元彼にもらった指輪を友人が私にくれた話 中編

 突然話しかけてきた彼は浅倉あさくらという男性で、私とは部署が違うものの席が近くにあるため、仕事中よく視界に入る。なんなら、目が合ってしまうこともたびたびあるような人だった。

 とはいえ、それ以外には何の接点もなく、よく考えたらこれが初めての会話だったんじゃないかというような具合である。よりにもよってなぜ、指輪をつけてきたタイミングで声をかけてきたのか、私には見当もつかなかった。

 美穂子の言葉――指輪をつけていても近づいてくる男がいたら、それだけ私に気がある、という仮説を信じる気にはなれない。どこかの見知らぬ男性から恋人を奪おうとするのであれば――それがどれだけ純粋な恋愛だったとしても――現実の世界では褒められたものではないだろう。まあ、実際彼氏はいないんだけど……。

 私に声をかけてきた理由は、私のことが本当に好きだからか、男女関係以外の目的があるからか、どちらかだろう。前者である可能性は限りなく低いので、私は後者――何か裏があるという推測に基づいて、慎重に行動していく必要があるのである。下手に心を許しては、何をされるかわからない。近づくことを認めたら、何を求められるかわからないのだ。


「えっと……浅倉くん、だっけ?」

 正直記憶も曖昧なので、散々言っておきながら浅倉という名前じゃない可能性さえある。

「覚えててくれたんですね」

 浅倉で合ってたらしい。

 浅倉くんは昼休みになったのを見計らって、私に話しかけてきた。嫌な予感がする。仕事の話であってほしい。だが、彼の手元には何の資料もない。仕事の話である可能性は低い。これやっといてくんない? と言われたいのだが、肝心の「これ」がどこにも見当たらないのだ。今はランチタイム。ということは、食事に誘われる可能性が高く――。

「いつもひとりで食べてるみたいなので、よければ一緒にどこかでお昼を取りませんか?」

 いつもひとりで食べてるみたいなので。

 余計なお世話だ。というか、観察してたのか? いつから? いったい何のために?

「あいにくだけど、今日は財布にお金をあまり入れてきてなくて……」

 嘘だった。ロッカーにしまってある財布は、使うタイミングを逃した千円札や五百円玉で溢れている。

「それなら、僕が食事代を出します。何でもいいですよ」

 ビジネス用に「僕」という一人称を使っているような雰囲気はない。普段から、物腰のやわらかい好青年という感じなのだろう。状況が状況でなければ、そして私が私でなければ、喜んで彼の胸に飛び込んだところだろう。

 しかし、指輪をつけていないときには声をかけてこなかったのに、よりによって指輪をつけはじめた日に声をかけてくるような男だ。きっと何かがあるに違いない。他人の女を奪うことに快楽を見出すタイプの男性だろうか。わからない。わかりたくもないが、彼は同僚なのだ。自分のすぐそばにある脅威には、警戒した方がいい。探れるときに、探っておいた方がいいだろう。

「それじゃあ、お願いしようかしら」

 高額なランチを奢らせてもよいのだが、何かのタイミングで「倍にして返せ」と言われると私のダメージが多大になるので、貸しは小さめにしておくべきかもしれない。

「一応、お財布は取ってくるね」

 椅子から立ち上がって私が言うと、彼は両手を前に出して制止する。

「いいですよ、僕が出しますから」

 彼は奢る姿勢を再度強調すると、わざとらしく腕時計に視線を落として言った。

「それに、ランチタイムは限られてますから。できるだけ長く、食事の時間を取りたいじゃないですか。善は急げです」

 善というか、お膳というところか。それに、善かどうかはこれから判断しなければならない。正直、胃がキリキリする。この状況で揚げ物でも食べようものなら間違いなく午後の業務に支障が出るだろう。野菜を中心とした、やさしいものが食べたい。

「このあたりのお店、詳しくないの。浅倉くんに任せてもいいかしら?」

「はい」

「あと、できるだけ意にやさしいものを。揚げ物はナシの方向で」

 コクリと頷いて、嬉しそうに振り返って歩き始める浅倉くん。いったい、私に何の用があるというのか。

 気を遣ってか歩幅を小さくする彼の後ろを、私はゆっくりと追いかける。


 OLというのは、草食動物の一種だと思われているのかもしれない。だとすれば、その思い込みの原因は間違いなく、我が社にも一定数いる「レタスサンドでお腹いっぱいになったフリをしているOL」や「ヨーグルトでお腹いっぱいになったフリをしているOL」などの生き物だろう。

 私は知っている。彼女たちのそれはあくまでも小食アピールおよび太ってないアピールであり、更衣室で隠れてハイカロリーな間食をしていることを。会社の外でお昼を取るときは、しっかりと腹いっぱい食べていることを私は知っているのだ。昼の時間も作業をしたいときは、軽食片手に小食アピールをしつつ、余裕のあるときはそとでアッツリ食事を摂ることで、バランスを取っている。それが私の知っているOLだった。

 タコライスがおいしいということで連れてこられたわけだが、タコライスと言うわりに「ライス」が少なく、たっぷりの野菜で胃袋を埋めていくスタイルである。浅倉くんはほぼ毎日ここで食事をしているということだったが、それが本当なら彼の方がよほどOLらしい生活をしているじゃないか。

 それにしても、何もない。

 妙な話を早々に切り出してくることはないだろうなとは思っていたものの、あまりにも優雅なランチタイムを過ごしている。

 休憩時間は長くない。そろそろ店を出なければならない時間だろう。腕時計を確認している浅倉くんにも、それはわかっているはずだ。人気のない場所ではないが、何かを切り出すにはちょうどいい、自分たち以外会社の人が誰もいない空間。今からそこを、出ようとしている。

 これでは、ただのデートではないか。

「お手洗いとかは、大丈夫ですか?」

「ええ、大丈夫よ。ありがとう」

 彼は小さく頷くと、テーブルの上に置かれた伝票を手に取って立ち上がる。店の人と目が合うと、伝票を掲げて、お会計の意志を表明した。エプロンをつけた女性が、早足でレジに向かう。

「先に会社に戻っても大丈夫ですよ。一緒に帰ってくるのを見られたら、色々と言われるかもしれませんし」

 浅倉くんはにこりと微笑む。

 噂されないように、という配慮かもしれないが、一緒に会社を出て行くところを見られているので時既に遅しという感じだった。むしろ「一緒に行ったはずなのになぜ別々で? 何かあったのか?」と余計な関心を引き起こす可能性さえある。

 彼の言葉に従うフリをして、微笑み返してから店を出た。ドアから少し離れたところで、彼を待つ。

 しばらくして、ドアが開く。待ち伏せに驚いた彼は目を見開いたが、すぐに目を細めて私に笑いかける。

「戻っちゃったと思ったから、驚きました。どうかしましたか?」

「それは、こちらのセリフというか」

 私の言葉に、浅倉くんは小さく鼻から息を吐く。少し眉が下がった。申し訳ない気持ちになったが、気にかけている場合ではない。真意が明らかにならなければ、またお誘いを受けることになりうる。何を考えているのかわからない相手とのランチなど、これ以上御免だ。早々に要件を済ませて、穏やかな昼食を取りたい。

 会社内に親しい同僚がいないため、昼休みはひとり作業しながらサンドイッチをかじる。そんな、寂しくも落ち着く生活を取り戻したいのだ。さわやか好青年との甘いひとときなど、私の人生には不要である。

「あなたの目的は、いったい何?」

 浅倉くんは腕時計に目を落とした。時間を気にするクセがあるのだろうか。それとも、何かやましいことがあって、気が散っているのを誤魔化しているのか……。

「歩きながらでも、いいですか?」

 私は頷く。


「理由はすごく簡単で、山根さんと仲良くなりたいからです」

 歩幅を合わせながら、彼は私の方を見ずに言った。

「仲良くなりたいっていうのは、どういうこと?」

「そのままの意味ですよ。山根さんと、お付き合いがしたいんです。彼氏彼女の関係になりたいってことですね」

 信号で立ち止まる。周囲に知り合いはいない。傍から見れば、仲のいい男女に見えるだろうか。いや、それはないだろう。恥ずかしさからか、胸のうちを読まれないためか、彼は目を合わせれくれない。表情を窺おうと見上げている私が、一方的に彼のことを慕っているように見えるだろう。心外だが、圧を与えるためには仕方がない。

「でも私、彼氏いるのよ? ほら、指輪」

 左手をひらひらと動かして見せるが、彼の目線がこちらに向かうことはなかった。浅倉くんの目は、変わる気配のない信号機に向けられている。

「ええ、指輪ですね」

「だから――」

「でもそれ、ニセモノじゃないですか」

 思わず、小さく声が漏れた。

 ニセモノ? この指輪が?

 たしかに、そうだ。これは美穂子からもらった男避け。全然男避けになってない、男避けの指輪。

 このタイミングで、彼は私を見下ろした。急に顔を向けられたため、私は驚きの表情に、さらに驚きを重ねてしまっている。

 なぜ、そのことを、彼が知っているのだ。

 よほど私が間抜けな顔をしていたのか、浅倉くんはふふっと笑った。

 自分より高い位置から向けられる、人の良さそうな笑顔。これがつくりものだとしたら、彼は相当演技派だ。


 弱みを握ったつもりか、次の日からも浅倉くんは私をランチに誘ってきた。断れば、指輪が「飾り」であることをバラされそうで、私は渋々、彼と共にお昼を過ごすことになったのである。

 しかし、特に何かを切り出してくることもなく、彼は純粋に、私との食事を楽しんでいるかのようだった。これ以上借りをつくらないために、きちんと自分の食事代は支払うようにしたが、不安や疑念は払い切れないでいる。

「結婚は考えてるんですか、将来的に?」

 彼とランチを摂る習慣が始まってから2週間ほど経過したある日のお昼。突然に浅倉くんから話を振られた。

「ゆくゆくは、なんて思ってるけど――」

 思っては、いるけれど。

「相手はいない、と」

 私は顔を上げて、わざとらしく眉をひそめた。それを見て彼は、困ったように眉の下げる。

 不信感は残れど、近頃私は彼に対して、妙な安心感や信頼感を抱くようになっていた。彼の表情を、愛おしく思い始めてさえいる。由々しき事態だ。

「そろそろ、僕とお付き合いすることを考えてみてもいいんじゃないですか?」

「そろそろ、浅倉くんの本当の狙いを話してくれてもいいんじゃないかな」

 質問に対して、質問で返す。


 毎日、私たちは同じ店で食事を摂っていた。そもそも彼がここを愛用しているのは、タコライスの「バランスと効率の良さ」に注目したからである。

「野菜も摂れるし、お米も食べれる。エビだったり挽き肉だったりで、タンパク質だって摂取できる。しかも、ひと皿で。こんなに簡単で、バランスのいい食事はないですよ」

 浅倉くんは、食に関心があるんだかないんだか、わからない人だった。毎日同じ食事を摂っていても気にはならないが、栄養については気にかかる。そのため、「毎日バランスのいいものを食べる」というのが、彼の習慣になっていた。私も食にあまり関心はなく、お腹が鳴らなければなんでもいいと考えている節はあったので、彼と食事を共にすることについて何も問題はない。

 同じような食事内容でも、話の内容は様々だった。浅倉くんは聞き上手で、引き出し上手だ。答えやすい質問をテンポ良くくれるので、会話が途切れることがない。それでいて、会話に疲れることもなかったので、正直心地が良かった。

 2週間、恋愛に関する話題が挙がることはなかったため、ここにきてこの話が出てきたことに、私は怒りとも悲しみともつかぬ、複雑な想いを抱いたのである。


「僕の気持ちを改めて知ってもらうために、今日はこんなものを用意してみました」

 浅倉くんはそういって、自分の横に置いたバッグの中を探った。私の位置から中の様子は見えないので、空になったボウルをぼんやりと眺める。綺麗に食べる人だなと感心した。

 悪いところはどこにも見当たらない。だが、いい人すぎるとそれはそれで男として見れないと、大学時代に美穂子が言っていたのを思い出す。彼はもしかしたら、その部類かもしれない。いい男というよりもいい人という要素が強すぎて、男性として意識する事が難しいのだ。

「はい」

 テーブルの上に出された彼の手には、何も乗っていなかった。

 手には――手の平には、何もなかったのだ。問題は、その先。指先だ。

「これって、もしかして……」


 浅倉くんの左手の薬指には、私のつけているものとそっくりな指輪がはめられていた。


「さて、山根さん。勝負をしましょう」

 顔を強張らせたまま、私は彼の目を見つめる。困ったような眉の下がり方だが、実際に困っているわけではなさそうだ。

「この指輪の正体を当てることができれば、僕はもうあなたに関わりません」

「外したら?」

「僕と付き合ってください」

 なんだ、それは。


 美穂子には、浅倉くんの話をしないでいた。

 なぜかはわからない。ただなんとなく――直感的に、この話題は避けた方がいいと思っていたのだろう。だが、そうも言っていられなくなった。私には、確かめなければいけないことがある。


 指輪をもらったあの日。酔った美穂子はわざわざ、元カレの買ってくれた指輪を、ショップのホームページで見せてくれたのだ。

「この、ピングゴールドのウェーブリングが、梢が今つけてるやつ。小さなルビーがアクセントね。で、こっちのシルバーゴールドのウェーブが、男性用。こっちはルビーじゃなくて、ペリドットかな」

 浅倉くんの指輪は、美穂子が見せてくれたものと一致していた。 


 私は美穂子に、メッセージを送る。

「美穂子の元カレなんだけど」

 打ち込んで、送信を押すのに少しためらう。目を瞑って、画面をタップした。


「もしかして、浅倉って名前だった?」

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