なずな

「ねえ、私がクロの役に立てるって本当?」


階段を下り、参道にたたずむクロに近づく。


「その話は忘れろっ」


クロはそっぽを向いた。


「あの大猿とは、知り合いだったの?」


黒い着物の袖を捕まえる。


「お前には、関係のないことだ」


抑揚のない声。


「そう、だけど」


少しくらい教えてくれてもいいじゃんっ!


踏み潰されたツツジを拾って、クロに押し付ける。



雨が、ポツリ、ポツリと降り始めた。


あっという間に激しさを増す。


クロは壊れ物を扱うように、優しく傷だらけのツツジを懐にしまうと、拝殿へと歩きだした。


クロの背中を追って、軒下を目指す。


「きゃっ」


水分を含んだしっぽに足を取られて、

こけた。


ああ、格好悪いな。


立ち上がる気力も無くて、

容赦なく雨に打ち付けられたまま地面に伏す。


「ドジな奴だ」


私の狐耳は雨音に交じって、皮肉な声を拾った。


別にいいもんっ。


両腕に力を入れて、重い頭を持ち上げる。


目の前には、不器用に差し出された手のひらがあった。


「クロ……」


ためらいがちに腕を伸ばせば、ぐいと引き上げられる。


二人で拝殿の下に避難した。




「雨、ひどいね」


拝殿の屋根からは滝のように水が滴り、まるでカーテンのようだ。


「……さっきはありがと」


ちらちらと隣を窺えば、

クロは額の右側を押さえて目を閉じている。


「角、疼くの?」


「いや」


クロはゆっくりと瞼を持ち上げた。


「雨の日はましだ」


クロはそういうけれど、口は堅く引き結ばれている。


「やっぱり、私が……、私なら角を、くしゅん」


濡れた衣に急速に体温を奪われ、震える体を両腕で抱きしめた。


「社の奥に巫女の装束があるから、着替えるといい」


「クロは?」


クロの正面に回る。


「俺は、この程度何も問題ない」


またもや、そっぽを向かれた。


「だから、さっきからなんで顔をそらすの?」


身を乗り出して、クロの顔を覗きこめば、その横顔が朱に染まる。


「早くいけ。そんな恰好でうろつかれたら迷惑だ」


改めて自分の格好をたしかめると雨で濡れたワンピースから下着が透けて見えていて……。


「ひゃっ」


慌てて両手で胸を隠すと、クロの横を突っ切って柵を飛び越え、拝殿の奥へと走った。




拝殿の奥のよくわからない空間で巫女服に着替えて、濡れたワンピースを包む。


「これをどこかに干したいのだけど」


衝立から顔をのぞかせて、クロを呼んだ。


「ねえ、クロってば」


腕を組み、壁にもたれかかっていたクロがこちらを向く。


「……」


真黒な瞳が徐々に見開かれた。


「似合わない、かな」


気恥ずかしさを覚え、うつむいて袴の紐をもじもじといじる。


「……なずな」


クロの口から今まで聞いたこともないくらいの柔らかな声が漏れた。


「えっ?」


硬直する私に、クロは静かに歩み寄る。


クロは胸元から、ツツジを取り出すとそっと私の髪に差し入れた。


「やっぱり、お前は」


私を見下ろす黒い瞳に、私は映っていない。




「ねえ、なずなって、誰?」


髪を優しく撫でていたクロの手が止まる。


溢れそうな感情を無理やり押さえ込んだのか、クロの顔は今にも崩壊しそうだ。


「すまない、今のは忘れてくれ」


何で、そんな絶望した顔をするの?


「ツツジはなずなさんとの思い出なの? だから、取ってきて欲しいって言ったの? 私はなずなさんじゃないのにっ」


奥底から湧き上がる醜い感情に支配されるまま、叫ぶ。


言ってしまって口を押さえる。


それでも吐いた言葉は消せなかった。


「そう、だな」


クロは寂しげに呟くと、

ふらふらと離れていく。


「ちがっ、そうじゃなくて」


クロをただ喜ばせたかっただけなのに。


「待って」


伸ばした手の先の景色が歪む。


轟々と燃え盛る炎がちらつき、思わず左目を押さえた。


あれ?


瞬きをすると、見慣れた板の間の景色が返ってくる。


今のは、一体?



あの大猿なら何か知ってるだろうか。


雨があがったらヒヒを訪ねよう。


心の中で拳を握る。


*****************************************************


わしは洞窟の湿っぽい空気を肌で感じながら、まどろんでいた。


いつのまにか意識は、在りし日の愚かな自分に重なっていく。


「姉様、無駄です。主はもう」


躯の上で狂ったように吠える主を視界にとどめながら、わしは姉様の腕を引く。


「放して、ヒヒ」


狂ったように暴れる姫を自身の体で覆うように包み込んだ。


いつも凛として主の隣に立っていた姉様は、こんなにも華奢だったのか。


「もはや狂気にそまった鬼を止めるすべはありません」


言葉にならない激情を押さえつけて、努めて冷静にふるまう。


「お願いよ、私を彼の下へ行かせて」


振り上げられた姉様の傷だらけの手首をつかんで押しとどめた。


「これ以上はお体に障ります。だからどうか」


周囲の空気を喰らい燃え盛る炎の合間に、鬼の慟哭が聞こえた。


「ヒヒ、放しなさい」


姉様はまっすぐにワシを見る。


「これは、命令です」


赤い瞳は怯むワシの姿を暴いて、静かに告げた。


思わず手の力を緩めてしまう。


すかさず姉様はワシの手を払いのけ、駆けだした。


その背中がどんどんと遠くなる。


崩れた瓦礫で姉様の姿は掻き消えた。



ああ、どうしてワシは、あの時姉様の手を放してしまったのか。


「ずいぶん昔の夢をみた」


瞼をあけても、闇しかない。今では光をほとんど捉えない瞳には、赤く揺らめく炎が焼き付いていた。


一呼吸すれば湿り気のある空気が喉を伝い、わが身を安堵させる。


入り口に意識を戻すと、軽快な足音が響いてくる。


「さて、久々の客人を迎えねばなるまい」


ヒヒは重い腰を浮かせると、自由の利かなくなった足を引きずり、洞窟の入り口に向かった。

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