過去からの楔

私は、本殿前の階段に腰掛けている。


隣にはクロが座っていた。


クロの過去を尋ねてから、おとなしくクロの背を追って更地から離れたけれど、

クロは正面の鳥居をぼんやりと眺めたまま何も言わない。


私は声をかけることができないまま、空に視線を逃した。


暗い空には、迷子が途方に暮れているかのように星が頼りなく瞬いている。


「俺は」


低い声が、静かな境内に唐突に響いた。


悲壮感がにじむ横顔に私の視線は否応なく吸い寄せられる。


「俺は、ここから出られない」


はるか昔に神の怒りを買って、力の一部を奪われてしまったから。


クロはそう言って、無残に折られた片方の角を示した。


「失った角は……、まあ、妖では決して触れられない場所に封印されている」


なんとも間抜けな話だろう?


クロは自嘲気味に笑った。


「だって、それは。そもそも悪いのは人間なのに」


私はたまらなくなって声を荒げる。


言ってしまってから後悔した。


クロの方を恐る恐る伺いみれば、やはり訝しげに顔をしかめている。


「ヒヒに、聞いたのか?」


返答に窮していると、彼は困ったように眉根を寄せた。



「俺は昔、ある村を治めていて、ヒヒは俺の部下だった。よく尽くしてくれたよ」


クロはどこか遠い目をしている。


「最期に何か、言ってたか?」


私は首を振る。


「そうか、恨み言の一つでももらえれば、気が楽になるんだがな」


クロの握り締められ拳から血が滴る。


「笑ってたよ、最期」


私はそっとクロの手に手を重ねた。


「そうか」


「ねえ、クロの好きな食べ物は?」


「急になんだ?」


「好きな動物は? 好きな」


「いっぺんに聞くな」


いつものクロだ。


「そんなことを聞いてどうする」


「だって、好きな」


好きな人のことならなんだって知りたいと思うから。


「いいから、クロのことなんでも教えてくれるって約束でしょ」


「本当に、お前は面白い」


私の頬を優しいぬくもりがなでていった。


離れていく熱が恋しくて、私は思わず手を伸ばす。


「今は、お前のおかげでさみしくはないな」


クロはいつか夢でみたような、顔中をくしゃりとさせて笑った。


私の手は空中でピタリと止まる。


クロは行き場をなくした私の両手ごと私を抱きしめた。


「ずっと、俺のそばにいてくれないか」


耳元でささやかれた声は、不安げに揺れていて、でも私を締め付けるクロの力は一層強まる。


「いや、でも……なずなさんは」


思わず口をついて出る。


「あいつは……」


クロの声は悲し気に揺れ、私の瞳を覗きこんできた。


あれ?


ふと、視界が回り始める。


強烈な眠気に襲われた。


そういえば、いつも間にか辺りは明るくなって、小鳥もさえずりを。


って、夜が明けて眠くなるなんぞ、まるで狐だな。


「おい、こんな時に寝る奴があるか」


クロの声が子守唄のように心地よく耳元で響く。


「おい」


肩をゆすぶられたが、それはゆりかごのように心地よいもので、瞼がゆっくりと閉じていく。


本当は眠りたくないのに。


私の意識は強引な睡魔に引きずられていった。


*****************************************************

ここは?


煙の臭いが鼻をくすぐる。


確か、夜は明けたはずなのにあたりは薄暗く、目の前の囲炉裏から細い煙が立ち上っていた。


「起きたか」


背中から低いことがして、抱きしめられる。


私はあっという間に大きな着物に包まれていた。


腰上あたりできつく締められた帯のせいで、少し息苦しさを感じながら、もそもそと体

を動かして、彼の大きな胸板に顔をうずめる。


ぴったりとくっつけた肌を通して伝わる鼓動が心地よい。


「なずな」


彼が、私いや彼女の名を呼ぶ。


笑いを含んだ甘い声に耳をくすぐられ、彼女は顔を上げた。


「おかえりなさい」


はじけるように笑って彼女は伝えるべき言葉をようやく口にする。


彼は満足げに微笑んだ。


その拍子に胸のあたりまで届く闇色の長い髪が彼女の鼻をくすぐる。


囲炉裏の赤に縁取られた白い肌に浮かぶ黒曜石の瞳が彼女だけを映していて。


整った唇が紡ぐ言葉も、金色の前髪をやさしく払う細い指も、今だけはすべてが彼女のもの。



奥底から満たされる充足感に彼女は酔いしれていたのだろう。


『だから、私は知らなかった』


どこからか、聞き覚えのある声が響いた。


『考えもしなかった。

彼の美しい顔が醜くゆがんでしまうことも、ガラスのように澄んだ瞳が怒りですり減りくすんでしまうことも』


急にろうそくの明かりが吹き消されたようにあたりが闇に包まれ、クロの姿が掻き消えた。


再び闇が払われたとき、世界は熱を帯び真っ赤に染まっていた。


狂ったように踊る炎の中心で、彼は髪を振り乱し、天に吠えていた。


彼女が好きだった艶やかでやさしい黒は、憤怒の嘆きとともに空気中に溶け出し、周

囲を穢していく。


多くの命がこぼれ落ちて、彼の敵がいなくなって、恵みの雨で炎が消えても、彼の瞳に宿った赤は消えることはなかった。


彼女は必死に叫んで、彼に手を伸ばす。


けれど、彼に届く前に指先からくず落ちて、彼女の体はなくなった。



『あなたは彼を不幸にするわ』


脳裏に刷り込まれていく映像におびえ、うずくまっていた私にどこからか声が届く。


顔を上げると、真っ暗闇の世界に金髪の巫女が浮かんでいた。


その顔は前髪で隠され、表情はよくわからないが、狐耳を天に突き立て、2本の尾を激しく揺らす様には畏怖を覚える。


『あなたはまた彼を不幸にするわ』


彼女は同じ言葉を繰り返す。


「あなたは……」


いつのまにか私と向かい合うようにしゃがんでいた女性は、真っ赤な帯に落ちた髪を手でかき揚げ背中に払うと、ふわりと笑う。


『だから、さっさと消えなさい。彼の前から』


彼女の声は胸をついてすとんと吸い込まれていった。


何も言い返せないでいると、彼女は立ち上がる。


「待って」


金髪を追いかけて視線をあげると、ちょうどかしいだ狐耳の間から、真っ赤なツツジが地面に落ちてきた。

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