第4話(天才と平凡)
月刊誌に載った兄ちゃんの読み切りをおれは読んでいなかった。今後また載るようなことがあっても、読むことはないと思う。
ただその読み切りの評価があまりよくなかったということは知っている。最低な弟かも知れないが、それを知ったおれは、嬉しくて笑った。
○ ○ ○ ○ ○
8月15日〈四年前〉
兄ちゃんの帰省中、おれはずっとイライラしていた。夏の暑さにも蝉の鳴き声にも、好きなバラエティー番組をみているときでさえ、兄ちゃんが視界にはいるだけで苛立った。
夏休みに行われる夏期講習に出席するために高校へと自転車を走らせる。朝っぱらから気温は30度をゆうに越え、高校につく頃にはシャツが汗で背中に張りついていた。
舌打ちをしながら階段を上り、教室へはいると冷房の涼しさに身体が弛緩する。教室のいつもの席に座り、下敷きを団扇がわりにして扇ぐ。
一息ついてノートやペンケースを準備していると、幼なじみの椎葉佳奈が教室に入ってくるなり近寄ってきた。いままで部活にでも行っていたのだろうか、ショートカットの黒髪が汗で乱れている。すでに引退した身だというのにご苦労なことだ。
「ねえねえ祐くん、いまお兄さん帰ってきてるんでしょ?」
シャツとスカートをパタパタと揺らして風を送り込んでいる。あつ~いとかなんとかいいながら、おれの前の席に座った。おれの方を向いて、だ。
股を開いて背凭れを両腿で挟むようにするその姿は、とても女だとは思えない。
絡むのも面倒だとシカトしていたら、頬を膨らませおれの机に腕を乗せてきた。
「ねえってば、お兄さん帰ってきてるんでしょ?」
彼女の腕の汗がノートの端をしっとりと湿らせる。
「ちっ──帰ってきてたらなんだよ」
「ぅえ、なんだってことはないけど……」
クソっ、イライラする。学校にきてまでも兄ちゃんはおれを苛立たせるらしい。
「漫画家さんになって初めて帰ってきたんだもん、そりゃあ気にはなるよ」
「一回だけ読み切りが載っただけだろ。漫画だけじゃ食っていけてねぇんだ、漫画家じゃねぇよ」
「なんでそんなこというのさ、読み切りが載っただけでも凄いよ。才能あるってことじゃん。それにこれからどんどん売れっ子になるかもしれないでしょ? いまのうちにサイン貰いに行っちゃおうかなぁ」
佳奈は顎肘をついて気持ち悪いにやけ面を晒す。
なにがサインだ。くだらない。足が勝手に貧乏揺すりを始めた。
「才能なんてないだろ、あったらとっくに連載してる。漫画なんかより野球の方が断然才能あったよ」
「まあ野球も凄かったよね。チームのキャプテンで甲子園準優勝しちゃうんだもん、あのときは私も興奮したなぁ」
兄ちゃんに影響を受けて高校ではソフトボールを始めた佳奈は、バットを構えるような仕草をとって目を輝かせる。
おれはその佳奈らしい身振りに呆れながら、バッグから教科書を取り出した。
「あのまま野球続けてたらプロにだってなれたかもしれないのに、兄ちゃんはホントバカだよな……」
そうだよねぇ、とか間抜けな返事が返ってくるかと思っていたが、佳奈はなにもいわなかった。彼女をみると悲痛そうな表情をたたえおれをみている。
「……なんだよ」おれは手を止めて視線を返す。
佳奈にそんな目でみられていると、胸の辺りがぐわんとして居心地が悪くなった。
「だから、なんでそんなこというの?」
「いや、正論だろ。おれは兄ちゃんを認めてんだよ、野球の才能はあったって」
肩も強かった、配球選びも上手い、なによりバッティングが並外れだった。おれにはできないようなことでも、兄ちゃんは難なくこなしてみせるのだ。
「違うよ、私はそんなこといってない」
「は? じゃあなんなんだよ」
要領を得ない佳奈に俺はため息を漏らす。
「祐くんがいってるのって全部嫉妬じゃん」
「嫉妬? 意味わかんねぇ、なんでおれがいまの兄ちゃんに嫉妬すんだよ」
プロ野球の道を捨てて、漫画家のなり損ないになったやつに嫉妬なんてするわけがない。バカなやつだと、あんな風にはなりたくないと、そう思っている。反面教師としては立派なものだ。
「だってそうじゃん。自分が欲しかった才能を持ってるのに、その才能を生かさずに別の道を選んだお兄さんにイラついてるんでしょ? 自分ができないからって、自分の夢をお兄さんに勝手に託して、裏切られたとでも思ってるの?」
「そんなわけ──」
「──ない?」
言葉が詰まった。いまになって佳奈が怒っているんだとわかった。
おれが兄ちゃんに嫉妬している? おれが自分の夢を兄ちゃんに託した? そんなわけがない。そんなわけはないはずなのに、言葉としては最後まで出なかった。
たしかに、思ったことは、ある。兄ちゃんがプロ野球で活躍している姿を、想像したことはある。
テレビで、ときには球場で、おれはいうのだ。
『あの選手、おれの兄ちゃんなんだぜ。スゲェだろ?』と。
子供のころから比べられていた。天才的な兄と、平々凡々の弟。だったらせめて自慢ぐらいしたいじゃないか、おれの兄ちゃんはスゲェんだって、周りのやつらにいってやりたいじゃないか。
「自分の思い通りにいかないからって、夢に向かって一生懸命に頑張ってる人を、笑って心から応援してやれないなんてダサすぎ。そんな人が自分の夢なんて叶えられるわけがないじゃん」
「──っ……」
身を乗り出して訴えてくる佳奈に、おれは歯噛みして睨みつけるのが精一杯だった。
「なにもいい返せないんだね。人として最低だよ」
佳奈は眉間に皺をよせて視線を落とす。声のトーンまで落として、呟いた。
「いまの祐くん、祐くんらしくない」
佳奈はバンッと机を叩いて立ち上がると、前へ向き直り椅子に座った。
その音に反応したクラスのやつらが、何事かとおれたちの方をみている。佳奈のシャツは汗で湿っていて、背中にブラジャーの紐が透けてみえていた。
クソビッチめ、舌打ちにそんな言葉を乗せて放ち、おれは出したばかりの教科書やノートをバッグに詰め直して席を立つ。
「他人のお前が、おれらしさを語るなよ」
その佳奈に向けた言葉は、実際に声に出ていたかはわからない。椅子を引いて立ちあがり、扉のほうへと踵を返した。教室を出るときに佳奈の視線を感じたが、おれは振り返らなかった。ただ前だけをみて、クソ暑い廊下を早足であるいていく。
靴に履き替えそとへ出る。駐輪場から自転車を乱暴に引きずり出して、さっき通ってきたばかりの道を全力で引き返した。
真っ直ぐに伸びる山越えのバイパスを立ちこぎで駆け上る。
「クソがぁぁ」
疲労と暑さで喉はかすれ、おれの叫びは次々と追い越していく車の走行音に掻き消されていく。佳奈に向けた最後の言葉が、彼女の耳に届いていなければいいと思う。あんなことを、おれは言いたかったわけじゃない。
家に帰ると兄ちゃんは自室で漫画を描いていた。蒸し風呂みたいな室内なのに冷房も付けず、背中を丸めて机にかじりついている。おれも兄ちゃんも汗だくだ。
ノックもせずに部屋に入ったのだが、まったく気がついていないようだった。
おれがこの兄ちゃんに嫉妬している? 悔しいが佳奈のいっていたことは当たっているのかもしれない。だが、百歩譲ってそれを認めたからといって、漫画家の道を応援してやるなんてクソ食らえだ。漫画なんかより野球の方が才能があった、その事実はずっと近くでみてきたおれが一番よくわかってる。
ずっと憧れて、羨ましくて、大っ嫌いだった兄ちゃん。
おれの兄ちゃんは、凄い兄ちゃんじゃないと駄目なんだ。だってそうだろ、ずっと比べられていたんだ、兄ちゃんが凄いやつじゃなけりゃ、おれは一体なんなんだよ。兄ちゃんは凄い、こんな貧乏なフリーターのままで居ていい人じゃないんだ。
おれはリモコンを取って冷房をつけた。クーラーが作動し、冷たい風を吐き出す。しばらく使われていなかったせいか、すこしカビ臭いにおいが混じっていた。
声をかけようとも思ったが、そのままじっとみていることにした。一段落ついたら、兄ちゃんの方からおれの存在に気がつくだろう。
おれはベッドに腰掛け、兄ちゃんの背中をみる。かつて必死に追いかけていた背中は随分と小さくなってしまったものだ。
バッターボックスに立っていた兄ちゃんの姿はいまでも鮮明に思い出せる。どんな点差で負けていたとしても、兄ちゃんがそこに立つだけで逆転できるような気がしていた。
なんで漫画なんだよ……。
何度考えてみてもそう思ってしまう。
ふと部屋を見渡すと本棚には漫画がぎっしりと詰まっている。使い込まれてボロボロになってしまった野球道具たちは部屋の片隅へと追いやられ埃をかぶっているというのに。
そういえば子供のころはよく漫画を読んでいた。おれは漫画よりもゲームに夢中になっていたが、兄ちゃんは漫画ばかり読んでいた記憶がある。
落書きみたいな四コマ漫画を作ったりしていて、たしかおれもみせて貰ったんだ。遠い昔過ぎてどんな内容だったとか、面白かったかなんて全然覚えていないが。
ぼんやりと兄ちゃんの背中をみていたら、一人でいろいろと考えてしまう。こんなに痩せてまで、年に一度の帰省のときでさえ漫画を描いている。どうしてここまで漫画に固執できるのか、情熱を向けられるのかがわからない。おれにはわからないが、兄ちゃんの見据えるその先に、おれにはみえないなにかがあるのではないかと思う自分がいた。もしかしたらいまの兄ちゃんは、高校のとき以上に燃えているんじゃないか? そんな思考が頭をよぎる。
途中でタバコに火をつけようとした兄ちゃんがおれに気がついた。
「おおっ……祐二か、びっくりした」
「いや、普通部屋に入ってきた時点で気づくだろ」
「描いてたからな……」
兄ちゃんはタバコを咥え、ライターで火をつける。一口吸うごとにタバコの先がジリジリと燃えた。紫煙が細く天井まで伸びていた。
「なあ兄ちゃん」
「ん?」
「なんで野球辞めたんだよ」
「ん? どうしたんだよ急に」
突然の質問に兄ちゃんは困った顔をしている。正直おれも自分がこんなことを聞くなんて思っていなかった。なんというか、考えるよりも先に言葉が出てしまっていた。
「まあ理由なんてどうでもいいんだけどさ」
「祐二、お前熱でもあんのか?」
「ねぇよ」
やっぱり腹が立つ。しかしもうこうなったら最後までいってやろうと思った。いいたかったことなんて山ほどあるんだ。
大きく息を吸い込み、長く吐き出した。タバコの臭いがしてまたイラついた。
「おれは兄ちゃんに野球を続けて欲しかったよ。プロだって目指せるって本気で思ってた。すくなくとも漫画なんかより絶対にそっちの方が才能あるって、いまでもそう思ってる。野球やらないんならその才能おれにくれよって思うし、なんでそんな才能あるのに野球やらねぇんだってムカついてたんだよ」
野球を辞めると初めて聞いたときは心底驚いた。おれだけじゃない、おれと同じようにずっと兄ちゃんに憧れを抱いていた佳奈だって、「本気でいってるんですか?」と食い下がったものだ。
あの頃、誰よりも表立って不満を洩らしていた佳奈を思い出す。ことあるごとに「もったいない」とか「なんでなの?」とおれに愚痴をいっていた。そんな佳奈にいまはおれが、目を覚ませとビンタを喰らったような気分でいる。
「だけどさ、もういいよ」
そう、終わってしまったことだ。兄ちゃんはもう野球をやらない。おれがなにをいったって漫画を描き続けるんだ。
「その代わり、漫画で有名になってくれよ。さっさと連載枠ぶん取ってめちゃくちゃ売れる漫画描いてくれよ。野球じゃなくて漫画で良かったって、おれに思わせるくらいに、スゲェ兄ちゃんでいてくれよ。おれ、兄ちゃんはなんだってできるって、ずっと昔から思ってるんだからさ」
兄ちゃんは終始驚いていたが、やがて微笑んだ。ネクストバッターズサークルからバッターボックスへと向かうときの、自信に満ち溢れた頼もしい笑みだった。
「バカ野郎が、当たり前だろ。この前いったじゃねぇか、連載なんてもうすぐだよ」
兄ちゃんは灰皿にタバコの灰を落とし、机に向かいペンを握り直す。
「俺はお前の兄ちゃんだぞ」
そういってタバコの先端を赤く燃やすと、背中を丸めて漫画を描き始める。おれは兄ちゃんのベッドに寝転がった。汗がシーツに染み込んでしまうとも思ったが、兄ちゃんなら許してくれる。冷房で涼しくなった部屋の空気が、熱くなったおれの身体を冷やしていく。なにをすることもなく、紙上を走るペンの音をずっと聞いていた。
○ ○ ○ ○ ○
火葬場から昇る煙をみて、兄ちゃんのいっていた言葉を思い出した。
命燃やしてんだよ──あの言葉は比喩とかじゃなしに、そのままの意味だったんじゃないかと、いまになって想う。
本当に命を燃やして、漫画を描いていた。そして最後まで燃え尽きてしまった。
残っていた燃料を、一気に燃やしてしまう原因を作ったのは、間違いなく──おれだ。
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