狂い咲き
「そ、それで?」
私は唾を飲み込み、押し黙ったヒヒの言葉を待った。
「その後、どうなったの?」
「さあ。ただ、狂った鬼は命あるものを狩り尽くし、屍の塔を築いたと聞いた」
「そんなっ」
胸の奥が痛む。
ヒヒは、開いた口のふさがらない間抜けな私をその瞳に映して、意味ありげに笑う。
「クロは……」
私は戦々恐々とした目で先を促した。
「ああ、鬼の惨劇は、ある日突然終わったよ」
「高尚な僧がやってきて、命がけで鬼の角を折り、人間に請われた土地神がその角を隠して鬼を神社に閉じ込めたのさ。まあこれは1000年も前の話だが」
「1000年……」
「さあ、昔話は終わりだ」
ヒヒは、ゆっくりと立ち上がった。
「クロは、どうやったら解放されるの?」
私はヒヒに追いすがる。
「お前が、封印された角を取り戻せばあるいは」
「それはどこに?」
地に接するほど長く伸びた鬣をつかんで揺さぶった。
「鬱陶しいわ。それを今から確かめに……」
ヒヒが腕を払うと、鋭い爪先が頬をかすめていった。
一瞬の焼けるような痛みの後、新鮮な血の香りが漂う。
「お前は……」
ヒヒのくすんだ瞳に射貫かれた。
「人間か?」
地を這うような低い声が洞くつを震わす。
「ちょ、何を」
私はヒヒの長い腕に腰をつかまれ、宙に持ち上げられた。
「痛い」
髪の間から突き出した耳を引っ張られる。
「よく化けたものだ」
間近に迫ったヒヒの顔を睨むも、爪が体に食い込んだ。
「狐になって主に近づくなど、どこまで我らを貶めるつもりだ。人間っ」
「ちがっ」
キリキリと胸を締めあげられる。
口から血があふれた。
「まだ、殺さぬ。せいぜい役目を果たせ」
いつの間にか、ヒヒの背後には無数の黄色い目玉が浮かんでいて、
キィキィと、騒いでいる。
「離……して」
必死に体をよじって暴れた。
首筋に強い衝撃が走る。
視界が回り、瞼が勝手に閉じていった。
いや、いやだ、眠りたくなんか……ない。
最後のあがきで手に入れたわずかな視界に、黄昏色の空が映り込む。
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私は、いつの間にか神社を見下ろしていた。
煤で汚れ、ところどころ炭化した拝殿の前に鬼が腰かけている。
「主」
力なくうなだれる鬼の前に、大猿がひざまずいた。
「姉様の姿は、どこにも」
「俺だけ、のうのうと生きながらえて」
鬼は両手で顔を覆っている。
「主っ」
鬼がゆっくりと顔を上げた。
黒曜石のような瞳はうつろだ。
「主、しっかりしてください」
大猿は主の肩をゆする。
途端に大猿の手から黒い炎が上がった。
「手を放せ」
鬼は金切声を上げ、大猿の手を振り払う。
「このくらい、かゆくもなんともありませんよ」
「知っているだろう、俺は呪われた。妖は何人も俺には触れられない」
鬼の顔が苦痛にゆがんだ。
「これ以上、俺に殺させないでくれ」
握り締められた鬼の拳から血が滴る。
「これを」
大猿は、懐から一輪のツツジを取り出す。
「唯一焼け残ったものでございます」
鬼の瞳が白いツツジをとらえた。
「姉様は必ずお戻りになります。その時にこんな情けない姿を晒す気ですか?」
「……俺の部下は厳しいな」
鬼が立ち上がる。
「いつか必ず、ワシが貴方様を呪いから開放して差し上げます」
大猿の声は段々と遠のいていく。
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「あ、れ?」
ゆっくりと瞼を持ち上げると、神社の境内にいた。
「どんな浅ましい夢をみた?」
神経を逆なでする声と腰回りから伝わる痛みで意識が一気に覚醒する。
「ヒヒッ」
怒気をはらんだ声がした。
拝殿の前に立つクロは、斜に降り注ぐ夕日を受けて黒髪が赤く燃えているようだ。
クロ……。
胸がざわつく。
『私は、大丈夫だから』
唇を上下に動かしてみても、声がかすれた。
「その狐に何をしたっ」
クロが唸る。
「やっと、主を開放して差し上げられます」
ヒヒが夢ごとちな声で私を突き出す。
「これをあの岩場に放り込み、角の封印を」
「お前は狐を見殺しにするつもりかっ」
「主は騙されているのです。こ奴は」
「やめて」
私は最後の力で腕を闇雲に振り回す。
「だまれっ」
ヒヒに地面に叩きつけられた。
酸素の不足した体はだるく、鉛のように動かない。
「貴様っ」
地獄の底から這いずり出たような声がする。
狭まる私の視界には、片手で顔半分を覆い揺らぐクロの姿が見えた。
気を、失っていたのか。
鈍くうずく額に手をやり、ゆっくりと目をあけると、そこには地獄があった。
霧の真ん中に立ちすくむ鬼に向かって
何匹もの猿が突撃しては、切り伏せられる。
泣き叫ぶ猿たちの金切り声が耳を通って、脳を揺らした。
鬼から漂う黒霧は、猿どもを飲み込み、その体を砂のように崩していく。
「なぜ……」
背後からヒヒの声が聞こえた。
「クロに、何をしたのっ?」
私は、かすれる声で叫ぶ。
「何をしたとは笑わせるっ。これが人間のもたらした呪いというに」
ヒヒは、せき込んだ。
辺りに薄く漂う霧はヒヒの腕をも焼く。
「撤退してっ、もう勝負はついてるじゃない」
何とか足に力を入れて立ち上がる。
「お主は紛い物故、この霧に耐性があるのか」
ヒヒはクロを挑発するように、近くに落ちていた杖を投げつけた。
クロがこちらを向く。
クロの纏っていた濃い霧が私に到達し、妖の部分を焼いた。
「ああ゛」
苦痛に耐えきれず、膝をつく。
「良い気味だ、人間」
焦げ付いた匂いにむせて目をあければ、当然のように、ヒヒの腕も黒い闇に焼かれてただれていた。
けれど、ヒヒはうめき声すらあげない。
「しかし、なぜ主は貴様の命なぞにこだわるのか」
ただただヒヒは暴走するクロを見つめていた。
『ねえ、ヒヒ。ヒヒはどうしてそんなに黒様に尽くすの?』
ふとそんな言葉が頭をよぎる。
困ったように眉根を寄せるヒヒの顔が珍しくて……。
あれはいつの頃だったか。
「クロはどこか危なっかしいから支えてあげなきゃね」
いつの間にか口をついて言葉が出ていた。
「……なぜ、それを」
目を見開くヒヒと視線が交わる。
「ああ、そういうことですか」
ふとヒヒの表情が柔らかくなった。
「姉様には、かなわないですね。主を頼みます」
大猿の満足そうな声を最後に、彼の気配が消えた。
私の頬には、一筋の涙が伝ったけれど、それがなぜなのか私にはわからない。
「クロッ、もうこんなことは」
煙が喉につかえて、むせる。
ヒヒが消えても、子ザルたちはクロに向かっていっているのだろう。
死の霧が立ち込める中で、鬼の狂ったような斬撃音はやまない。
私の目の前に、子ザルが飛んできた。
地面に伏せてぐったりしている。
腹部がわずかに動いたから、まだ生きているっ!
私は子ザルに手を伸ばしたけれど、あと数センチが届かない。
霧の中からクロが、猿を追って現れた。
クロの剣が、子ザルの腹を貫く。
子ザルは血を吐き、焼けただれた手で喉をかきむしった。
「やめて、もうやめて」
クロは、うつろな目をしていた。
子ザルに何度も、何度も剣を突き刺し、猿の体が砂となって崩れさるまで、壊れたロ
ボットのように、何度も剣を振り上げる。
こんなのは、クロじゃない。
クロはこんなことしない。
壊れた鬼神は、血を塗りたくった頬を舐め、焦点の定まらない目をこちらに向けた。
クロは、耳元まで割けた口に犬歯をのぞかせて、笑った?
剣が、高く振り上げられる。
「イヤぁ」
私は目を固く閉じて、腹の底から叫んだ。
痛みは、なかった。
クロ?
私はゆっくりと目をあける。
暗い。
空には星が出ているのに、闇に放り込まれたように暗かった。
何度か瞬きを繰り返していれば、目がなれてようやく周囲の情景が見えてきた。
目の前に、クロはいない。
「クロ?」
よろめきながら立ち上がる。
誰もいないの?
耳を澄ませても、何も聞こえない。
記憶を頼りに、境内の坂を下りる。
鳥居をくぐると、外灯の下にでた。
向かいの居酒屋から暖簾をくぐって“スーツ”が現れる。
ああ、あれは人間だ。
「なんで……」
心がざわめく。
「クロ……」
今にも崩れそうな足を何とか御して、神社の境内に駆け戻る。
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