第零話


 ―今日みたく、時々私はこんな風にして一人で留守番をやらされている。妻はというと、息子を連れていつものように勤務先近くのモールへと羽を伸ばしに行っているのだ。


 近頃イッツ・ア・スモールビジネスとかいう子供たちが色んな仕事体験をすることが出来る、一種の遊び場のようなものが流行っていて、ちょうどそのモールの中にもつい最近になってそいつが参入してきたわけだ。


 そこに子供を預けておくだけで、母親たちは併設されたカフェなんかでのびのびと長話を堪能することができるのだ。


 まあ、その間私の方もこうして安らかに物思いに耽ったりすることが出来るわけだから、なかなか悪くないものだと思う。


 ちょうど今なんかは、ぼんやりと遠くの山の尾根などを眺めながら、そう、例えば、私が営業で初めてこのロベルトンに来た時の事などを思い出していたのだった。


 あの時はまさか自分がこの界隈で暮らすことなんか予想もしなかったし、そもそも、営業先の担当者をあっさりと嫁に貰ってしまうなんて、あの時代、一体どこの誰が想像できるだろう。


 結婚式なんかはこじんまりとした辺境の式場で、ちょっとばかし豪華なホームパーティーといった感じで挙げただけだったのだけれど、あの頃は何だって意外なくらい楽しめた。


 おまけに課長と同僚のキルマはそこの隣にあった廃墟で幽霊を見ただとか言い出す始末で、まあ、何だかんだ言いながら今思い出してみると、たとえそんな風にちっぽけで素朴な出来事でも、垢ぬけてちゃんといい思い出に仕上がっているものだ。


 太陽はもうずいぶんと山の方に下がって来ていた。空の高い所に、鳥の集団が山の向こうを目指して帰って行くのが見えた。そういうのを見ると、不意にこうして一人で留守番をしているのが、どこか寂しい気もしてくるもので、あれだけ喧しくて不愉快に思った朝の光景も、去ってしまった波がまた裾元へ戻るのを心待ちにするみたいに恋しくなってくる。



 玄関の方でかちゃんと音がして、ただいま、といつもの声が聞こえた。するとすぐに小さな足音がどたどたとこちらへやってくる。


「こら、先に手を洗って」


 妻の声がした。そうすると、またどたどたと落ち着きのない足音が私から離れていった。


 密かに寂しさから救われた私はとにかく何でもいいからと会話を始めた。ちょうど、その時に、あのちっぽけな式場が思い起こされた。


「あ、ジェレーナあのさ、結婚式上げた式場の隣にあった廃墟の名前何だっけ?課長が幽霊を見たってうるさかったよね。あれからだよ課長が祟りだの何だのとうるさくなったのは…」


 妻は洗い終えた小さい手をタオルで拭いながら少し考えていた。


「オメガ…、工業だか産業だか、なんかそんな名前だったんじゃない?何の会社か分からないけど、私が子供の時からあんな感じだったから、きっとおじいちゃんたちの時代かもね」


「…ふうん」


 もうすっかり満たされていた私は、最後の方は半分聞いていなくて、息子と一緒になって、新しい映画の予告に夢中になっていたのだった。


 オレンジの光が息子の横顔を優しく照らしている。そう、私の休日と言えば、決まっていつもこんな風だった。

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オメガ産業 SI.ムロダ @SI-Muroda

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