第4夜 狂い咲き
猿の昔語
私が洞窟に足を踏み入れるとすぐに目当ての妖が現れた。
「おや、お若い妖怪がこんな老いぼれに何用か」
くぐもった声が、洞窟に反響する。
知ってるくせに。
私は、足を踏ん張り精一杯虚勢を張ってみせた。
「で、何が知りたい?」
奥から風がふいたと思ったら、ヒヒのしゃがれた声が続いた。
「なんでクロは囚われているの?」
挑むようにヒヒを睨み返す。
しばらくの沈黙の後、下品な笑い声がした。
「よかろう。あやつの過去ついて教えよう」
私は近くの岩に腰を下ろして、耳を澄ませる。
「それははるか昔、まだ妖怪と人間の世界が分かたれてはいなかった時代の話だ」
ヒヒのしゃがれた声は、昔語りには妙になじんでいて、美しい詩を聞いているような心地になる。
気づけば私は目を閉じ、物語に思いをはせていた。
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「お姉ちゃんは、僕と虫取りに行くんだ」
「ちがうもん、私と花摘みに」
両袖を童にひかれ、困った様子の姉様がいる。
「ごめんね、今日は他に用事があって」
「姉様、本当に行くんですか?」
ワシは目の前で子供たちと戯れている巫女様に声をかけた。
「当たり前じゃない」
「お姉ちゃん、どこかに行っちゃうの?」
小童が、姉様の袖を引き、物悲しそうに姉様を見上げている。
「黒様を迎えに行くのよ。皆も早く会いたいでしょう?」
姉様は、しゃがみこんで小童らの頭を撫でた。
「小童ども、母が待っているぞ」
ワシは戸口に立つ女性を示した。
『お母さん!』
小童らが、扉の方に駆け出し、女性に抱きつく。
「姫様、いつもありがとうございます」
女性は深々とお辞儀をした。
子供たちも親を真似て頭を下げている。
「またね」
姉様は、手を振り小童らを見送った。
「で、やっぱり出迎えに行くんですか? 主はまだお帰りでないと」
「今日明日にも急ぎ帰るって、文に書かれていたわ」
赤い瞳に真っ直ぐと、見据えられる。
「はあ、分かりました」
やれやれ、この巫女様は。
「ありがとう、ヒヒ」
姉様は瞳を輝かせ眩しい笑顔を浮かべる。
この愛らしい笑顔が病みつきになるから困ったものだ。
「ただし、見に行くのは峠までですよ。壁の外は危ないですから」
「わかってるわ」
姉様の豊かな2本の尻尾が、忙しげに揺れていた。
『火事だあ』
急に外が騒がしくなる。
「ちょっと様子を見てまいります。姉様はここでお待ちを」
ワシは、今にも飛び出していきそうな姉様を制して外に向かった。
「一体、何事だ」
通りの男を捕まえて、話を聞く。
「なんでも峠の方から火が飛んでくるっていうもんで」
「ふらり火か?」
あやつはこんな山奥に出るような奴ではないはずだが。
「に、人間だ」
村の門から悲鳴のような声が上がる。
「敵襲、敵襲」
非常を告げる鐘が鳴り響く。
「ヒヒ?」
姉様が戸口から顔を出した。
「出てきてはいけません」
目を見開く姉様。
背後から風を切る音がして、ワシは自分の体で姉様を庇う。
抉られるような痛みに、歯を食いしばった。
「ヒヒッ!」
姉様の悲鳴がワシを正気に戻す。
「あ、姉様は皆を連れて逃げてください」
背中に刺さった矢を力任せに引き抜いた。
「でも……」
姉様は顔を蒼白にしてこちらを見上げる。
「ワシは、強いですから」
ドンっと胸をたたいてみせる。
強すぎて咽せてしまったが、
姉様は深くうなずくと真っ赤な瞳に熱を宿してワシに背を向けた。
どれだけがむしゃらに腕を振り回しただろうか。
何人なぎ払っても人間は湯水のごとく現れる。
亡霊のように蒼白い顔で、ワシの懐に飛び込んできた最後の一人をワシは掌で叩き飛ばした。
「ヒヒッ! 無事ね」
朗々とした声に思わず、視線を向けると、姉様がいた。
着物のあちこちは擦り切れ、すすだらけになっているが、凛と立つ姿は息を飲むほど美しい。
「なぜ、戻ってきたのですか」
眉根を寄せるワシを、姉様は挑むように見返した。
「皆は、逃した。だけど」
柔らかな唇を噛み締めて、姉様は唸る。
ああ、こんな悲劇は夢であればよいのに。
ワシは震える姉様の手をそっと握る。
不意に姉様のキツネ耳が真っ直ぐ天に向かって立つ。
「帰って、きた」
姉様はポツリと呟いた。
「姉様?」
「ヒヒ、黒様の足音が聞こえるの」
伏せられていた瞳に光が宿る。
「こっち、早く」
姉様は立ち上がり、ワシの手を力強く引いた。
程なくして、村の門が見えてくる。
堀で囲まれた村の唯一の入り口には、同胞だったものが力なく転がり、矢が地面を針山に変えていた。
炎が渦巻く中で複数の影たちが踊っている。
中央には華やかな着物の袖を優雅に揺らし、舞う鬼がいた。
彼が剣を振るう度、あたりは赤く染まる。
ほんの数刻で、動く影はただ1つになった。
「黒様っ!」
姉様が鬼の下に駆けだした。
「……なずな」
主は刀を握った手とは反対の手で器用に姉様を受け止める。
「ヒヒも無事だったか」
ワシは軽く目礼をした。
「黒様、皆が、皆が」
「……ああ、わかっている」
主は目を細め、姉様をきつく抱きしめる。
「無事で良かった」
いつも気丈な主の肩は震えていた。
「ヒヒ」
主は、ワシを真っ直ぐに見る。
「なずなを、頼む」
ワシは姉様の小さな背中を眺めた。
「そんな。黒様は」
「俺は亡き同胞たちを残しては行けぬ」
主は優しい目をして、ぐずる姉様をなだめた。
風が吹く。
何がワシの耳横を過ぎた。
目で追った先に、姉様を庇う主の背中がある。
「主っ」
伸ばした手を矢尻はすり抜けて、
肉の裂ける音がした。
黒い着物にみるみると赤いシミが広がる。
「これくらいどうということは、ないっ」
肩から生える矢に手を伸ばした主は、ふいに膝を折る。
剣を地面に突き立て、身体を支えた。
「黒様」
姉様が掠れた声をあげる。
ワシは矢の来た方を振り返り、とっさに近くの瓦礫を放る。
敵が串刺しになるのを見届け、主に駆け寄った。
「今矢を抜きます」
ワシは主の背中に無遠慮に突き立った矢に手を伸ばす。
「駄目だ、ヒヒ。その矢は……」
触れた指先から激痛が走り、ワシは矢から手を離してしまった。
矢からはどす黒い瘴気が吹き出し始める。
「呪だ」
主は短く呟くと、姉様を突き飛ばした。
「何を、なさるか」
ワシは反目して、主に食ってかかる。
が、主の真剣な眼差しに迎えられた。
「……皆を頼む」
終には、主は邪気に飲み込まれてしまった。
ワシは深く頭を垂れ、主に背を向けた。
「姉様、立てますか?」
ワシは、地べたに座り込んで茫然と前方を見つめる姉様に声をかけた。
「ヒヒ、黒様は?」
姉様の視線の先には黒い邪気を纏い虚な傀儡があった。
「呪に蝕まれました、あれはもう」
「黒様は死んだというの? 嘘よ」
「ここにいては危険です」
ワシは姉様の細い腕をとる。
「嫌よ、まだ黒様は」
姉様が無茶苦茶に腕を振り回した。
「お願い、行かせて」
「姉様にはあれが見えないのですか。どす黒い邪気をまとって、あれはもはや主ではありません」
鬼の咆哮がこだまする。
「放して」
姉様は揺らぐことのない炎を瞳に宿してワシを見上げた。
「これは、命令よ」
低く響く悲しい声はワシの脳裏に焼きつく。ワシは自然と手を緩めていた。
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