第5話 努力と才能

8月16日〈現在〉


 今日の夕方には帰らなければならない。

 俺は昼頃に目を覚ますと、家のなかを一部屋ずつみて回った。親父とお袋の寝室、祐二の部屋、ばあちゃんの部屋、客間にリビング、トイレや風呂までも、俺がかつて過ごし生活した空間をすべて。

 室内を見終わると玄関からそとに出る。瓦葺きの屋根にコチドリが一羽とまっている。去年塗り替えたばかりという壁は、まだ新しいクリーム色をしていて綺麗だった。

 平屋の5LDK、広い庭のある日本家屋。都会の一等地ならば金持ちの家かもしれないが、田舎で代々農家として生計を立てていれば、このぐらいは普通の家だ。安い土地だけは無駄にあっても、収入は人並み。いや、市場の買値が安い年は人並み以下となる。

 台風などの災害で農作物に被害がでれば、収入はゼロ。それどころか設備投資に莫大な金が消えてなくなる。そんな不安定な家計のなかで親父たちは、もっといえば先祖たちは、家族を養ってきたのだ。

 まったく、たいしたもんだよ。本当に心からそう思う。そんな環境で育ったからだろうか、俺も漫画家なんて先行きのみえない職業に夢をみたんだ。

 車庫近くにある犬小屋から、コロ助が顔を出している。ゆらゆらと頭を揺らし、辺りを確認しているみたいな仕草だ。

 今年でたしか18歳だったか。祐二が子供のころに、弟が欲しいと駄々をこねたため、親父が知り合いから仔犬を引き取ったのだった。

 小さく頼りない四肢ですぐに転んでいたため、名前はコロ助。しかし18年経ったいま、両目は白内障で白く濁り、もうほとんどみえていない。声をかけても反応がないのをみると耳もほとんど聞こえていないのだろう。残った嗅覚すらも最近は衰えてきたという。ずっと元気だと思っていたコロ助も、俺のところへとくる日はそう遠くないらしい。

 俺は近寄ってコロ助の頭を撫でる。急に触れられてビクッと最初は驚いたものの、その後は大人しく気持ち良さそうに目を細めた。来年の盆に、またこうやって生きているこいつを撫でることができるだろうか。

 お前は長生きだなぁと、すでに死んでしまっている自分への皮肉を込めて呟いた。


 ──祐二、ちょっと遊びに行かないか?

 俺が祐二に声をかけたのは、夕方近くになってのことだった。急な誘いに驚いていた祐二だったが「いいよ」と、すぐに車を出してくれる。

「んで、どこに行きたいんだ?」

 ハンドルを握る祐二は横目に俺をみていう。車窓から流れゆく景色をぼんやりと眺めていた。時速50キロメートルのスピードで実家から遠ざかってゆくことに寂寞としたものを覚えつつ、俺は口を開いた。

 ──バッティングセンター、かな……。


   ○  ○  ○  ○  ○


 バッターボックスに立っている兄ちゃんをみていると懐かしく思った。バットを構えるフォームも昔と変わらない。

 百円玉を入れると、18.44メートル先にある投球マシンが作動し始めた。兄ちゃんはすこし腰を落とし顎を引いて先を見据える。投球マシンのバネが跳ねて、120キロの速球が放たれる。兄ちゃんはバットを握りこみ、迫りくる白球めがけてフルスイングした。

 ばすっ。

 もの悲しい音が鳴る。豪快に空振った兄ちゃんはよろけて尻餅を着いた。

「落ちぶれたなぁ兄ちゃんも、いくらブランクがあるからって掠りもしないなんて」

 その間抜けな姿に思わず笑ってしまう。同時にすこし悲しくもあった。あんなに凄かった兄ちゃんが、ストレートとわかりきっている球にバットを当てることさえできないなんて。

 兄ちゃんはたまたまだといってバットを握り直し構えるが、その後の九球も、空振りやファールばかり。唯一前に飛んだ打球はショボいピッチャーゴロだった。

「百円玉の無駄遣いだな、いまはおれの方がまだ上手いよ」

 すこしムッとた兄ちゃんを横目に、おれは入れ替わりで打席に入る。最近は高校のときのように本格的に野球をしているわけでもなかったが、120キロのストレートとわかっていれば──。

 おれのフルスイングはボールをバットの真芯で捉え、カーンッと爽快な音色を鳴らした。

 白球は吸い込まれるようにバックネットへと運ばれる。そのままホームランと書かれた板に直撃した。振り返ると目を丸くして驚く兄ちゃんの顔があった。

「みたかよ兄ちゃん、一球目からホームランだぜ」

 自慢気にいってやって、次の投球に備える。おれは十球すべてを打ち返しバッターボックスから出た。昔の兄ちゃんならこんなの楽勝だったろ? なんて減らず口も忘れない。

 ベンチに座っていた兄ちゃんは、自動販売機で買ったのか、缶コーヒーを投げ渡してきた。よく冷えたスチールの缶を首筋に当てながら、おれも隣に腰を下ろす。

 ──なぁ祐二、本当に漫画家を目指すのか?

「え? ……ああ、そのつもりだけど」

 急な問いかけにおれは視線が泳いでしまう。なぜだか気まずくなり缶コーヒーに口をつけた。苦いブラックのコーヒーがおれを責め立てているような気がした。さっきまで使っていた120キロのバッターボックスでは、高校生だろうか、青年が小気味良い音を鳴らしている。

「兄ちゃんは甘い世界じゃないっていいたいんだろ? わかってるさ。でもやってみないとわからない。それにダメだったら親父の跡を継ごうと思ってる。そもそも大学を卒業したら最初から農家を継ごうと思ってたし」

 ──じゃあ、なんで大学なんて行ったんだよ。

「なんでって……」

 大学へと進学した理由? そこらの大学生に聞いたって、すぐにスラスラいえるやつなんてすくないはずだ。

 ──俺に夢の続きをみせるために漫画家を目指すっていってたよな。頼むからそんなことはやめてくれ、俺は弟に自分の夢を押し付けるようなことはしたくない。

「なんだよ、別に押し付けられてなんか……」

 おれは戸惑っていた、なぜ兄ちゃんは急にこんなことをいい始めたのか……。

 ──俺が漫画家を目指していたとき、お前は嫌がっていただろう。

「そ、そんな、ことは……」

 ──もし、俺がいまも生きていて漫画家を目指していたとしても、お前は漫画家になりたいと思うか?

「……」

 おれは完全に言葉を詰まらせてしまった。この無言が兄ちゃんには、質問に対する正確な答えとして聞こえていることだろう。だが、答えとしては間違ってなかった。兄ちゃんがもしいまも生きていたら、おれは漫画家になりたいなんて思わなかったはずだ。

 しかし、兄ちゃんは死んだんだ。

「……じゃあ、どうしろっていうんだよ。兄ちゃんを追い詰めたのはおれだ。プレッシャーをかけて、ただでさえ頑張っていた兄ちゃんに鞭を打ったんだ。兄ちゃんを殺したのはおれなんだよ」

 ──お前が俺を殺した?

「だってそうだろ。おれが早く連載しろなんていわなければ、兄ちゃんが過労死するようなこともなかったはずだ。全部おれのせいなんだ、おれのせいで兄ちゃんは……」

 自分の夢を掴みかけていた兄ちゃんに、おれがプレッシャーをかけた。そして兄ちゃんは頑張りすぎて死んだんだ。これがおれのせいでなくなんだというのか。兄ちゃんがみるはずだった景色を、代わりにおれが……おれの考えは間違っていないはずだ。

 ──祐二っ!

 兄ちゃんはおれの胸ぐらを掴んで引き寄せる。兄ちゃんのこんなにも怒った顔をみたのは初めてだった。

 ──バカにすんなよ。俺が死んだのはすべて俺のせいだ。なんでそこにお前が出てくるんだよ!

「違う、おれさえあんなことをいわなければ……兄ちゃんは……。おれにできる償いなんて、こんなことしか……思い、浮かばないんだ……」

 情けないことに22にもなって、目尻に涙がたまっている。兄ちゃんが死んで、自分自身どうしたらいいのかわからなくなっていた。兄ちゃんのためにできることは、と、自らに罰を、贖罪を求めていた。

 ──違うんだ、祐二。

 兄ちゃんは掴んでいた手を放すと、幼子でも慰めるようにして語りかける。

 ──俺はお前がいたから頑張れたんだ。漫画だけじゃない、野球だってそうだ。

「……ど、どういうことだよ?」

 ──お前は昔から器用だったからな、ちょっと教えればなんでもできた。

「それは兄ちゃんのことだろ? 野球だって勉強だっておれは足元にも及ばなかった」

 天才的な兄、平々凡々の弟。昔からそうだった。おれができないことを、兄ちゃんは当たり前のようにやってのける。いつだって器用で要領がいいのは兄ちゃんの方だ。

 ──お前のことだよ。

 兄ちゃんはおれの肩に手を乗せて、まっすぐな眼差しを向けてきていた。そしてすこし疲れたように笑ってため息をつく。

 ──出来のいい弟を持つと、兄貴は大変なんだぜ? 知らないだろうが、俺がどれだけ野球の練習したと思ってるんだよ。どれだけ勉強したと思ってるんだよ。

「なにいってんだよ。嘘つくなよ」

 ──お前に嘘なんかつかないよ。

 兄ちゃんの部屋にあったボロボロの野球道具を思い出す。いくつものノートを思い出す。

「なんで……そんなこと」

 ──俺はお前の兄貴だからな。

 兄貴が弟に負けられないだろ? といって兄ちゃんは悪戯っぽく笑った。

 兄ちゃんは天才なんかじゃなかった? おれが才能だと思っていたものは、すべて努力の賜物だった? 信じられない。でも、さっきの空振りをみたばかりのおれに、すべてを否定できるだけのものはなかった。

 ──祐二は昔からよくいってたよな、兄ちゃんならできるって。どんな無茶なことでも、純粋な目していわれたら、俺だってやってやろうって躍起になってたんだ。だから全部祐二のお陰だ、野球も、勉強も、漫画だって、な。

 おれはなんにもわかっちゃいなかった。兄ちゃんには才能がある。そう思いこんで、兄ちゃんの努力になんてなに一つ目を向けてこなかったのだ。

 ──お前、高校の先生になりたいんだろ?

「え?」唐突だった。なぜそんなことをいうのかわからない。

 ──お前の部屋で教員免許取得の合格通知をみた。大学に進んだのもそのためなんだろ?

 いつの間にそんなことをしていたのか知らなかった。おれの考えなんて兄ちゃんにはすべてお見通しのようだ。

 高校で甲子園に行けなかったおれは、どうしても甲子園という夢を諦めきれなかった。高校を卒業した後にでも甲子園に行けるとしたら、それは部活の顧問として行く以外に方法はない。

「でも……でも兄ちゃんはそれでいいのかよ、おれは兄ちゃんの夢を奪ったんだ。それに家はどうなる、おれが跡を継がなきゃ他にはもう誰もいない」

 そういうと驚いたことに兄ちゃんは頭を下げていた。

 ──悪かった。

「……に、兄ちゃん?」

 ──俺が死んだことで、祐二にすべての重荷を背負わせてしまった。

 顔をあげた兄ちゃんは優しく微笑む。

 ──俺のことなんて気にするな、勝手に死んだバカなやつだって思っとけ。お前に本当の夢があるなら、俺はそれがなんだって全力で応援するぞ。俺だけじゃない、親父やお袋だってきっとそうだ。

「表面上はな、でも……」

 兄ちゃんも親父たちも優しいから、どんな反応をするかなんて想像はできる。でも心の底では、おれに農家を継いでもらいたいと思っているはずだ。

 ──心から思うさ。それが家族ってもんだろ。

 兄ちゃんは立ち上がり、残っていた缶コーヒーをすべて飲み干した。

 ──もう自分の夢から逃げるのはやめろよ。俺のためとか、家族のためとか、言い訳ばかりをつけて本当にやりたいことから目を背けるな。

 おれは兄ちゃんを見上げていた。厳しいことをいっているようで、その言葉には優しさに溢れている。

 ──夢が叶わなかったときが怖いか? 努力が報われないことが恐ろしいか? お前は昔からそうだった。人一倍器用なくせして、やる前から諦める節がある。

「兄ちゃん……」兄ちゃんは、ずっとおれを認めていてくれたのだ。

 ──やればできるというのに、なぜやらない?

「兄ちゃん……」その言葉はおれがずっと兄ちゃんに対して思っていた言葉だった。

 ──俺は、俺の夢を全力で追いかけた。祐二は祐二の夢を全力で追いかけてみろよ。

「兄ちゃん……」

 もう、止まらなかった。

「兄ちゃん……なんで死んじまったんだよっ!」

 こんな歳にもなって大泣きするなんて情けない。周りに人がいるにも関わらず、恥ずかしげもなく涙は溢れてくる。

 ──ごめんな、死んじまって。ごめんな、良い兄貴じゃなくて。

 兄ちゃんはおれのぐしゃぐしゃになった顔を胸に抱いた。まるでガキの頃みたいに優しく背中を擦ってくれる。

「兄ちゃん、兄ちゃん」

 おれも兄ちゃんに甘えるようにして背中に手を回した。兄ちゃんにもう時間がないことはわかっている。

「もっとたくさん話したいことがあったんだ」

 兄ちゃんは優しく微笑んだ。

「もっと野球も一緒にしたかったんだ」

 わかってるとでもいうように、そっと静かに頷いてくれる。

「おれはずっと兄ちゃんのことが好きだったんだよ。カッコよくて、優しくて、なんでもできる兄ちゃんみたいに、おれもなりたかった」

 兄ちゃんはよりいっそうおれを強く抱きしめて、わずかに震えた。

 兄ちゃんの背中を追っていれば、自然と道ができていた。兄ちゃんは先行して、ずっとおれの足元を照らしてくれていたんだ。

 そんな兄ちゃんがいまはいない。おれは踏み出す一歩先に何があるのかわからずに立ち竦んでいた。

 否が応でもこれからは自分一人で、暗闇を模索することになる。兄ちゃんから、憧れの人から一人立ちするしかないのだ。

「兄ちゃん」身体を離し、その暖かな眼差しを見詰める。

 ──なんだ?

 柔らかな声音はおれの高ぶった感情を穏やかにしてくれた。

「おれなんかが、本当に教師になれるかな?」

 ──当たり前だろ、絶対になれるさ。祐二は俺の弟だぞ。

 なんの根拠もなく即座に返す兄ちゃん。だけど兄ちゃんにそういわれると、なぜだか本当になれるような気がした。


   ○  ○  ○  ○  ○


 一人だけとなった車中からは、薄く鱗雲が漂う茜色の空がみえていた。南の空にうっすらと光る一番星が、今年の盆が終わったことを告げているようだった。

 車庫に車を停めて庭に出ると、親父が送り火を焚いている。

「どこ行ってたんだ?」

 親父に呼び掛けられ、おれは親父のもとへと足を向けた。

「バッティングセンターだよ」

「一人でか?」

「……まあね」

「ふうん」

 立ち上る煙を追いかけるように、親父は空を見上げる。

「なあ、親父」

「なんだ?」

「おれ、高校の教師になろうと思うんだ」

 親父は一瞬だけおれをみて、また空を仰ぐ。赤く照らされた口元に微笑を浮かべ、おれにはみえないものをみているようだった。

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