2

 たくやの声がする。

 聞き覚えのある優しい声。

 私を呼んでいる?

 もう、まだ寝てるってば。

 もうちょっとだけ寝かせてよ。

 だって目を開けたら……

 目を開けたら……



あなたのいない世界が広がっているでしょ?

 

 

 

 思いっきり息を吸って飛び起きた。思わずむせてしまう。どうやら気を失っていたのか?落ち着くために机にあるペットボトルに手を伸ばす。……あれ、力が入らない。思いっきり転んでしまった。目の前に、床に落ちた目覚まし時計が入り込んだ。時刻は2:00を指している。落ち着け。まずは状況を整理しよう。

なんで窓が開いているのか?

たくやが昨夜入ってきたからだ。


不自然に椅子があるのはなぜ?

たくやが登ったからだ。


たくやは今どこに?

………………!


 勢いよく上を見る。

 水だ。まだ残っている。そうだ。たくやは吸い込まれたんだ。真っ黒な水が、小さく揺れている。私はメガネをとった。ぼやける視界が一気に明瞭になる。水に映り込んだ私の顔は、今までで一番惨めであった。涙で目が真っ赤である。

 私は水を睨んだ。たくやはどこにいるんだ。どこに引き込んだんだ。教えろ。教えろ。教えろ。


『知りたいのなら入ってみろ』


 そう言うかのように、水の揺れは激しくなった。

「ほう。なるほど」

 おもしろい。いいだろう。私は椅子を掴んだ。ふらつく足に力を入れ、踏ん張った。


私は水に手を伸ばした。


 水は指先から絡まりつくように襲ってきた。冷たい!着ていたパジャマが途端に水を含んでいくのを感じる。水はたちまち全身を覆い、猛スピードで私を運んでいる。苦しい。息が続かない。私死ぬのかな。不安ばかりが押し寄せる。寒い。どこまでいくの。

『……り……!』

 誰の声?誰かが喋っている

『……かり……!』

 私の名前?誰?誰が呼んでいるの?

「あかり!」

 腕が引っ張られた。勢いよく咳き込む私。

「よかった!大丈夫か?」

 声の主は、数時間前に突然いなくなったたくやそのものだった。ずっと聞きたかった声に私は安心して、また泣いてしまった。

「お、おい、どこか痛いのか?」

「ううん。違うの」

 涙を拭いながら私は答えた。

「たくや、よかった。また会えた」

「うん。俺もあかりに会いたかった」

 しばらく二人で抱擁を交わした。たくやの匂い。ちょっと汗臭いけど、やさしい大好きな匂い。よかった。本当によかった。

「心配したんだからね」

「うん。ごめん」

 たくやの肩で何度も泣いた。何度も。何度も。

 どれくらい経っただろうか。ふと、周りを見渡した。

「ねえ、ここどこ?」

「うん。それなんだけどさ」

 足元は水が広がり、私の膝ギリギリまで水量があった。あたりは真っ暗、ほとんど何も見えない。ただ。

「星が綺麗……」

「まったくだ……」

 満点の星空が広がっていた。月の光にも邪魔されない、水面にも映り込む美しい星々はまるで、空から降ってくるように私たちを錯覚させた。私たちは無言で立ち続け、星々を見上げていた。

 無言に耐えきれなかった私は、星の明かりでぼんやりと写っているたくやの顔を見て、私はギョッとした。

「たくや……なんでそんなに怖い顔するの……」

「……ん?あれ?俺怖い顔してた?」

「うん……怖かったよ……」

「ごめんごめん」

 そう言いながらも、たくやの顔はまだ強張っていた。そして彼は何かを呟いた。

「……あかりは俺が守る」

 そう言っているように聞こえたが、特に確証もなかったので何も聞かないことにした。


 「ちょっと歩くか」

 突然彼が提案してきた。私が寒くて震えていたのに気づいたのだろう。私は無言でうなずき、彼と歩き出した。水の音のみが空間に広がる。根拠はないが、どこまでも果てしなく続いているように感じていた。

「寒い」

 思わず口に出してしまうほど、足元は冷たくなっていた。

「もう少し我慢してね。ごめんね」

 彼は何かを知っているような口ぶりで私を励ました。

「ここにたくやは来たことあるの?」

 自分でも言っている意味がよくわからないほど、酷い質問をぶつけてみた」

「ここかぁ。このタイプは二年前に一度だけ……」

 そう言いかけて彼はハッと何かに気づき、突然訂正し出した。

「い、いやぁ。やだなぁ。こんなところ初めてに決まってるじゃん!」

「あるのね」

「ハイ。アリマス。スミマセンデシタ」

 私に嘘をつこうなんて百年早いわ!

「そのときは、なんで来たの?」

「うーん。まあ」

 そこまで言うと彼は少し間を開け、考えるような仕草をしながら答えた。

「まあおんなじ感じかな。知り合いももおんなじ目にあってさ」

「そのときはどうやって脱出したの?」

「脱出?」

「ほら、この空間よ!この明らかにおかしい空間!この空間から、私たちの過ごす世界にはどうやって帰ったのよ!」

「うーんと」

 また考え込む彼。

「ちょっと言葉では説明しにくいんだよなぁ」

「どういうこと?」

「いやぁ、この空間自体言葉で表すのが難しいからさ」

「今絶対ごまかしてるでしょ」

「ハイ。ゴマカシテスミマセンデシタ」

 私に嘘をつこうなんて百年(以下同文)

「でもその方法なら必ず出れるのよね?」

「まあ理論上は」

「ならその方法を試さない手はないよね!」

「まあそうなんだけどね?」

 と、彼がそう言った瞬間。彼の目つきが変貌した。鋭い目は、闇の中をじっと見ていた。

「え?たく……」

「何者だ!」

 今までに聞いたことのない、たくやの殺気立った声に私は驚いてしまう。

 真っ黒な闇が、静かに動き出したように見えた。

「あかり、俺の後ろに下がってろ」

 たくやは合掌し、何かをぶつぶつ呟き始めた。すると、驚いたことに闇は低くなっていき、唐突に声を発した。

「斎藤様、どうかおやめください。我々は妖狐会の者でございます」


…………私には訳がわからなかった。

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