授乳狂時代

牧原 征爾

第1話 授乳狂時代 |1-1| 牧原征爾

妻も俺も赤ん坊のせいで寝不足になっていた。そろそろ、すべてが限界だった。



当たり前のことだが、乳幼児期の赤ん坊は日中に限らず夜だって容赦なく泣いて母乳をせがんでくる。



授乳をする間隔の適正な時間の区切りとされる三時間おきに規則正しく泣く場合もあるし、やっと寝かしつけることに成功したかと思ったら、その三十分後にはカッと目を見開いて、赤鬼のような形相で狂ったように泣き始めることだってあるのだ。



俺たち夫婦にとって安眠が約束されていた夜間という静寂は過ぎ去り、休日に睡眠負債を解消すべく寝溜めをすることもできなければ、心地よく睡魔に誘われるままに惰眠をむさぼることも許されなくなってしまった。まったくまいってしまう。



そして深夜の静寂を切り裂くような突然の泣き声によって眠りから覚まされる不快感というのは、筆舌に難いものがあった。



こちらも眠気が残っているので、再び浅い眠りについてしまったりするのだけれど、再び声量の増した悲鳴のような泣き声ですぐに起こされる、そんなことを数分間のうちに何度か繰り返して、やっとの思いでこちらもベッドから起き上がって授乳やらオムツを変える準備に取り掛かれるのだ。



それは、鈍器で頭を一発殴られた後に脳内にウジが沸いてきて腐敗していく過程を絶望感と共に味わっている数分間といった具合だった。



そのようにして毎晩、睡眠を妨害され続け、二人は精神的に追い詰められていった。



それでも俺は死んだような表情で、ろくに眠れぬまま翌朝の定時には会社に出社するし、妻は引き続き日中も赤ん坊にミルクを与え続けなくてはならなかった。



二人ともまとまった睡眠を確保できないため、自律神経がおかしくなってきたのか、赤ん坊の泣き声の幻聴がしたり、幻覚のようなものすら見るようになっていた。



「ねえ、わたしたち死んでるよね。新しい命を産んだかわりに、自分たちを殺している……。」



「そんなこと言うなよ。少し疲れているだけだって。子供がもうちょっと大きくなればさ……。」



「少し疲れてるだけ!?」と妻は俺の言葉を絶望したように繰り返して、しばらく押し黙っていたが「わたし、最近、夜が怖いの。もう耐えられないかもしれない……、ウッウ」と声を押し殺してすすり泣き始めた。



「今日は、もう寝なよ、夜間のミルクは僕が哺乳瓶であげておくから。」



「……粉ミルクにたよってばかりで、自分のお乳もあげられないなんて母親失格なんだ。」と言ってシクシクと肩を震わせていた。



 赤ん坊が静かに寝付いても、妻がむしろ「夜泣き」し始めることがたびたびあって、それが俺をさらに追い詰めていたが、彼女の方がもっと辛い状況にあるはずだと思い直して、俺は小さななぐさめを得ていた。



なんせ赤ん坊に授乳し続けて酷使されている妻の乳首は、擦り切れて血がにじむようになっていたのだから。



本当は母乳なんてやめて、ミルクで代用したいのだろうが、それに関しては強いこだわりがあるのか弱音をはかずに耐え忍んでいるようだった。



毎晩、照明を落とした薄暗い室内にあるベッドの端に腰かけて、痛む乳首に保湿クリームを寡黙に塗り付ける妻の姿が不憫に思えてならなかった。



そういうとき、俺の腕に抱えられてあやされている赤ん坊は、目をつむることもなく窓の外から入りこむ光を凝視していたりする。



この子は、いったいなにを考えているのだろう?赤ん坊は悪くないのに、どうしてこんなにも怒りが込み上げてくるのだろう?もし、この子を窓の外へと放ったら……。



そういった魔が指したとしか思えない台詞の出てくるドラマやら映画のシーンがふいにいくつか思い浮かんだが、あれは奇をてらった演出というわけでもなく、子供を授かったばかりの新米の親なら、だれしも育児の疲労とストレスに追い詰められることで思い描いてしまう自然な悪意なのかもしれない……、そう思い当たってハッとしたりしていた。





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授乳狂時代 |1-1| 牧原征爾

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