真夏の陽炎に夢をみる
小玉 幸一
第1話 兄と弟
8月13日〈現在〉
年老いた電車の車窓からは、どこまでも田畑が広がっていた。遮るものはなく、遥かにそびえる山々の稜線までも、色鮮やかに窓枠に縁取られている。都会の街並みに目が慣れてしまうと、この風景からは現実味を感じられない。まるで遠い日の夢でもみているかのように俺の目には映った。景色は次々に後方へとながれ、不意にブラックアウトする。わずか数秒のトンネルのなか、俺はゆるりと目をとじて、瞼の内が光るのを待った。
「まもなく清岳、清岳。お出口は左側です」
車内アナウンスが懐かしい駅名を告げる。座席に座る小柄な老婆と目が合った。どこか親しみのこもった柔和な笑みに、俺も思わず微笑を返す。車体が停車し扉が開くと、けたたましい蝉の鳴き声とともにむっとした熱気が身体を包む。あまりの暑さに躊躇いつつも、ひと気のないホームに降り立った。
真夏の日差しは地面を焦がし、アスファルト上には陽炎が揺らめいている。そこらじゅうに夏の匂いが立ち込めていた。
下車したのは俺だけ。たった2両編成のワンマン電車を見送ると一気に視界が開ける。吹く風に木々は揺れ、草花がなびく。白雲は彼方上空を駆け抜けて、地上に淡い陰りを落としている。木造建ての小さな無人駅はあの頃と何も変わっていない。
荷物の詰まった重たいバッグを肩に担ぎ直すと、塗装の捲れたの跨線橋を使い駅舎側へと移動する。長旅の疲れからか、足取りはすこし重く首筋にはじっとりとした汗が流れた。
駅舎のなかへと入る。日差しから逃れ、緩やかな風が身体の熱をさらう。
「おかえり、兄ちゃん」
無人のはずの駅舎のベンチに、日に焼けた精悍な顔があった。俺はその声に片手を挙げて答える。
ちょうど一年ぶりに会う弟の祐二は顎髭を生やし、見違えるほど大人の顔をしていた。今年で祐二も22だ、いつまでも子供な訳がないと理解はしているものの、俺にとってはいつまでも4つ年下のガキだった。
「遅かったなぁ、実家の場所を忘れてんのかと思ったわ」
年に一度しか帰らない俺に、皮肉めいたことをいって祐二は笑う。その笑顔のなかにはまだ幼さが見え隠れしていて、俺もつられて笑ってしまった。
祐二はベンチから立ち上がると「ちょっと痩せた?」なんて、生意気なことをいいつつ手を差し出してくる。俺はその手にバッグを渡しながら、昔は俺の方が遥かに大きかったのになぁと、幼かった祐二の姿を思い出していた。
祐二につれられるようにして駅舎を出た。駅舎のそとには小さなロータリーと右手に駐輪場がある。駅前の通りには申し訳程度に居酒屋とスナックが一件ずつあるだけで、あとは民家が立ち並ぶばかりだ。
祐二は駅まで歩いてきたという、つまりは同じ道を歩いて帰ることを意味する。実家まで歩くと一時間近く掛かるのだが、たまには良いだろ? と俺の荷物を担ぎながらいわれると、それも悪くないような気がしてきた。
「あそこのコンビニ寄ってく? 昔はよく行ってただろ、あのおばちゃん店員まだいるんだぜ」「ここのラーメン屋、最近できたばかりなんだ。前はカレー屋、その前は喫茶店。その前は……なんだっけ? 兄ちゃん覚えてる?」「そういえば佳奈のやつもちょうど帰ってきてるんだぜ。あの佳奈が髪を伸ばし始めたんだ、笑っちゃったよ。ちょっと会いに行ってみるか?」
祐二と何気ない話をしながら俺は町並みをみていた。こんなにもゆっくりとこの町の姿をみて歩くなんていつぶりだろうか。
しばらく歩いていると小学校がみえてきた、俺たちも通っていた学校だ。夏休みの校舎には生徒の姿はない。
「この校舎も古くなったよな。たしか兄ちゃんが入学した年に建て替えたんだったっけ?」
無人の校舎を横目にみていると、祐二がおもむろにポケットからタバコを取り出して咥えた。
俺が訝しむ視線を向けると、ライターで火をつけようとしていた手を止めて祐二も顔をしかめる。
「なんだよ、兄ちゃんだって前は吸ってただろ? 吸いたいなら一本やるよ」
差し出されたパッケージはピーススーパーライト。四年前まで俺が吸っていた銘柄と同じものだった。
一本受け取り、祐二の灯すライターの火に先端を近づける。ゆっくりと吸い込むと葉がジリジリと燃え、ピースの甘い煙が肺へと流れた。細く長く紫煙を吐く。小学校の目の前で弟とタバコを吸っているなんてなんだか変な気分だ。
「兄ちゃん、はやくいこうぜ」
校舎をぼんやりと見上げていると、先に歩きだしていた祐二に呼ばれた。俺は踵を返し祐二のもとへと向う。
二人してタバコを咥え、幾度となく歩いた道をまた歩いている。
すべてが懐かしい、でもどこか違っている。そんな小さな変化と時の流れを感じながら、俺はかつての家路をたどった。
電車のなかに一人座っていたあの婆さんは、いったい何処に帰るのだろうかと思ったりもした。
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