第3話 過去と未來
嘘みたいな青空が広がって、晒された肌を太陽が焼いていた。欄干を乗り越え、俺は橋の縁に立つ。眼下に流れている川は、照りつける陽射しをあつめ輝いていた。橋から水面までは6、7メートルほど。しかし碧に深く澄んだ水は、川底まで明瞭に写しその距離をより遠くに感じさせる。
真夏の景色に鳴りひびく蝉の鳴き声のただなかで、俺の足はすくみ震えていた。欄干を握る手が汗ばみ、いまにも滑りそうだった。中学の友達はみんな無理だと諦め、欄干を再び乗り越え戻っていく。
川岸で手を振る祐二の姿がみえる。隣には不安げにこちらを見上げる佳奈ちゃんもいた。まだ小学生のくせに、俺と川遊びに行くといってついてきたのだった。
俺の心情も知らず、祐二は満面の笑みを浮かべている。自分が唾を呑み込む音がやけにはっきりと聞こえた。
「兄ちゃーんっ! 兄ちゃんなら飛べるよーーッ!!」
蝉の声に負けることなく届く、そのバカでかい声を合図に、
俺は飛んだ。
○ ○ ○ ○ ○
8月14日〈現在〉
「──ちゃん、兄ちゃん」
目覚めると祐二が俺を揺すっていた。どこか懐かしい夢でもみていた気がするが、祐二の顔をみると、その記憶もどこかへいってしまう。俺はまだ寝ぼけている目をこすって起き上がる。
「温泉に行こうぜ」一年ぶりに実家に帰った翌日だというのに、起きたばかりの俺にそんなことをいう。
抗議の視線を送ると、気にする様子もなく笑っていた。
「青井山温泉だよ、昔はよく行ってただろ?」
時刻を確認するとまだ8時にもなっていない。俺が時計をみていることに気づいたらしく、祐二は俺の視線上に身体を滑り込ませ時計を隠す。
「朝から温泉ってのも、悪いもんじゃないぜ」
そう祐二にいわれてしまうと、たしかに悪くないような気がしてくるのだから困りものだ。
タオルや着替えなどの準備を済ませそとに出ると、祐二がすでにSUZUKIのエブリイを玄関先にまわしていた。
真夏の茹だるような暑さに抗って車に乗り込むと、車中はもっと暑かった。
「冷房がまだ効いてないんだ、走り出したらすぐ涼しくなるさ」
額に汗の玉を作りながらいう祐二に、俺はため息をついた。
出発してしばらくすると冷房の涼しい風が車内を満たしていった。青井山温泉はとろみのある良質な泉質の天然温泉だ。山中にあり豊かな自然のなかで露天風呂を楽しめると地元では有名だった。
実家から車で30分とかからない場所にあるためか、昔はよく親父に連れられて行ったものだ。
祐二が運転するエブリイは、曲がりくねった山道をターボエンジンを唸らせてぐんぐん登っていく。
荒っぽい走行に助手席に乗っていながら思わずブレーキを踏もうと足が動いたりもしたが、祐二の方はというと俺のそんな反応を面白がっている節がある。
「ビビりすぎだよ兄ちゃん。大丈夫だって、これでもおれは無事故無違反なんだぜ」
両足を踏ん張る俺を横目に祐二は歯をみせて笑いながら、緩やかな上り坂でアクセルを踏み込んだ。
熱い湯に身体を沈めると無意識のうちに声が出てしまう。ごつごつとした岩に背を預け、足を伸ばす。家にある小さな浴槽ではまずこんなことはできない。
視界に広がるのは雲一つない青空と、木々に覆われた緑豊かな山の姿だった。風呂の近くに桜の木が伸びていて、青葉が光を透かし揺れている。渓谷に面していることもあり、川のせせらぎが耳に心地良い。普段はうるさいだけの蝉の鳴き声さえ、いまは無くてはならないもののように感じた。
静謐の本当の意味とはこのことだと思った。枝葉の擦れ合う音が、川のせせらぎが、蝉の鳴き声が、音という音が背景となっていく。
「な、来て良かっただろ?」
隣に座り目を細める祐二が気持ち良さそうに身体を反らしながらいう。
手のひらで腕を撫でる。泉質のおかげですべすべとした肌が指先を滑らせた。
事故らなくて良かったよ、なんて皮肉めいたことでもいおうと思ったが、無粋だなと思いやめた。代わりの言葉を探してみたものの、祐二のその問いに言葉はいらないと思った。
祐二もそれ以上なにも聞かない。ただこの極楽のなかに身を委ねている。
湯から身体を引き上げ、背凭れにしていた岩に腰かける。じんわりと火照った身体の熱を緩やかな風がさらっていった。
祐二も俺を真似て岩に腰かけると、ふぅと一息をついた。
「なぁ、兄ちゃん……」
不意に声をかけられ祐二をみると、湯に沈んだままの自分の足を見下ろしている。足で湯面を揺らし、次に続く言葉を探しているようだった。
一分ほどだろうか、ずっと俯いていた祐二はゆっくりと顔を上げ、俺の両目を見詰めた。
「おれ、漫画家を目指してみようと思うんだ」
その瞳は決意と不安に揺れているような、そんな気がした。
「いまは兄ちゃんほど上手い絵は描けないかもしれない、でも兄ちゃんの部屋にあった沢山の漫画を読んでいてスゲェって思った。おれも描いてみたいって、あのときの兄ちゃんの気持ちがわかった気がするんだよ。あー、くっそ。なんでもっと早く気付けなかったんだろな」
驚きでなにも言葉が出なかった。楽しそうに目を輝かせ自分の手のひらを見詰めて話す祐二の横顔に、当時の自分の姿がすこし重なった気がした。
「それにさ、おれが頑張って上手くいけば、兄ちゃんの夢の続きをみせてやれるかもしれないだろ?」
俺は反射的に口をすこし開いただけで、言葉なんて一つも出てこなかった。夢の続き。俺にとってそれは想像以上に魅力的だったのかもしれない。とうに諦めがついていたと思っていたが、妙にそわそわと心を擽る。かつて連載枠を勝ち取ったときの情熱がいまだに心のどこかで燻っているような気がした。
「おれもさぁ、みてみたいんだよ。野球や大学を辞めてまで兄ちゃんが固執していたなにかを、情熱を向けられるものを。そしてその先になにがあるのかを、おれは知りたいんだ」
祐二が俺にどんな言葉を求めて、このことを打ち明けたのかわからなかった。祐二の選んだ進路を応援してほしかったのか、あるいは反対してほしかったのか。
そんなに甘い世界じゃない、その世界に身を置いていた俺自身が一番よくわかっている。しかし本当にそれが祐二の夢だというのなら、兄として応援してやりたいという気持ちも、また本物だった。
考えのまとまらない頭で、なにか言わなければと言葉を探していると、祐二は俺から視線をはずし山の方へと向けた。
「あ、電車が通るよ」
耳をすませばたしかに線路を踏む音が聞こえてくる。大自然のなかにその音は調和し、安らぎさえ与えた。前方の山中に伸びる線路を電車が走っているのだ。
木々の隙間からチラチラとみえるその車体に、俺も視線を持っていかれてしまう。電車が過ぎ去ったときには、なにを口にしようとしていたのか忘れてしまっていた。祐二はこの話は終わったとばかりに、冷めてしまった身体を再び温泉の湯のなかへと沈める。
夢の続き、か。口のなかだけで呟いて、俺も祐二を真似て肩まで湯に浸かるのだった。
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