第2話 授乳狂時代 |1-2| 牧原征爾

職場へと出社しても眠気と疲れのためか、ジリジリと眼底が焼け付くような感覚に苛まれて、仕事もろくに手につかない。



眠気覚ましにとコーヒーやエナジードリンクをやたらと飲んでいるせいか、尿意を催してトイレが近く、席を立ったり座ったりばかり繰り返していた。



赤ん坊の誕生によって崩れ始めた家庭の内情について、不平不満ともつかない現状報告のようにして会社の同僚に何気なく伝えると、「哺乳瓶でミルクをあげればいいだけの話じゃないか。」と当たり前といった風に言われた。



「母乳を飲ませて育てたいっていう妻のこだわりが一応あるんだよ。」と妻の気持ちを代弁していることに、俺は自己嘲弄的な気分に陥り苦笑しながら答えると、相手はそれは実に嘆かわしいといった表情をしつつも、「それなら授乳用のアンドロイドを使ってみたら?」と提案してきてくれた。



そんなものがあるのかと驚いた俺は、さっそくその日のうちにネットで乳幼児の世話を専門とするアンドロイドの派遣会社をいくつか検索していた。



生まれて一か月もしない新生児の面倒までみてくれるサービスもあって、この界隈に対する需要の高さが見て取れた気がした。



思っていたよりもはるかにリーズナブルな価格であることにも驚いたが、どうやら競合が多く過当競争にある業種のようで、それぞれの企業が過剰と思えるほどのオプションを基本サービスに付加したうえで、なお業界最安値をめぐってしのぎを削っているような過酷な状態にあるようだった。


一括で複数の派遣会社のおよその見積を提供してくれるサイトまであったりした。



そこで提示されていた価格帯を見ながら、これっぽっちの出費で済んでしまうなら、わざわざ妻に相談するまでもないなという判断が働いた。



サービスを消費する側としてはありがたい限りだったが、一方でこの業界に身を置く人間はさぞかし辛いことだろうなと同情し、なんだか若干の憂鬱さまで感じられてくるのだった。



ちゃんと組織の下っ端の人間たちも喰えているのだろうか?結婚したり子供を養ったりすることが出来るに足る支払いのある仕事なのか?そんな懸念があった。ただ俺だって他人の心配なんかしている余裕はないはずだった。



まず俺は自分の小さな家庭を立て直さなければいけないんだと、眠気を追いやるように頭を振って、パソコンのモニターに表示されていた複数の見積やサービス内容の差異といった項目の読み比べ作業に集中した。



ふと、隣室の様子に聞き耳を立ててみると、小さな悪魔はいつの間にか泣き止んでいて、その代わりに妻の静かにすすり泣く声が微かに漏れ聞こえていた。



世話役のアンドロイドが来てくれたら、妻もこの苦しみから解放される……、という思いはあったが、実は妻のことだけを考えてというわけでもなかった。



俺自身が赤子と妻の板挟み状態から一刻も早く抜け出したいという気持ちが強くなっていて、だからこそ、こうして真夜中に強烈な眠気と戦いながらも、せかせかとアンドロイドの派遣業を行っている複数の会社のサイトを比較検討しているわけだった。



会社から疲れて帰ってきても、自分のことはそこそこに、すぐさま赤ん坊の世話の方へ移行して、さらにそのあとで妻のふさぎ込んだ心を慰めるために話し相手をしているうちに夜明けとなり、また会社に出社するという終わりの見えない過酷な生活……。



睡眠や自分のプライベートな時間をほとんど確保できず、俺も気分がおかしくなってきていることを自覚していた。大黒柱として俺がなんとか踏ん張らないと一家ごと、ご破算になってしまう、と朦朧とする頭でそんなことを考え迫りくる危機感に怯えていると、いつの間にか窓の外は空が白み始めていた。



ほとんど寝ていないが、不思議なことにいつものような疲れを通り越した後に襲ってくる虚脱感のようなものはなかった。



お手伝いのアンドロイドさえ来てくれれば、俺たち夫婦は人間的な生活を取り戻すことが出来る、そんな希望に満ちた思いが気分を軽やかにしてくれていた。



結局、いろいろと読み比べるほどに違いが分からなくなっていき混乱し始めていた俺は、モニターに表示されていた最安値の見積もり価格を提示していたニューテック社という会社に派遣依頼の発注を掛けたのだった。



そのまま俺は物音を立てないように、つま先立ちになりながら出社する仕度を始めた。


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授乳狂時代 |1-2| 牧原征爾

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