星の降るこの世界で、僕らは何を感じるだろう。
なまけぐま
1
何かがおかしい。そう感じたのは私が高校から帰ってきて間も無くのことだった。いつものように制服を脱ぎ捨てた私は、ふと天井を見た。シミだ。それもかなり大きい。椅子の上に乗り、触ってみた。冷たい。ひどく濡れている。昨日このシミがあったなら、今のようにすぐに気づいているはずだ。ましてや、雨漏りなんてありえない。ここ数週間、雨はおろか曇りになったこともほとんどなかった。私は首を傾げた。それなら故意的に誰かがしたことになるだろう。一体誰が、なんのために私の部屋の天井を濡らしたのだろうか?
私の家は一戸建て。そして私の部屋は二階で、ここが最上階である。上に部屋はない。つまり、濡らすには私のこの部屋に入らないと不可能なのだ。家には母がいつもいて、屋根に穴を開けるにしても、それ程の大きな音ならば気づかないわけがない。
私の中には不安というより、不思議に思う好奇心の方が勝っていた。私は母を呼んだ。
「お母さん!ちょっときて!」
「なぁに?」
「なんか天井が濡れてるの!」
「濡れてる?あなたまた何かやらかしたの?」
「やってないよ!とにかく見て!」
ゆっくりと階段を上がる音が聞こえる。
「入るわよー?」
「うん」
母は部屋に入り、天井を見上げた。しばらくキョロキョロと見渡した後、こう告げたのだった。
「どこが濡れてるの?」
ほう、なるほど。どうやら私にしか見えないのか。ベッタベタなSF小説のような展開に、私は少し心を躍らせる。
「ここ!見えないの?」
私はシミを指差した。
「見えないわよ。あなた熱でもあるんじゃないの?」
出た。お決まりのセリフだ。家族は決まってこういう時に風邪を疑う。フィクションものの鉄板だ。私もそれに則り、答えることにした。
「見間違いだったのかも」
「そうよ。ほら、もうすぐご飯になるからやることやっちゃいなさいよ」
母が部屋から出て行った。私はそれと同時に窓を全開に開け、思いっきり彼の名前を叫んだ。
「たくや!」
しばらくして、私の窓との距離が一メートルもないお隣さんの窓が開いた。
「どうした?」
少々気怠そうな少年が顔を覗かせた。私の幼なじみの斎藤卓也だ。
「ねえ聞いて聞いて!すっごく面白いことがあったの!」
「はぁ」
「なんかね!上の天井にさ、でーっかいシミがあるの!」
「天井は上にしかねーだろ」
「でね!そのシミ、私のお母さんには見えなかったのよ!」
たくやは少しその言葉に反応したように見えた。
「下手な小説の読みすぎじゃね?」
「いいから!ちょっとあんた窓からこっちに入ってきなさいよ!」
「は?バカやめろ!俺は女子の部屋にあんまり入りたくn……」
「うわぁ……」
たくやは明らかに驚いているようだった。私の部屋の真っ黒なシミ。明らかに不自然に存在する大きな黒い形には、吸い込まれそうな感覚を覚える。
「これ最初っからこの大きさ?」
彼が聞いた。
「あれ?さっきより大きくなってるのかな」
私は目を擦った。うん。大きくなっている。
「この家築何年だ?」
「私が生まれて二年後に建ったらしいわよ」
「最近だな……」
老朽化の線はこれで潰れただろう。いまだに友人を家にあげると
「わぁ!木のいい香り!」
と決まっていう程だ。そう簡単に朽ちてもらったら困る。
「とりあえず夜話そう。俺も飯食ってこなきゃだし」
「そうだね」
そう約束を交わし、たくやは窓から出て行った。
私は夕食後、お風呂に入り、明日の授業の準備や予習を済ませ、たくやにラインをした。
『もうできる?』
すぐに既読がつき、返信が来た。
『もうちょい』
私は『わかった』と一言だけうち、ベッドに寝転んだ。
窓からは星が見え、寝静まった私たちの街を月が優しく照らしていた。
「あ、満月」
満ちている月を見上げ、私はほうと息を吐いた。なんでもない一日が終わりを告げようとしていた。
しばらくして、スマホの通知音が鳴った。たくやからだ。
『はなすか』
私は窓を開けた。彼も窓を開け、こちらに向かって手を振った。
「よう」
私とたくやは昔からこうして話すことが多かった。高校に入ってから回数こそ減ったものの、二時間以上話すことも度々あった。
「なんか久々な感じがするな」
「先週はテスト週間だったし、あんまり話せなかったよね」
「あぁ、そうだね。お互いテスト勉強で必死だったもんな」
「私は余裕だったけど?」
「よく言うぜ。二日前に『助けて』ってラインしてきたくせに」
「それは言わないでよお」
泣きたくなるくらい幸せな時間が過ぎていく。私はたくやが好きだ。一緒の高校に入れたときは、使い方が合っているか分からないが嬉しくて胸が張り裂けそうな気持ちだった。だからこうして話している時間も、私にとっては大切な、大切なひとときだ。
「まあ、何はともあれ、こうしてゆっくり話す時間はちょくちょくとっていきたいな」
たくやがぽそっと呟く。私は顔の緩みを抑えれず、にやけてしまった。こんな顔は見せられない。しばらく俯いておこう。
二人とも無言になり、ただただ甘酸っぱい時間が過ぎていく。私はこんな時間が永遠に続けばいいのに、このままずっとたくやと入れたらいいのに、と考えていた。
「そういえば」
空間を裂くかのようにたくやの声が走る。
「天井はあのまんまなのか?」
「あー、うん。今の所変化はな……」
ふと上を見ながらそう言いかけた瞬間、私は凍りついた。
「ん?おい。あかり」
「………」
「どうした?何があった?」
金縛りに遭ったかのように声が出ない。苦しい。なによこれ。なんなのよ。
「あかり!」
名前を呼ばれて反射的に彼の顔を見る。
「どうした?今日お前おかしいぞ?」
「たくや……」
「なんだ?」
「あれ……」
弱々しい声だと自覚しながらも、上を恐る恐る指差した。たくやが窓から屋根の上に乗り、こっちへ来る。彼が息を呑んだ音がした。
「……んだよ…これ…」
天井一面が水浸しなのだ。染みてるのではない。水浸し。明らかに物理的にあり得なかった。まるで重力が天井にあるような。コップを投げればそのまま天井に吸い込まれそうな、そんな気がした。
「あかり、椅子あるか?」
「え……?」
「ちょっと貸してくれ」
「何する気……?」
「ちょっと触ってみる」
「やめてよ!危ないじゃん!」
「大丈夫だって」
そう言うと彼はひょいと椅子の上に立ち、天井に手を近づけた。
あのとき、どうしてもっと強く止めなかったんだろう。
彼はたちまち水に吸い込まれた。私には何もできなかった。一瞬の出来事であった。
水の音がんだ時には、田んぼで鳴くカエルの声のみが響いていた。
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