第2話 漫画と野球

 おれは兄ちゃんが嫌いだった。成績優秀、スポーツ万能、ルックスだって悪くない。ガキの頃は憧れもしたが、高校生にもなると遠すぎる背中に嫉妬した。なにをやるにも兄ちゃんと比べられる。

 天才的な兄、平々凡々の弟。平凡なおれがいくら足掻いたところで、才能の差ってやつは埋められるもんじゃない。


    ○  ○  ○  ○  ○


8月13日〈四年前〉


 長い坂の上におれの家は建っていた。

 高校からの帰り道、汗を垂らしながら自転車で登りきると、親父と兄ちゃんが庭で焚き火をしていた。犬小屋の方では、柴犬のコロ助が舌を出して暑そうにこちらをみている。真夏のクソ暑いなか親父たちはなにやってんだと思っていたが、迎え火というものらしい。盆に先祖を迎え入れるためのアレだ。

 小学生の頃はじいちゃんとやっていた記憶があるが、中学に上がった頃から部活だったり遊んでたりしてこの光景を目にすることはなかった。「ご先祖様が帰る家を見失わないように火を焚くんだ」そういっていたじいちゃんも、いまや迎え入れられるご先祖様となってしまった。

「よう、祐二。久しぶり」

 おれに気づいた兄ちゃんは、軽く片手を挙げて口元を綻ばせる。おれは表情もなく手を挙げて返した。

 自転車を降りてシャツの袖口で汗をぬぐっていると「珍しいな、佳奈ちゃんは一緒じゃなかったのか?」などといって、兄ちゃんはポケットからタバコを取り出していた。ガキの頃ならまだしも、近くに住んでいるからといって、いつも佳奈と一緒に帰ってくる謂れはない。高校三年となったおれだが、兄ちゃんのなかではいつまでも年下の弟でしかないのだ。

「聞いたぞ。お前、真面目に夏期講習行ってんだってな」

「ああ、まあね。県予選の敗戦投手は、勉強ぐらいしかやることなんてねぇからな」

 兄ちゃんのときは甲子園準優勝だったよなっていう皮肉はたぶん届いていない。

 おれの高校は兄ちゃんの代から三年連続で甲子園に出場していた。それまではまったくの弱小校だったが、いまや県内でも屈指の強豪校。三年前の活躍にほだされ、県内の野球の上手いやつらが勝手に集まってくる常勝軍団となっている。甲子園出場なんて通過点にすぎないはずだった。

 なのにおれの代で連続出場記録はストップ。周囲の期待を裏切り、甲子園の土を踏むこともなくおれの夏は一足先に終わってしまった。

 悔しいが、兄ちゃんたちのときは本当に凄かった。富川第一、藤巻東、仙道育英。並み居る強豪校をなぎ倒し、甲子園決勝までぐんぐん進んでいくのだ。当時の新聞の一面には「脅威のダークホース!」だったり「県勢58年ぶりの快挙!」なんて文字がチームの写真とともにでかでかと載っていた。

 おれの言葉を別の意味で捉えたのか、兄ちゃんは眉をハの字に下げ肩をすくめた。

「そんな下卑たいい方するなよ。県予選だって祐二はエースとして最後まで投げきったんだ。俺はキャッチャー、どう頑張ってもピッチャーにはなれなかったんだから」

 チームキャプテンを務めたうえに、打撃では5割をこえる活躍をしといて、これが慰めになっているとでも思っているのだろうか……。兄ちゃんの言葉は、おれの耳には嫌味としか聞こえない。

 野球だけでなく頭も良かった兄ちゃんは、四年前に東京の有名な大学へと進学した。しかしなにをとち狂ったのか、昨年急に中退して漫画家を目指すといいだした。

 がっちりとしていた筋肉は衰え、いまは病的なまでに痩せこけている。毎年盆休みにしか地元には帰ってこず、しかも実家ですら漫画を描いているのだ。

 一度だけ『good night』という 月刊誌に兄ちゃんが描いた読み切りが掲載されたことがあった。けれどそれだけで飯が食えるほど甘くないってことは、高校生のおれでもわかる。甲子園で全国を沸かせたスターも、いまや貧乏なフリーターだ。

 迎え火を兄ちゃんに任せて、親父は玄関へと戻っていく。玄関先にある散歩用のリードを取ってすぐにまた顔を出すと、のんびりとした足取りで犬小屋へと歩いていった。それをみたコロ助が暑さも忘れて跳び跳ねる。早く散歩に連れていけと催促しているのだ。

「あいつはいつまでも元気だな」

 今年で14歳となる老犬を見詰め、兄ちゃんはタバコに火をつけた。

 昔は親父のタバコを煙たがっていたくせに、いまは自分も吸っている。かつての兄といまの兄とを比べてしまうと、なぜだかどうもイライラしてしまう。

「兄ちゃんの漫画、全然雑誌に載らねぇじゃん。ちゃんと描いてんのか?」

 兄ちゃんは夕空に紫煙を吹きかけ、細く尖ったあごを動かす。

「ああ、描いてるよ」

 散歩に出かけた親父とコロ助の後ろ姿を目で追いながら、口元には笑みを浮かべていた。わかりきっていた回答を聞くと、夏の暑さが増したように感じた。

「だけどまだまだだな、俺は自分に才能があると思いこんでいたらしい」

「そうかよ……」

 喉がカッと熱くなる。才能がないだと? ……じゃあおれにはなにがあるっていうんだ。

 漫画なんてものにうつつを抜かしてなければ、なんだってできたはずだ。野球でプロにだって、兄ちゃんになら夢じゃなかった。クソ田舎の貧乏農家で育った少年が、プロ野球選手になるなんて、それこそ漫画みたいなシンデレラストーリーだ。

 夕日が沈み山入端を紅く燃やしていた。蝉の鳴き声がうるさくて舌打ちをする。兄ちゃんがタバコの灰を指先で器用に落としている。おれは自転車を押して車庫へと向かった。坂のしたの方からコロ助の鳴き声が聞こえた気がした。

 車庫に自転車を停めていると、初めて兄ちゃんがタバコを吸っている姿をみたときのことを思い出した。

 去年の盆休み、実家で漫画のネームを描きながらタバコを咥えていた姿。兄ちゃんにタバコというイメージが全然なかったから、かなり驚いた記憶がある。

「な、なにタバコ吸ってんだよ兄ちゃん!」

 たしかに二十歳を過ぎていたから、法に触れているわけでもなかったが、おれにはそれだけ衝撃的だったのだ。

 兄ちゃんは顔を上げ振り返ると、真っ黒なクマのできた目元をたゆませ笑う。

「命燃やしてんだよ」

 そのとき描いていた漫画のキャラクターのセリフをそのままいって、背中を丸め続きを描き始めるのだった。

 自転車に鍵をかけて、車庫から出る。兄ちゃんはさっきと同じ場所で、燃え尽きようとしている迎え火を朧気な瞳でみていた。すぐそこにいるはずなのに夕日の逆光でその姿が黒くみえて、ずっと遠くにいるようだ。

 そんな姿に一瞥をくれ、おれは玄関へと向かう。

 空は徐々に暗くなっていく。この時間が嫌いだった。太陽が燃え尽きてなくなっていくような気がしてならなかった。いずれは消えてしまう炎のように、最後はすべて灰へと変わる。一日の終わりもおれのなかでは大差ない。

 高校までの兄ちゃんはおれの目からみても燃えていた。文武両道の鏡のような、おれなんか兄ちゃんの足元にも及ばない存在だった。

 それがいまはどうだ、大学で野球をするわけでもなく、大学を中退までして漫画家になるなんて世迷言をいっている。高校時代に兄ちゃんのなかの炎はすでに燃え尽きて、灰になってしまったのではないだろうかと思った。

「祐二!」家のなかへと入ろうとしていたところを呼び止められた。

 携帯灰皿でタバコを揉み消しながらおれの方をみている。

「いま描いてる漫画で、絶対に連載枠取ってやるからな」

 兄ちゃんの顔は暗く影が落ちていて表情まではよくわからなかったが、おれの瞳をしっかりと見据えるその視線だけはひしひしと感じた。

 取ってやるから、だからなんだというんだ。報われない努力をひたすらに続け、いずれ徒労に終わる時間だけが過ぎていく。バカな生き方をしている兄ちゃんの姿は、苛立ちを通り越して滑稽だった。

「ああ、楽しみにしてるよ」

 鼻で笑い、ただなげやりな言葉で返すと、兄ちゃんは満足したように頷き、タバコのパッケージからまた一本摘まみ出して咥えていた。

 兄ちゃんの愚行を正す責任などおれにはない。兄ちゃんの人生だ、本人が気づくまで勝手してればいい。そうわかっていながらも、言葉にならない感情が胸の内で渦巻いている。

 おれは靴を脱ぎ捨てて、風呂へと向かった。ベタつく汗を熱いシャワーで早く洗い流してしまいたかった。

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