第3夜 ツツジ
ツツジ
社の立派な欄干にもたれて、目の前に広がる池をぼんやりと眺める。
雲ひとつない空から降り注ぐ太陽の光が、水面を踊っていた。
「うーむ」
右手の甲を空にかざしてみる。
そこには、焼印のごとく赤い花が刻まれていた。
相変わらず、派手な模様だ。
「あれ?」
右手を近づけたり遠ざけたりして慎重に観察する。
「5枚しかない」
右手に咲いた赤い花は、いびつに花弁が欠けていた。
「7枚あったと思ったんだけど」
模様を太陽にかざしたり、軽くつねってみたりするが別段変わる様子はない。
「これは一体……」
欄干に顎をのせて、うなる。
「何を間抜けに吠えている?」
足音もなく、隣にクロが立つ。
「あっ、クロ」
クロは、形の良い眉を僅かに崩して呆れ顔だ。
「……何だ?」
欄干に肘を乗せ、頬杖をついたクロの顔が目線の先にくる。
陽光を存分に吸収する髪は漆より黒く、肌の白さを際立たせていた。
切れ長の瞳からは、どことなく貴賓が漂う。
あっ、意外にまつ毛は長いんだな。
この顔は脳内メモリに永久保存っと。
「!?」
大きな手が伸びてきて、わしゃわしゃと髪ごと耳を撫でられた。
人の頭を撫でくりまわすなんて、無礼にも程があるのに。
「ふえー」
緩みきった顔で、間抜けな声を上げてしまう。
「く、くっ」
おいっ、堪えきれなかった笑いがもれていますよ。
「そこ、笑うとこじゃないっ」
自然と頬が膨らむ。
「いや、お前が来てからは退屈しないと思ってな」
クロは涼しげな笑みを浮かべている。
「そう、なんだ」
思わずにやけてしまった。
クロが不意に境内の外に目を向ける。
「どうしたの?」
視線をたどると、垣根の影に何かいた。
「……猿? こんなところに」
急にクロに腰を引かれる。
「ちょっと」
「あまり見るな」
猿を追うクロの瞳はどことなく険しい。
「ねえ、クロは」
なんで、呪われてるの?
「なんだ?」
秀麗な顔がこちらに向けられた。
「いや……」
ワンピースの裾を握りしめる。
聞きたいことはたくさんあるのに、真黒な瞳がこれ以上踏み込むなと言っているようだ。
「いや……。そろそろ家に帰ろうかなって。クロ?」
何故かクロは悲しそうな顔になって、
ってそんなわけないか。
「……そうか、まあお前がここにいる理由は無い、か」
「また、戻ってくるから。あっ、何か持って来ようか?」
「いきなり、なんだ?」
クロはいぶかしげな視線をよこしたが、私が黙っていると、考え込むように腕を組む。
「なんでもいいから」
身を乗り出すと、クロの顔が間近に迫る。
あ、やばい。
暴れる心臓を押さえ付けた。
「そうだなあ」
彼は、手近なところにあった細い枝をつかむ。
その先についていた豆粒ほどのつぼみをもてあそびながら、口を開いた。
「ツツジが見たい」
「そんなのここから少し歩けばたくさん……」
困ったように笑うクロと目が合う。
そうか、クロはここから出られないんだ。
水面を撫でた風が微かな冷気を含み、顔を打った。
境内は相変わらず穏やかな時間が流れている。
だけど。
鳥居の外に目を向ければ、ビル群が立ち並び、この神社だけが世界から取り残されてしまったようだ。
「ツ、ツツジくらいお安い御用だよ。待ってて、直ぐに」
クロの返事も待たずに、私は駆け出した。
拝殿の階段でつんのめった勢いのまま、境内から転がりでたのだった。
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「よしよし、大漁大漁」
アパートから、山の方に5分ほど坂を登ったところ、道沿いにツツジが咲き乱れていた。
「クロも一緒に来られれば、飽きるほどツツジが見られるのにな」
所狭しと並ぶ花をかき分けて、1輪の付け根に指を差し入れる。
「もしもし、そこの御仁」
しゃがれた声に呼び止められた。
「そう、身構えなくとも何もしない」
恐る恐る振り返ると、そこには2メートルはあろうかという猿がいた。
いや、地面まで伸びる長い毛のせいで毛玉みたいだ。
「何か」
不意に、大猿の顔が近づく。
幾重ものしわにつぶされていた瞳が、見開かれた。
「お主、なぜあの鬼に近づく?」
燻んだ瞳で直視される。
「鬼って……クロのこと、ですか?」
「ほお、お主はあの鬼を”クロ”と呼ぶのだな」
大猿は顎髭をさする。
「用がないなら、これで」
背中を駆け上る悪寒に、私は逃げようとした。
「ちょ、何を」
長毛の中から太い腕が伸びてきて、私の肘を掴む。
「お主、鬼に触れるようだな」
「放してっ」
思いっきり腕を振り払い、大猿から距離を取った。
「別段変わった力は無いようだが。まあ、良い。またすぐに会おうぞ」
用は済んだとばかりに、大猿は背を向ける。
私は目についたツツジを一房ちぎって、その場から一目散に駆け出した。
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「クロ?」
神社についた頃は、既に夕方だった。
「戻ったよ?」
境内は真と静まりかえっている。
拝殿の裏に回れば、クロはすぐに見つかった。
「ク……」
呼びかけて、やめる。
彼はいつもの特等席の枝に腰掛けていて、
いつかの干からびた花を見つめていた。
「なずな」
クロは目を細め、口を綻ばせている。
私の知らない顔だ。
「おいっ」
拝殿横で固まっていた私は、数分もしないうちにクロに見つかった。
「ずいぶんのんびりとしていたな」
彼は木から降りて、こちらにやってくる。
近づく度に、彼の眉間のシワが深くなった。
「誰に会った?」
「えっ、大猿に……」
声が尻すぼみになる。
「何か言われたか?」
「別に、ただ私がクロに触れるかって」
突然、鳥居や横の垣根から黒い影がたくさん飛び出してきた。
瞬きする間に、猿のような奴らに囲まれてしまう。
奴らは一斉に下品な笑い声を上げた。
クロが咄嗟に私を背にかばう。
素早く振り下ろされた猿の爪は、
クロの刀に弾かれた。
脇を抱えられて、彼とともに後方に飛べば、先程まで私がいた場所は参道のコンクリートごと抉られている。
「あっ、花が」
落とした花束を追いかけようとすると、クロに制される。
「離れていろ」
クロは、私を拝殿の階段に下ろすと、猿の輪の中に飛び込んでいく。
彼が刀を抜くと、一瞬で猿どもは切り伏せられた。
鬼を中心にして、血の花が咲いているようだ。
心がざわついた。
また、クロがおかしくなってしまうような……。
また?
「動くな」
クロの鋭い声が駆け寄ろうとした私を止める。
彼は剣先を鳥居に向けた。
「これは、これは」
しゃがれた声とともに、鳥居から大猿が現れた。
「あっ、毛玉」
思わず叫ぶと、毛玉もとい大猿にギョロリと睨まれる。
「部下どもは、手ひどい歓迎を受けたようですね」
大猿は、境内に転がる死体を器用に避けて、クロの前までやってきた。
杖を突いて足を引きずっているのに、スキが全く見当たらない。
「角を折られてだいぶ力を削がれたはずが、まだしぶとく生きていたのですかな?」
大猿は、クロに顔を近づけると耳障りな笑い声をあげた。
「今更何の用だ、ヒヒ」
彼の肩は微かに震えている。
「そこのキツネは、貴方様に触れられるとか」
大猿がそこで一旦言葉をきる。
「彼女なら、角を取り戻せるのではないかね」
「だまれ」
クロの刀剣が一閃した。
大猿はそれを難なくかわす。
「なるほど。情でも移ったか」
大猿の顔がこちらを向いた。
心の奥底を無遠慮に撫でまわされたみたいで気持ちが悪い。
「たしかに、姉様と同じ妖ではあるが……」
ヒヒは地面に転がっていたツツジの花束を踏みつけた。
「おい、そこのキツネよ。鬼の力になりたくはないか」
「えっ、それはどういう」
「去れ」
クロの冷たい声が、ヒヒを射抜く。
「やれやれ、また日を改めて」
「ちょっと」
私が言葉をつづける前に、生き残った子ザルが大猿の袖を引く。
大将の姿が鳥居の向こうに消えると、他の猿たちも手足を引きずりながら撤退していった。
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