという思いもあり、夫婦間での利害は一致していた。
朝食を摂らないことに不満を持つことは二人ともなかったのだ。それだけに俺としては出社前に何かを食べていること自体が不思議なことに感じられた。
「昨晩はよく眠れましたか?」サイトウが、そんなこちらの戸惑いに配慮するかのように尋ねてきた。
「まあ、おかげさまで。すごい快眠だったよね。」
「それは良かったです。赤ちゃんも、とってもいい子で私のおっぱいを飲みながらぐっすり寝てくれましたよ。いまもベビーベッドですやすやと眠っています。」
そう言われて、自然とサイトウの胸元に目が行ってしまう。夜通し幾度となく授乳を繰り返していたせいか、開襟シャツはよれて皺になっており、少し湿り気を帯びて、くたびれているように見えた。それに比して、サイトウの表情には疲れといったものの陰はまったくなかった。
「そろそろ、会社に行かないといけないから……、」彼女と一緒にいることがなんだか気まずく感じられて、それを悟られまいと、いそいそと食べ終えた食器をキッチンに運ぼうとすると、「私が持っていきますから、そのまま置いておいて大丈夫ですよ。」と言って、サイトウは俺が食器に手を伸ばそうとするのを遮った。
すると、お互いの手が触れ合い、俺は息をのんだ。サイトウの手は柔らかく、そして人間と同じように体温もあった。赤ん坊をあやすのだから、無機質で冷たいはずもなく、ぬくもりがあって当然なのだろう。そして俺はその温かさに対して、言い知れぬ欲求が沸き上がってくるのを感じた。
「……それじゃあ、もう行くから。」そう言って鞄を持って玄関に向かった。サイトウが俺の後に続いて廊下を歩いてくるのが分かった。
「奥様がお目覚めになりましたら、私も一度ニューテック社の支社に戻ります。十八時までには、こちらに戻ってまいりますので、また後ほど宜しくお願いします。」
そのように玄関口で言われて、俺はサイトウに見送られる形で会社に向かうことになった。朝から自分の家で妻以外の〈女性〉と話したせいか、なんとも調子がくるった感じがした。サイトウの手に触れたときのぬくもりがまだ残っている、朝から自分の家で妻以外の女性のぬくもりを感じたせいか……。
俺は、昨夜の雨で濡れたアスファルトの上を足早に歩いていった。
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授乳狂時代 |2-2| 牧原征爾
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