第9話 精神の変容



 ――好きです。

 ――ずっと、好きでした。


 ごめん、なんて言ったの、聞き逃しちゃって。

 クソッタレな台詞で踏みにじることは、できた。


 でも、その言葉には真心が宿っていた。

 溢れんばかりに溜め込んで、擦り切れるほどに磨き上げ、――こらえきれず、零れ落ちてしまった声だった。


 俺には、真偽を疑うことすらできなかった。

 ましてや、なかったことにするなんて。


「あっ……、その、私……、ごめんなさい、そんなつもりじゃ……っ!」


 狼狽しきった表情で、声だった。

 ぱっと弾かれるようにして、温もりが離れていく。

 入れ替わるように、外の感覚が押し寄せてくる。


 ざわめきがあった。

 それまでの乱雑な喧噪ではなく、指向性を持った困惑と驚愕、何が起きたのかとどよめく人集り。

 だしぬけに、同級生が先輩へ抱きついたのだ。

 告白の言葉はトラオ以外に聞こえなかっただろうけれど。


 告白。

 愛の囁き。

 縫依ちゃんが、俺に……? 


 邪推するわけではないけれど、ただ、理解がおいつかなかった。

 ずっと、なんて。

 最後に会ったのは小4の終わりだ。

 おまえはどうしようもないヤツなんだと、突きつけられた事実を受け入れられなくて、遠ざけている間に手の届かないところへ引っ越してしまって――


 密やかな声が廊下中に響いていた。

 視線が一点に集まっていた。

 くらくらするほどに、蛍光灯の光が眩しかった。

 理屈を追い越して、感情が溢れる。


 息を吸う。

 吸い込む。

 胸が膨らむ。

 隙間という隙間に空気が充填されていく。


 吐き出し方が、分からなくなる。


「っ、ぁ……、ぅ」


 吐き出そうとするたびに吸い込んで、喉は無意味に吃音を鳴らすばかり。

 ああ、いやだ。

 こんな風になるのが嫌で嫌で仕方なくて、だから頑張ろうとしていたのに。


 黒い瞳に俺の顔が写っていた。

 半開きの口、強ばった頬、ぴくりとも動かない不気味な眼。


 見られている。

 見られたくない。

 けれど、どうすることもできない。


 俺には、できなかった。


「――大丈夫? 

 凄い倒れ方したけど、怪我してない!? 

 真っ青な顔してたから……っ!!」


 トラオが言った。

 必要以上の大声で、叫ぶように。

 無数の雑音をかき消すように。

 場の全てを支配するように。


「保健室だね、分かった、すぐ案内するよ!

 歩ける? 

 無理そうなら、そこのデカいのがおぶうから」


 ちっこい手が背中を打つ。

 喉の栓が抜け落ちる。

 酸素が巡って、脳に届く。 


「いぇ、私――」


「分かった、任せろ!」


 笑ってしまいそうになる。

 こんなのが第一声だなんて、なにをしてるんだか。


 ごめんね、あとで、いくらでも謝るから――


 心の中で詫びを入れつつ、混乱した様子の女の子に手を伸ばす。

 うだうだする間にも目撃者は増え続けるし、見ている連中は勝手な解釈を喋り散らかす。

 そうなる前に情報を上書きし、迅速にこの場を離脱しなければ。


「えっ、ぁ、きゃっ」


 背中と膝裏、腕を回して抱き上げる。

 有無を言わせず、しっかりと、力強く。

 訓練された手順ではある。

 よどみなく体は動いた。

 ありがとう父さん。


 縫依ちゃんの体は軽かった。

 ……ごめん、まじでごめん。


「首に手ぇ回して!」


 トラオの真似をして大声を張った。

 これは人命救助であり、やましいところは一切ないのだと主張するために。

 声の圧に押された様子で、「は、はぃ……っ」と状況を飲み込めていない様子ながら、縫依ちゃんは素直に従ってくれた。


 花のような匂いが、ふわりと香る。

 白桃みたいになったちっちゃなかんばせが、すぐ横にあった。


「――ッ」


 唇を噛む。

 首の筋肉に全霊を込めて、まっすぐ前を向かせる。

 ……ぁ、やっばいこれ、首は首で、すべすべした手が――


「……」


 おいこらトラオてめえ何か言ってください頼むから!! 

 こいつマジかみたいな顔しないで!! 

 おい、はやく!! 

 いいから!!


「……、よし行くよ! 

 どいてどいて!! 

 病人を保健室に連れて行くから!!!!」


 これは医療行為医療行為医療行為。

 建前を念仏のように唱え、内なる感情に対抗する。

 

「わたし、たぶんおも……」


「軽いから」 


「……」


「軽いから」


 羽のように軽い。

 だから、感触なんて布に遮られてしまって分からない。

 そういうことにして、先導するトラオについていく。


 ――余談ではあるが。

 傷病者に意識がある場合、その精神的負担を考慮して、搬送方法は傷病者の希望に従うべきである。

 また病態が明らかでない場合、傷病者を動かさず応急手当のみを行い専門家の到着を待つことが原則だ。

 徒手による傷病者の搬送は、その場所が応急手当に適さない環境であり、なおかつ担架などが使えない場合に行う最終手段的緊急措置である――


 要するに、俺たちの行動は応急手当としては赤点もいいところで、保健室に辿り着いたあと、こってりしっかり叱られましたとさ。

 知ってるとも言えず、甘んじて謹聴する他なかった。








◇◆◇







「はいじゃあお説教はおしまいと言うことで、今から授業に出ても仕方ないし、6限の頭までのんびりしていきなさい。

 私は仕事してるからあんまり騒ぐんじゃないわよ、クソガキ共」


 養護教諭はそれだけ言うと、俺たちに背を向けなにやら電話をかけ始める。

 縫依ちゃんの両親への連絡なんかはお小言よりも先に終わらせていたから、ひょっとするとウチの父さんやトラオの両親への報告かもしれない。


「思ったより大事になっちゃったなぁ……」


 後悔に眉毛をへにょりと曲げて、トラオが言った。


「いやぁ、でも、助かったよ。

 俺は固まっちゃって、なんにもできなかったから」


「それな」


 一応気は遣っているのか、ひそやかに笑うトラオ。

 俺はと言えば、笑うに笑えず、顔を引きつらせて誤魔化すばかり。


 ひとまず、難は去った。

 縫依ちゃんは貧血で倒れた女の子、俺たちは突然のことに慌てて大げさな対応を取った先輩たち、校内での認識はそんなところに帰結するだろう。

 父さんには後からこっぴどく怒鳴られるし、トラオもなにかしら言われるだろうけれど、それはそれ。

 行動の中身はともかく、悪事を働いたわけではないのだから、そこまで酷いことにはならないはずだ。

 縫依ちゃんにしたって、仮病は仮病でも、もともと体が弱い子で、顔色が悪かったのも事実だからそうそう疑われはしない……と思う。


 考えるべきことは、もうほとんど無かった。

 必然的に、意識がそこに吸い寄せられる。


 女の子の体って本当にふにふにしてるんだなぁ、とか。

 6年ぶりだけど、縫依ちゃん可愛くなってたなぁ、とか。

 あんなに可愛い子に告白されるとか、夢じゃないんだろうか、とか。


 ……ずっと好きだったのなら、どうしてあんなことをしたんだろう、とか。


「わっかんねーなー」


 思わず、口に出る。

 奥の方で先生がごにょごにょやっているぐらいで、基本的に静かな保健室、静かな時間だ。

 真横に座っているヤツが聞き逃すはずもなく、「それな」と定型文ながら真面目腐って頷かれる。


「おまえみたいなのが童貞捨てられるのに、どうしてボクは」


「ぶふっ」


 世の不条理を嘆く声だった。

 思わず吹き出し、膝を叩く。


「おまえそれ信じてたのかよ、嘘に決まってるだろバーカ」


「はぁ? 

 おま、ハァ!? 

 だっ、えっ、でもさっき」


「彼女いたこともねーよ。

 告白はまぁ……何回かされたことあるけど」


「死ね」


「やだよ」


 ぱちん、右手を叩かれる。

 ぷすり、爪の先で突き刺す。

 ぷすり、左手を刺される。

 ぺちん、右腕にしっぺ。

 ぱちん、三本指ではたかれる。

 ぺちん、右腕にまたしっぺ。

 ぺちん、しっぺが返ってくる。

 べちん。


「はい俺の勝ち」


「後手必勝じゃんそれ」


「乗ったのおまえだろ」


 どつかれる。

 どつき返す。


「だいたいおまえ、女性ファンからDMやらチアやらチョコやらもらってるだろ」


「あれはノーカン。

 てかそれ入れるんなら……これ以上はヤバそうだから止めとこ」


「えっなにどうした」


「や、なんか……なんとなく」


 はぁ。


 会話が途切れる。

 電話もいつの間にやら終わっていて、かたかたパサパサ、小さな物音が響くばかり。

 

 記憶が再生される。

 耳の奥で声が跳ねる。

 それを振り切っても、抱きすくめられた感触は消えてくれない。


「せんせー」


 唐突に、トラオが声を上げた。


「トイレ行ってきてもいいー?」


「……せめてお手洗いと言いなさい。

 授業中だから静かに行くように」


「はぁい」


 溜息をつく先生を尻目にやけに親しげなトラオが去って行く。

 ……こいつ、そんなに慣れ慣れしい振る舞いをするほど保健室のお世話になっていただろうか。

 授業中に堂々と鼾をかくことこそあれど、サボりはしていないと記憶しているのだけれど。


「仲良いんですか?」


 問いかけに、養護の先生は首を振る。


「顧問なだけだよ」


「えっ、先生が? 

 養護教諭って部活の顧問もやるんです?」


「どっかの誰かたちのせいで何人かの首が飛んだからね。

 人が足りてないんだ」


「……」


 藪蛇だ。

 思わぬ皮肉に閉口する。


 去年の今頃のことだ。

 もともとあった同好会を潰して今のe-sports部を作るため、トラオには結構な無茶をさせた。

 そう、のだ。

 実行犯はあいつでも、教唆したのは俺。

 最終的に6人の進退を左右するほどの事件だったのだから、教員相手には隠しきれない。

 ……で結構悪さしたからなぁ。


「責めやしないけどね。

 ただ、あんまり無茶はしないように」


「……はい」


 何かを含めるように、先生はカーテンの向こうへ視線を飛ばす。

 仮病、バレてるなぁ……。

 養護教諭は本職の医師ではないとはいえ、経験豊富なカウンセラーだ。

 こどもの嘘なんて、それこそこどもだましにしか感じられないだろう。


 それでもはっきり指摘されなかったのは――


「……自分も手ぇ洗ってきますね」


「あいよ。

 なんだったら戻ってこなくてもいいからね」


 苦笑いを返事に代えて、俺は保健室から退散した。








◇◆◇







 一番近いトイレに足を踏み入れると、水音が聞こえてきた。

 ぱちゃぱちゃと水面を弄ぶような音だ。


「……なにしてんだ?」


 声をかけると、そこでようやく気がついた様子で顔を上げるトラオ。

 その肌には水が滴り、額には髪の毛が海藻みたいにうねうねと張り付いていた。


「ほい」


 どうせ持ち歩いてないだろうからと、ポケットから出したタオルハンカチを投げ渡す。

 ヤツはそれを無言で受け取り、しかし顔を拭こうとはせずじっと見つめる。


「今日はまだ使ってないけど」


「ん? 

 ぁ、や、そういうんじゃなくって。

 ありがと」


 会釈して、何事もなかったように顔を拭くトラオ。

 ……なんだったんだ? 


「どういう関係?」


「はい?」


 どういう意味か分からす、俺は聞き返した。

 言葉数が少なすぎる。


 しかしトラオは言い直すでもなく、湿ったタオルを四角く畳んで「ん」と突き返してくる。

 挙動不審が過ぎる。

 だからと言ってどうすることもできず、戸惑いつつも受け取ったタオルをポケットにしまう。


「あの娘と。

 一目惚れとかじゃなくって、昔からの知り合いなんでしょ」


「……ああ。

 幼なじみだよ。

 ウチの父さんと向こうの両親の仲が良くって……、俺が小学生の時にどっかに引っ越してったんだけど、ちょうどこの間帰って……戻って? 

 とにかく、またこの辺りに越してきたらしくって」


「で、何年か越しにばったり再会、離れてた分気持ちは強まりって? 

 カーっぺっ、同類みたいな顔しといてやることやってんねえ!」


 ハンバーガーチェーンでたむろしてるヤンキーのような声だった。

 童顔のトラオには似合わない。

 ただ、笑い飛ばすような気分にもなれず、俺は洗面台に手をついて顎をさする。

 あっ、剃り残し。


「正直嫌われてると思ってたからなぁ……」


 手癖で摘まんで引き抜いた。

 ちくりと、一瞬の痛み。


「そういう風に言われても、うぅん……、困る」


「はぁ? 

 再会して早々告白されるような関係で? 

 無理があるでしょ」


「分かる」


「いや分かるんかーい」


 分かるからこそ、余計に困るのだ。

 最初から嫌われていたということはないように思う。

 ほとんど毎日いっしょに帰宅し、夕暮れまであのゲーム部屋で遊んでいたのだ。

 託児所の代わりと言うべきか……、保護者側の都合が多分に作用した状況ではあったのだろうが、純粋にそれだけだったとも考えにくい。


『みんな、一矢くんとゲームするのつまんないって』


 確かに、縫依ちゃん自身の言葉ではない。

 勝手に気まずくなって距離を置いたのは俺の方だ。

 そう考えれば辻褄は合う……だろうか。


 幼い時分のことだ。

 細かな記憶は抜け落ちてしまっていて判然としない。

 けれど、状況証拠と伝聞情報からして、矛盾はやはり、あったように思う。


「あれだあれ、つべの広告で良くある感じの……ウソコクっていうんだっけ」


「あっそれ昨日見たわ。

 あんなんホントにやるヤツいるのか?」


「いないだろうけどシチュエーション的には近くない?」


「……確かに近いけどさぁ」


「あはは」


 笑い話じゃあ、ないんだけれども。

 俺は半笑いで水道のレバーを倒す。

 流れる水を手のひらに溜めて、顔面にびしゃりと投げつける。


「あんまり気にしすぎなくても良いんじゃない?

 昔は昔、今は今って……、なにやったか知らないけどさ、割り切ったから、本気で目指すって決めたんでしょ」


 つまらなそうに前髪を整えながら、トラオが言った。

 鏡越しの瞳が語っていた。

 どうせ断るんだろ、と。


 無言で、顔を拭く。


 俺たちにとっての1番は、ゲームだ。

 ゲーム以外、ありえない。

 恋愛事に興味がないとは言わないけれど……、優先度がダントツで違う。


 特に、今は。

 覚えるべき知識、習熟すべき技術は無数にあって、今もなお、

 そして、勝負の土俵は、それら全てを一定以上の水準で身に付けた先にあるのだから。 

 辿り着くまで、他事に割く時間など一切無い。


 その、はずだ。


「明日のことだけどさ――」


 この話は終わりだとばかりに、トラオは今後の計画について喋り出す。


 俺が考えていたのは『公式大会への出場権を得られるゲーム内ランキング30位を目指してエルドラドのランクマッチを回しつつ、余裕を見て他の競技タイトルを練習する』。

 そして、『その過程を放送することで知名度を上げて、5月頭にあるプロチームのトライアウトでのアピールポイントの足しにする』という、メインとサブをはっきり区別した計画だ。


 それに対してトラオが提案するのは、『生放送による知名度を最大のアピールポイントとしてトライアウトを戦う』というもの。

 プロのストリーマーらしい考え方だ。

 垂涎もののノウハウを惜しげも無く開帳しながら、トラオは俺の育成計画を説明していく。


 ――恵まれていると、強く思う。

 プロゲーマーを目指す身分として、これ以上の環境は望むべくもない。

 だから、あとは自分が頑張るだけ。


 けれど俺は、気もそぞろで、ただ受け身に聞き入るばかり――















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